第17話 信用という名の昼餉
――轟音。
建物が崩れる音。赤と青の光が視界を切り裂く。
熱いのに、凍える。
矛盾した感覚に、頭がぐらぐらと揺れる。
「澪!!」
誰かの声。
必死で叫んでいる。息が切れて、泣いているような声。
暗闇の中、視界の端に少年の顔が浮かぶ。
滲んで、誰だかはっきりしない。
ただ、強い腕に抱き上げられている感覚だけは残っていた。
「離せ! 澪は……澪は、俺の――」
言葉の続きを聞く前に、世界はぐしゃりと音を立てて崩れる。
――夢は、そこで途切れた。
澪は汗に濡れて飛び起きた。
鼓動は荒く、胸の奥がざわざわと疼いている。
「……なんなんだよ、これ」
喉まで出かかった言葉を噛み殺し、布団に潜り直す。
夢の内容は誰にも言えなかった。
もし話せば、現実と繋がってしまう気がしたからだ。
(……ただの夢、ただの夢だ)
そう自分に言い聞かせながら、胸の奥のざわめきを押し殺した。
スマホの履歴を辿る。
八年前の異能暴発事件。氷炎の夜。
記事に載るのは――事件現場で倒れていた子供と、その傍らにいた少年。
「……俺の異能じゃない。俺の職輪転化は、こんな大惨事を起こせるわけがない」
不気味な記事の文面。
毒物。
急に襲撃してきた謎の男。
そして昨日現れたイノ研の、意味のわからない言動と行動。
頭の中で点が勝手に線を描き始める。
「あー……もう」
気付いている。
本当は、もう答えに手が届いている。
けれど――その答えを自分の口で認めることが、どうしようもなく怖かった。
「……調べなきゃよかった」
呻くように呟いた後、澪はスマホを放り投げるようにベッドに倒れ込む。
重たい空気が胸にのしかかる。
だが次の瞬間、彼は顔を上げて叫んだ。
「いや! こんなときはポテチだろ!! ジャガイモは裏切らねぇ!!」
バサッと引き出しを開ける。
だが、中は空っぽ。
「……おい、俺のポテチどこ行った」
冷蔵庫を開ける。もちろん空っぽ。
「……誰だ、俺の生活から炭水化物を奪った奴は! イノ研か!? 陰謀か!?」
空腹で崩れ落ちながら、澪は天井に拳を突き上げる。
「くそぉ……! せめて、コーラ……コーラだけでも……!」
ふらふらと立ち上がり、コンビニに行こうと靴を履く。
その瞬間、胸の傷がズキンと痛んで、盛大につまずいた。
「……もうだめ。俺、このまま“空腹死”ってニュースに載る」
床に突っ伏しながらも、心の中でだけは真剣に叫んでいた。
(頼む……コーラかポテトで、俺を救ってくれ……)
***
結衣は買い物袋片手にメモに書かれた手書きの地図を頼りに周囲を見渡していた。
(夕凪荘……この古い建物かな)
目の前に建っていたのは、昔ながらの木造アパート。
壁には年月を感じさせる染み、外廊下はところどころ軋んでいる。
結衣は一度深呼吸してから、足を踏み入れる。
ギシッ。
予想通り、木の床が鳴った。
その音が妙に響いて、彼女は思わず足を止める。
(……本当にここに、綾瀬さんが)
ふと、近くの部屋から
「うわああああ!!」
という絶叫が聞こえてきた。
「……ッ」
悲鳴が聞こえた部屋、203号室には確かに綾瀬とプレートがある。
この悲鳴がただごとではないと結衣はドアノブを握り、勢いをつけて開こうとする。
「綾瀬さん……!」
ドアノブを力強く引いた瞬間――。
――バキィッ。
乾いた音とともに、ドアノブが見事に千切れた。
「……」
手の中に残る鉄製のノブを見つめ、結衣は小さく瞬きをする。
(……またやってしまった)
心の中で深く頭を抱えながらも、外見はいつも通りの涼しい顔を崩さない。
その時、中から慌ただしい足音と声。
「やべぇやべぇやべぇ!! 火ぃ消えねえ!! うおおお!!」
ドアの隙間からうっすら煙が漏れてきて、結衣は即座に紙袋を置いた。
「綾瀬さん、失礼します」
涼やかな声でそう告げると、彼女はそのままドアを蹴り飛ばした。
――ドガァンッ!
203号室のドアが内側に倒れ込む。
その向こうで、澪が頭をバスタオルでバシバシ叩きながら飛び跳ねていた。
「ぎゃああ!? なんで結衣さんがここに!? てかドアぁぁぁ!!」
煙の中で飛び跳ねる澪の前に、結衣は崩れたドアを跨いで入ってきた。
手にした買い物袋を少し持ち上げ、淡々と告げる。
「……九重さんに頼まれました。昼間のご飯を用意してあげてほしいと」
「昼ご飯!? 結衣さんのご飯食べられるの? やったー! っていうか俺、今それどころじゃ――頭燃えてる! 消火器、消火器ィィ!!」
澪がバスタオルで頭をバシバシ叩いているのを、結衣は無言で見つめていた。
その落ち着き払った視線が逆にプレッシャーとなり、澪は余計に慌てふためく。
「……落ち着いてください。火はもう消えてます」
「あ、あれ? ほんとだ。焦げ臭ぇけど」
澪はタオルを外し、チリチリになった髪を慌てて手で探る。
その間に結衣は紙袋をテーブルに置き、自然な動作で袖をまくった。
「それより、食事の準備をします」
「え、ええっ!? マジでお昼ご飯作ってくれるの? てか、結衣さんの手作り!?」
動揺する澪をよそに、結衣は迷いなくキッチンへ向かう。
アパートの古びた床がギシギシと鳴るたび、彼女は小さく眉を寄せたが、作業の手を止めることはなかった。
「……九重さんの言葉通りですね」
「な、なにが?」
「“澪は目を離すとすぐ炎上するから、ご飯はちゃんと食べさせてあげて”と」
「やらかして居場所なくなった人みたいな言い方やめて欲しい!」
髪を適当に直した澪は、無惨に内側へ倒れ込んだ玄関扉を見つめていた。
「でも、なんで結衣さんに頼んだんだ、あいつ。……いや、嬉しいけどさ。ーーあ、留め具も完全に死んでるわ」
しゃがみ込んで部品の残骸を拾い上げる澪を横目に、結衣はキッチンで蛇口をひねろうとした。
細い手首に力がこもり、金属がミシリと軋む。
(……まずい。折れる)
自覚した瞬間。
「あ、そういえば結衣さん!」
澪が顔をひょいと出した。
ーーーパキンッ。
嫌な音がしたはずなのに、蛇口はそのまま素直に回り、水が普通に流れ出す。
「えっ……?」
結衣は一瞬、指先を見つめた。
今の感触は、確かに折れる寸前のそれだった。
だが結果は、まるで最初から何もなかったかのよう。
「わざわざ来てくれてありがとうございます! 結衣さんの料理食えるとかマジで神展開! 幸せすぎる〜」
澪は無邪気に笑い、全く気付いていない。
その横顔を見ながら、結衣はわずかに眉を寄せ、胸の奥に言葉にならない違和感を沈めた。
結衣は眉を寄せたまま、流れる水にそっと指を添える。
今の感触は確かに壊れかけだった。
だが結果は、何事もなかったように蛇口は無事。
(……気のせい、でしょうか)
結衣が小さく息を吐いたとき、背後から騒がしい声が飛んだ。
「いやー、結衣さんの手料理とか……俺、今日死ぬ予定あったっけ!? 幸せで成仏しそうなんだけど!」
「まだ生きていてください。まだ何もしていません」
無表情で返しながら、結衣はまな板に材料を並べていく。
澪はというと、後ろで正座して拝むようなポーズを取り、鼻息荒く見守っていた。
「はぁ〜……すげぇ……包丁さばきが速すぎて指落としそうで怖いけど、それすら美しい……」
「……落としません」
包丁の音だけがリズムよく響く。
結衣の手際は淀みなく、古びたアパートの台所が急にプロの厨房みたいに見えた。
「やば……もう結衣さんの飯、生涯食いたいランキングぶっちぎり1位に入った」
「……ランキングに他の候補はいますか?」
「いません! オンリーワン!」
真剣な声で叫ぶ澪に、結衣はわずかに瞬きをして、すぐ視線を食材へ戻した。
その頬がほんのり赤いことに、澪は気付かない。
***
湯気の立つ皿がテーブルに並べられた。
野菜炒め、味噌汁、そして焼き魚。
どれも見た目は家庭的だが、ひとつひとつの手際が丁寧で、彩りも鮮やかだった。
「お待たせしました。簡単なものですが」
結衣が椅子を勧めると、澪はキラキラと目を輝かせて座り込む。
「うおお……これが結衣さんの手作り飯……! 俺、世界一幸せ者だわ!!」
勢いよく箸を伸ばし、まずは焼き魚を一口。
次の瞬間――。
「うまっ!」
椅子から飛び上がりそうな勢いで叫ぶ澪。
「やっべぇこれ! 俺の舌が踊ってる! 魚が歌ってる! メルヘン!!」
「……歌いません」
結衣は淡々と突っ込みながらも、わずかに口元を和らげた。
澪は次に味噌汁を啜り、両手で器を掲げながら感涙する。
「あったけぇぇ……! 俺、今日死ぬ? 最期の晩餐ってこういうやつ!?」
「……生きていてください」
結衣は箸を持ち直し、自分の分を静かに食べ始める。
その隣で澪は
「うまい!」
「最高!」
を連呼しながら頬を緩め続けていた。
しかし、少し落ち着いた後。
澪は、ちらりと結衣を見た。
「でも、結衣さん……良かったんですか?」
「……何がですか?」
澪が赤面しながら味噌汁を口に運ぶ。
湯気が僅かに表情を隠すが、その赤みは隠しきれない。
「いや、ほら。昼間は大学で忙しいだろうし……それに、男の家だし」
「問題ありません」
結衣は一呼吸置いて、真っ直ぐに言った。
視線は揺れない。
「……信用してますから」
澪の胸に、熱が一気に広がった。
それは火のせいではなく、確かに心臓の奥からこみ上げるものだった。
(あー、好き。もうダメ。完全に好き……!)
澪は心の中で何度も好きと繰り返し、目の前のご飯をもう一口頬張った。
熱い味噌汁の味が、妙に胸に沁みた。
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