第12話 生きて、笑え
生命維持装置の波形が、規則正しく上下している。
電子音が一定のリズムで鳴り、病室の空気を満たしていた。
酸素マスクと数々の管に繋がれた澪は、目を閉じたまま眠り続けている。
――助かった。生き延びた。
最悪の事態にはならなかった。
手を握ると、まだ温かい。
その温度が、細い希望を繋ぎ止めてくれていた。
だが、それ以上は何も返ってこない。
言真はベッド脇の椅子に腰を下ろし、じっと澪を見つめていた。
目の下には濃い隈。表情はやつれ、普段の軽さはどこにもない。
「……またずっと寝てるつもりじゃないよな、澪」
独り言のように吐き出す声は、かすかに掠れている。
「八年前……。小さなお前を抱えて泣き叫んだ時、俺は何もできなかった。結局、誰かにすがるしかなかった」
握る手に、自然と力がこもる。
「だから因課に入ったんだ。二度と無力でいないために。お前を守るために。……なのに、またこうしてベッドに寝かせて、俺は何やってんだよ」
自嘲の笑みを浮かべようとしたが、声は震え、喉がつまる。
「目を開けろよ、澪。くだらない冗談でもいい。“バイト代入ったから焼肉だ”とか、“怪力でドアノブ壊れた”とか……どうでもいいこと言って笑わせろよ。……そういうお前が好きなんだからさ」
返事はない。
ただ電子音と波形だけが、静かに生命を示している。
言真は額に手を当て、長く息を吐いた。
背筋を伸ばすでもなく、椅子から立ち上がることもなく、ただその場を動かなかった。
眠り続ける澪を前に、彼の瞳は揺らぎながらも、決して離れようとしなかった。
***
因課・情報処理室。
篠原日菜は、モニターに映る綾瀬澪のデータを眺めながら首をかしげていた。
オレンジから赤紫へと溶けるように変わるロングヘアは、彼女の明るい性格を象徴するかのようだ。
普段は落ち着いた服装を好むが、その印象を覆すほど表情は快活だった。
「うーん……澪くんって、ふたつの勢力から同時に狙われてるんだよね」
ぶつぶつと独り言を言っていると、デスクの上に小さな包みが置かれた。
「篠原くん。頭を使うときは甘いもの。ちょっと食べてリラックスしなよ」
「わー! ありがとうございます!」
上司に手を合わせるように礼を言い、日菜は包みを開いてチョコを口へ運ぶ。
一口かじると「おいしー」と頬を緩めた。
「で、何か分かった?」
上司が声をかけると、日菜はもぐもぐと噛み終えた後にぐいっと椅子を横へずらした。
パソコン画面を、上司にも見えるように向ける。
「澪くんに毒物を送りつけた人と、襲撃して殺しかけた人。行動が全然一致してないんですよ」
日菜の表情がきゅっと真剣になる。
「毒を送りつけた人物は、澪くんを追い詰めて“不安定にさせる”のが狙い。――つまり、本来の力を引き出したかったんです。逆に殺しかけた方は、澪くんを徹底的に“排除”しようとしてた。目的が真逆なんですよね」
「目的が逆……?」
上司が眉をひそめ、画面を覗き込む。
「ええ。だから、澪くんを巡って、少なくとも二つの勢力が動いてるのは確定です」
日菜はカタカタとキーボードを叩きながら、複数のデータファイルを並べる。
監視カメラの映像、通信記録、郵送物の経路解析。情報処理室にしか集められない断片が一つの線に重なりつつあった。
「一方は澪くんの力を覚醒させたがってる。もう一方は澪くんを消したい。……でも、どっちも正体不明」
上司は腕を組んだまま、しばし沈黙した。
「……綾瀬くんは、まだ気づいてないんだよねぇ」
「本人は完全にただのバイト青年って顔してますね。むしろそこが危なっかしいかも」
日菜は口を尖らせながらも、モニターを睨む。
「主任、言真さんに追加の護衛要請出します? それとも様子見?」
上司は短く唸り、決断を下した。
「……九重くんに連絡を。今回の件、もう偶然や遊びじゃ済まされない。正式に監視強化だ」
「了解!」
元気に返事をした日菜は、デスク横の引き出しから新しい飴玉を取り出して口に放り込む。
「澪くん、ほんとトラブルメーカーだなぁ。でも……」
ぽつりと、画面に映る青年の顔を見つめながら呟く。
「なんか、放っとけないんだよね」
日菜はまとめた解析メモを送信し、軽く息を吐いた。
「ふたつの勢力……澪くんを追い詰めようとする側と、殺そうとする側。目的が全然違う。……何で今になって同じ人を狙うんだろ」
小さく呟きながら、机の上のチョコの包みをひとつ摘まんで口に入れる。
甘さが舌に広がり、思考のざらつきを少し和らげた。
「……まあ、病院には直接行かない方がいいよね。言真くん、ピリピリしてるだろうし」
独り言のように呟きながら、再びパソコンを操作する。
閉じた資料をもう一度開き、画面に走る文字列を追い始めた。
(気になる。もっと細かい行動パターン、突き合わせてみよう)
***
澪の横で、言真は椅子に腰かけ、ただ無言で見つめ続けていた。
酸素マスク越しにわずかに上下する胸。
その動きが止まらないことだけを、必死に祈っていた。
ポケットのスマホが震え、画面に通知が浮かぶ。
《至急:綾瀬澪の監視強化。情報処理室より報告あり》
言真はちらりと目を落とし、既読をつける。
それだけでスマホを伏せ、二度と視線を戻さなかった。
「……監視だの何だのより、まずは生き延びさせるのが先だろ」
小さく呟き、澪の手を握る。
かすかな温もりが、まだそこに残っている。
「……起きたら何でも美味いもん食わせてやる。だから、早く――」
その瞬間。
澪の指先がわずかに動いた。
言真は息を呑み、その振動を逃さない。
「……に……く……」
微かな声に、言真の喉が震えた。
「……開口一番がそれって、本当にお前らしいよ、澪」
澪の瞼がわずかに開き、焦点の合わない視線が彷徨う。
酸素マスク越しに、途切れ途切れの声が零れた。
「……襲われた……俺、殺されかけた……」
「……襲われた? 誰にだ」
言真の声が低く鋭くなる。
澪は首を振りかけて、苦しげに目を閉じた。
「……銀髪……風で……胸を……貫かれて……壁に磔にされて……」
その言葉に、言真の眉がひそむ。
自分が駆けつけた時には、すでに瀕死で倒れていた澪しか知らない。
「……そんな奴が……」
「……理不尽に……ただ、ボコボコにされて……何もできなくて……」
澪の声は震え、恐怖に濁っていた。
悔しさよりも、理不尽さに押し潰されている。
言真は歯を食いしばり、澪の手を強く握った。
「いい。お前は瀕死になりながらも生きて帰ってきた。それだけで十分だ」
「……俺……なんかした……?」
「何もしてない。生きるだけでいい。お前の普通を守ってやる」
澪は視線を逸らし、酸素マスクの奥でかすかに唇を動かす。
「……退院したら……肉……」
「ああ。山盛りでも何でも食わせてやる」
言真の答えに、澪の力が少しだけ抜けた。
その手は弱々しく握り返されたまま、再び眠りへと沈んでいった。
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