第11話 襲撃者
因課・薬物分析室。
白衣を着た職員が机に小瓶を置き、モニターに検出データを映し出した。
「成分分析、終了しました。想定通り猛毒です。爪先に触れただけでも呼吸困難を起こす危険な毒物です」
小瓶を睨みながら、言真は静かに息を吐く。
「……やっぱり、澪を狙ってるのか」
上司は腕を組み、困ったように眉をひそめた。
「紙に貼り付けて玄関ポストに投函。あえて気づかせるための手口だろうね。綾瀬くんのメンタルは大丈夫?」
「ええ。退院してからは、元気にバイトしてますよ」
言真の答えに、上司はさらに首をひねる。
「狙いは“殺す”じゃなく“追い詰める”。毒そのものより、“送りつけられた”という事実で本人も周囲も不安定になる。……綾瀬くんが不安定になるのは危険だ。こないだの凍結事件も、それが引き金だったかもしれない」
言真はいつもの飄々とした笑みを浮かべていたが、その目だけは冷たく鋭かった。
「あいつは、平和ボケして笑ってるのが一番似合うんです。だから、澪の“普通”を崩させるわけにはいかない」
分析官が慎重に小瓶を回収しながら頷く。
「この薬は証拠として保管します。製造経路を追えば、何か掴めるかもしれません」
「お願いします。……澪には伝えません。余計に不安にさせるだけですから」
上司がちらりと視線を向け、肩をすくめる。
「ほんと、綾瀬くんのこと大好きだねぇ、九重くんは」
「担当官ですから。……仲良しですよ、俺達」
軽い調子で笑ったその目の奥は、氷のように冷えていた。
(毒を送りつけるなんて、遊びで済まされるはずがない。澪に手を出すやつがいるなら、必ず炙り出して潰す)
――その時。
カーン、と軽快な定時チャイムが鳴り響いた。
分析室の空気が一瞬にしてゆるみ、職員たちが口々に声を上げる。
「お疲れさまでーす!」
「さ、帰って一杯飲も!」
ざわめきと笑い声に包まれる中、言真は小瓶を見やりながら小さく肩をすくめた。
(……ホワイトで平和。それでいい。澪には、そのまま笑っていてもらう)
***
「うおお……すげぇ」
ビルの窓拭きバイトを終えた帰り道、澪はふらふらと歩いていた。
本日授かった異能は――透明化。
ガラスのように体を透過させ、存在そのものを隠すことができる。
隠密行動においては申し分ない力だ。
しかし――。
「隠れる理由ねぇしな。すげぇけど、使い所がなー……」
腕を組み、唸りながら歩く。
そんなとき、不意に頭上へ影が差した。
「ん? ……って、どわあああ!!?」
看板が細切れに裂かれ、刃の雨のように降り注ぐ。
反射的に横へ飛び退いた澪の頬を、鋭い金属片がかすめた。
「……っ、な、何だ今の……!」
震える声が漏れる。
周囲を見渡しても、歩行者も車もない。誰もいない。
静まり返った路地の空気だけが、異様に冷たい。
その次の瞬間。
「――ぐっ!」
見えない砲丸のような風が襲い、澪の身体を吹き飛ばした。
背中が壁に叩きつけられ、肺から空気が一気に吐き出される。
「がはっ……! いっ……てぇええ……っ!」
骨が軋む。視界がぶれる。
足に力を込めようとしても、膝が震えて立ち上がれない。
「……綾瀬澪」
眠たげな声と共に、銀髪の青年が姿を現した。
灰青の瞳は、氷のように冷たい。
「変異体は生かしておけない」
その言葉と同時に、風が刃に変わる。
目に見えない切断線が走り、澪の肩口を裂いた。
鮮血が飛沫のように散る。
「あああああッ!!」
絶叫が路地に響く。
逃げようとするが、透明化したところで気配を風に読まれている。
次の一撃で、胸を風の刃が貫いた。
「うっ、ぐ……がはっ……!」
壁に叩きつけられ、そのまま磔にされるように風圧が押さえつける。
血が喉を逆流し、口端から赤く滴った。
「生きてるのが不思議なくらいだな。だが――」
青年は冷淡に呟き、トドメを刺すべく足を踏み出す。
「終わりだ」
しかし、その瞬間。
カツ、カツ、と乾いた靴音が近づいてきた。
通行人か、巡回中の警察か。
姿は見えない。だが確かに人の気配がある。
青年は舌打ちし、風を引き戻した。
「……面倒だ」
次の瞬間、気配ごと霧のように掻き消え、夜風だけが残った。
磔にされていた風が消え、澪の体はずるずると壁から崩れ落ちる。
すでに意識は薄れていた。
「……っ、た……すけ……っ」
弱々しい声は途中で途切れ、澪はその場に倒れ込む。
吐き出した血が頬を伝い、石畳を濡らしたまま、澪の呼吸は細く途切れていった。
***
言真は家に帰らず、そのまま澪の部屋へと向かっていた。
先日の凍結事件に毒の件。
不穏な兆候が積み重なったまま、胸のざわつきが消えない。
(殺すのが目的じゃないって……じゃあ、どうして本物の毒物を送るんだ?)
上司や分析官とのやり取りが脳裏をよぎる。
言真には、澪の命が狙われる理由が薄く繋がって見えていた。
「八年前の事故――」
あの出来事は、澪の初覚醒による暴発だった。
思い返すだけで、言真の顔が陰を落とす。
路地を進み、ふと視線が奥へ吸い寄せられた。
黒と白を基調に、ところどころオレンジが差す派手な髪色が見える。
「……澪?」
足を速めて近づくと、目にした光景に言真の瞳が強ばる。
地面に広がる黒い影、壁に飛び散った赤。あちこちに崩れた跡がある。
「澪っ!!」
胸を赤く染めたように見える服の人影が、路地に倒れていた。
言真は駆け寄り、浅く乱れる呼吸を確かめる。意識はなく、体は震えている。
「くそっ、誰がこんなことを……!」
いつもの軽口は消え、言真の顔色は蒼白に変わった。
震える手で澪を抱き上げる。因課の搬送班が来るまでの時間さえ惜しい。
「待ってろ、澪。すぐ連れていく、必ず――」
澪の心臓が止まらない限り、俺が守る。
そう決めていた言真は走り出した。
***
因課直轄の医療施設。
澪が搬送されてから数時間が経ち、集中治療室の扉が音を立てて開いた。
医師が短い足取りで廊下を進むのを見て、長椅子に座っていた言真が跳び上がるように立ち上がった。
「先生! 澪は……澪は、大丈夫ですか!?」
言真の問いに、医師は頷きも否定もしなかった。
代わりに、やや俯いて言葉を選ぶように口を開く。
「内臓は、あらゆる箇所が刃物で刻まれたように損傷しています。骨も複数箇所骨折、心臓に迫る刺し傷もありました。今も生きているのが不思議なほどです」
「そ、そんなに……」
言真の声が小さくなる。医師は冷静さを保ちつつ、しかし厳しい調子で続けた。
「普通の人間なら、とっくに――助からないでしょう。ですが、こちらは全力を尽くします。今夜が峠になるはずです」
言真は言葉を返せず、ただ頭を下げた。
医師は短く頷くと、ふたたび集中治療室へと戻っていく。
廊下で動く白衣の群れ、機材の忙しない音。
言真の目は自然と、集中治療室の赤い表示灯へ吸い寄せられた。
「澪……」
八年前の夜の断片が、言真の胸の奥で疼く。
小さな澪を抱え、助けを叫んでいた自分。
今、同じ血の温もりを感じながら走った自分。
記憶の輪郭が震える。
「……今度こそ、守るから。だから、生きてくれ」
言真の声は震えていたが、確かな決意がこもっていた。
赤い表示灯が静かに点滅し続ける。
その光を見つめながら、言真は拳を固く握った。
夜はまだ長い。
だが、彼が生き抜いてくれると信じるしかなかった。
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