第13話 普通を守るために
一週間後。
洛陽市の繁華街にある某焼肉店。
「うっっっめぇえ!」
肉と米を口いっぱいに詰め込んで、澪はほっぺをパンパンに膨らませた。
「おい、噛めよ。飲み物じゃねぇんだから」
「んぐ……ごくっ! うま!」
無理やり飲み下した澪が満面の笑顔を見せる。
だが次の瞬間。
「いっててて!」
胸を押さえて澪は顔を顰める。
「ちょっ……まだ胸の傷、くっきり残ってんだろ。暴飲暴食して痛がるとかバカじゃん」
「いや……肉の誘惑に勝てなかった……」
「いやじゃない。こっちは、噛んだだけで内臓出るんじゃないかって思ってたんだから」
呆れながらも、言真はトングで肉をひっくり返し、澪の皿に置いてやる。
「でもさ……退院祝いの焼肉だろ? こういうのは思いっきり食ってなんぼだって」
「そう言ってまたイテテってやるだろ。ほら、今度はレバーにしなさい。鉄分、鉄分」
「くっ……この焼肉奉行め」
ぶつぶつ言いながらも、澪は素直に熱々のレバーを頬張る。
「うんま! やっぱ肉って正義」
「はいはい。……でもさ」
言真がトングを置き、真顔になる。
それだけで、箸を止めた澪の表情から笑みが薄れていった。
「襲撃のこと……覚えてるか?」
「……っ」
白いご飯に箸を入れたまま、澪は視線を落とす。
肉の煙が間に漂い、重くなる空気。
「銀髪のやつ。風を操って……理不尽にボコボコにされた。逃げるどころか、触ることすらできなかった」
声は震えていた。
言真は黙って、それを聞いていた。
澪の胸の奥には、まだあの時の恐怖が残ってる。
「……あんとき、本当に死ぬかと思った」
「でも生きてる。……お前は今ここで、肉食って生きてんだ」
言真はそう言って、強くトングを握り直す。
鉄板の上でジュウ、と音を立てて肉が焼けた。
「俺が必ず正体を突き止める。……お前はただ、普通に食って、普通にバイトしてろ」
「……正体、か。なあ、言真」
澪は水を一口飲み、真剣な眼差しで言真を見据える。
「変異体って……なに?」
その言葉に、言真の表情が固まった。
「あいつが言ってた。変異体は排除するって」
「……なるほどな」
言真は頭をぽりぽりと掻き、少し間を置いて頷いた。
「簡単に言えば、本来の異能が変質した存在のこと」
「変質? 職輪転化って毎日変わるけど、それって仕様だろ?」
「……そういう変化じゃない」
言真は低い声で続ける。
「お前ってさ、八年前のこと覚えてないよな」
「八年前……事故のこと? 全然。気づいたら昏睡から目覚めてて……」
「そ。あの時のお前の異能は、桁違いに強力で……異常だった」
澪は眉を寄せ、じっと言真を見た。
だが言真はそれ以上、言葉を続けなかった。
「……でもそれが枯れて、今はショボい職輪転化になったってこと?」
「ショボいって自分で言うな。……枯れたわけじゃないけど、そこは気にするな」
言真はトングで肉をひっくり返しながら、わざと軽く笑った。
横顔には一瞬だけ影が差したが、すぐに煙と一緒に誤魔化す。
「……じゃあ俺、本当は何者なんだよ」
「それは、今はまだ言わない」
「はぁ!? めっちゃ気になるんだけど!」
「気にすんな。とりあえず肉食っとけ」
ジュウ、と脂が跳ねる。
澪は渋々ながらも箸を伸ばし、白米と一緒に肉を頬張った。
「……ん~~! やっぱり肉は正義!!」
「はいはい。結論、生きて食うのが一番ってこと」
二人の声と笑いが、店のざわめきに紛れて溶けていった。
「明日からまたバイト探さないとな」
澪がテーブルに置いたスマホを手に取ろうとした瞬間、言真が素早く奪い取った。
「お前、何考えてんの?」
「へ?」
きょとんとする澪に、言真の顔に影が落ちる。
「ついこないだまで死にかけてたやつが、退院一週間で即バイト? お前、働かないと寿命縮む体質なの?」
「いや、そういうわけじゃ……でも、バイトしないと異能が……」
「異能はなくても死なない。けど、今働いたら傷口がヤッホー。オーケイ?」
「え、でも……生活リズムが狂うとさぁ」
「澪くーん」
にっこり笑った言真の声は、氷点下だった。
「“死にかけ→退院→即バイト”ってサイクル、どこの厚生労働省が認めてんの?」
「厚労省案件!? いやいや、普通だって!」
「お前の普通は、だいたい普通じゃない」
澪は不満げな表情を浮かべながら水を飲み干す。
「でも……異能、使えなかったら役立たずじゃん……」
「役立たずは俺だけで十分。お前はただ飯食って寝てろ」
「いや役立たずって自分で言った!?」
「うん。自己申告制。はい禁止決定。異論は一切認めません」
言真は奪ったスマホをポケットにしまい込んだ。
澪は手を伸ばすが、片手で額を押さえられて届かない。
「返せー!」
「やだ」
「親か!」
「担当官です」
「やってることが、オカン!」
焼肉の煙の中、店内の隅で二人の攻防は妙に目立っていた。
***
「ええ……澪くん、やばすぎ」
オフィスでげんなりしていた日菜のデスクに、紙コップのコーヒーがコトリと置かれる。
「ちゃんと申請した? 定時にうるさいし、夜間申請しとかないと給料出ないわよ」
滝口梢が空いた席に腰を下ろし、コーヒーを啜る。
「もちろんです! あれ、でも梢さんも残業ですか?」
日菜が尋ねると、梢は引き攣った笑みを浮かべ、深く溜息を吐いた。
「物損の報告書がね……」
「あー……結衣ちゃんですね」
「ええ。結衣ちゃんが蛇口を握ったら折れたって。そんなの報告書にどう書けって言うのよ……」
梢はこめかみを押さえながら、机に積まれたファイルをちらりと睨む。
「いやいや、それもう超常災害の枠でいいんじゃないですか?」
「ダメよ。登録異能者の日常事故は、全部人為的物損扱い。つまり、私が書くの」
「うわー……お疲れさまです」
日菜はぺこぺこと頭を下げながら、コーヒーを両手で持ち直す。
「でも結衣ちゃん、悪気ないですもんね。触っただけ、みたいな」
「そうなのよね。だから余計に厄介」
梢は一口コーヒーを飲み干し、ふっと口元を緩める。
「でも、あの子は律儀だから。報告書を提出すると必ず“ご迷惑をおかけしてすみません”って一筆添えてくれるのよ」
「結衣ちゃん、真面目〜!」
「ええ。本当に真面目。……だから余計に目が離せないのよね」
梢はタブレットを手に物損のリストを見て、再び肩を落とした。
しかし、すぐに日菜のパソコンの画面を覗き込み、目を細める。
「そっちは……綾瀬くん?」
「はい。彼、自己治癒力が異常です。内臓ぐちゃぐちゃに骨折フルコースで瀕死だったのに、一週間で退院って。人間の回復速度じゃないですよ」
「……それも彼の異能? 職輪転化で、そんな効果が出るのかしら」
「んー、たぶん違いますね。八年前の“例の事故”の時の異能が、まだ奥に残ってるんじゃないかって」
日菜はキーボードを叩きながら、淡々と続けた。
「今の職輪転化は表の顔。本当の能力は、もっと規模も影響力も大きかった……そう考えた方が筋が通るんですよ」
「……なるほどね」
梢はタブレットを閉じ、しばし沈黙した。
その横顔には、いつもの書類疲れとは別種の緊張が滲んでいる。
「ただ、澪くんに当時の能力が再覚醒したら……とんでもないことになります」
「そんなに? いくら強いと言っても……」
「梢さん。澪くんの職輪転化の“本質”って、わかります?」
「本質……?」
澪の異能・職輪転化。
アルバイトをすることで、その職業に基づいた特性を異能として発揮する。
効果は勤務終了後から二十四時間で切れ、その後には“脳とろ”という代償が来る。
梢は改めて整理しながら、首を傾げた。
「職輪転化は、彼の本来の異能の枝分かれした一部。バイトを媒介にして異能を切り替えることで、無意識に“安全装置”をつけて負荷を抑えているんです」
「負荷を抑える……? でも、彼の代償って今でも十分重い気がするのだけれど」
日菜は首を横に振った。
「脳とろは変わらない。でも、澪くんの本来の異能って……」
そう言って日菜はキーボードを叩き、モニターに別ファイルを呼び出した。
そこには八年前の事故当時の観測記録が映し出される。
破壊された街区の航空写真。
通常の異能反応をはるかに超える数値。
そして「A級認定不能――規格外」という赤字の判定。
「これって……!」
梢の瞳が戦慄いた。息を呑む音が室内に響く。
日菜は淡々と告げた。
「はい。八年前の異能暴発事件。 綾瀬澪は、都市を一瞬で消し飛ばす規模の力を確かに発揮していたんです。あの時は、全体に及ばなくてマシでしたけど」
沈黙が落ちる。
梢はタブレットを握りしめ、しばし言葉を失っていたが、やがて低く呟いた。
「……でも今の彼は、ただのバイト青年よね。普通に笑って、普通に暮らしてる。それだけは間違いない」
「そうなんです。だからこそ、その普通を崩そうとしてる連中がいるんですよ」
日菜はチョコを一粒つまみ、口に放り込みながらも視線を逸らさなかった。
甘さよりも、画面に映る赤字の判定の方が、ずっと重く胸に残っていた。
「……再覚醒は、まずいってことね」
「はい。澪くんの存在が危険視されます」
日菜の言葉はさらっとしているのに、内容だけは重たい。
梢は眉間を押さえて、深くため息を吐いた。
「はぁ……胃薬増やそうかしら」
「ですね。経費で落ちます?」
「下さいって言えばくれるでしょうね。休暇つきで」
「因課って、ホワイトどころか甘々ですよねー」
日菜は、けろっと笑いながら飴玉を口に放り込む。
「でも、澪くんのこと、規格外の怪物って言われるの、なんかピンと来ないんですよね。ご飯食べて幸せそうに笑う姿しか想像できない」
「……そういうとこが余計に厄介なのよ」
梢は紙コップのコーヒーを飲み干し、机に置いた。
「さ、報告書に戻るわ。結衣ちゃんが椅子を粉砕した件、まだ書いてないし」
「うわぁ……女神、やばすぎ」
二人のデスクには、重たい記録とくだらない愚痴が同居していた。
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