第10話 砕ける日常、滲む影
洛陽工科大学理工学部・機械システム工学科。
実験棟の一角から、ガラスが砕ける音や金属の悲鳴が響き渡った。
「うわっ! なに今の音!?」
「……あー、また女神の轟きだな」
「女神? なんだそれ」
廊下に集まった学生たちが、ざわざわと実験室の方を覗き込む。
「知らないの? 触れたもの全部壊す――握力女神」
「え、マジであの噂……?」
怯えたように顔を見合わせる男子学生に、女子学生が小さく笑みを漏らした。
「そう。その人、この前の異能フードフェスで大活躍してたでしょ」
「あ……! クールで、ちょっとドジで……でもめっちゃ可愛いって噂の……」
実験室の奥で、破砕した試験片を片付けている姿が見えた。
握力女神の異名を持つ、理工学部の先輩。
水瀬結衣だった。
***
結衣は、割れたビーカーの破片をトレイに集めながら、小さく息をついた。
(……また壊してしまった)
力を入れているつもりはない。
ただ、軽く握っただけ。
少し力加減を誤っただけ。
それだけで、試験片や器具が簡単に粉々になる。
「水瀬さん、大丈夫? 怪我は?」
「問題ありません。すみません、また片付けます」
実験班の後輩が慌てて駆け寄ってきたが、結衣は淡々と答えて首を振った。
怪我をしないのは、鋼腕の異能を持つ彼女にとっては当たり前のこと。
(普通に扱っているつもりなんだけど……)
割れたガラスを見下ろしながら、結衣はほんの少しだけ眉を寄せた。
周囲の視線が気になる。
けれど、気にしていては研究が進まない。
白衣の袖を整え、ノートに記録を付け直す。
彼女にとっては「よくある実験の一幕」に過ぎなかった。
しかし、一部の生徒が嘲笑に似た小声で話す。
「またやってるよ。壊してばっかで教授も可哀想〜」
「絶対、来る場所間違ってるよね〜」
その声に結衣は反応しない。
ただ、割れた試験片を静かに片付け続ける。
だが次の瞬間、背後から高らかな声が響いた。
「へぇ〜、教授の器より先に、あんたらの器が小さく割れてるんじゃない?」
振り返れば、ピンクと黒のツートンヘアを揺らしながら、スマホ片手に姫乃つばさが立っていた。
にこっと笑ってはいるが、瞳の奥はまったく笑っていない。
「うわ……出た、インフルエンサー……」
「ねぇ、今“またやってる”って言った? 逆に聞くけど、あんたら何か作ったことある? 壊さない人ってのは、つまり挑戦してない人って意味じゃん」
皮肉を軽やかに突きつけるつばさに、生徒たちは顔を見合わせ、口を噤むしかなかった。
「ほらね、黙る。SNSじゃ匿名で強気でも、ちょっと小突かれたら逃げるんだもん」
「は? SNSって……」
「結衣の匂わせ悪口言って、盗撮までしたでしょ。昨日の十五時七分投稿。――結衣に何かしたら、ネットで生きられないくらい燃やすから、覚悟しときな」
にっこり笑って告げるその声音は、ぞっとするほど冷たい。
生徒たちが青ざめる中、つばさは結衣の肩に腕をかけた。
「安心しなって、結衣。壊しても、それ以上に面白いの作れるって、あたしは知ってるからさ」
結衣は一瞬だけ目を瞬かせ、やがて静かに頷いた。
「ありがとう。でも、今のは脅迫になるから……私は大丈夫」
「あたしは大丈夫じゃないんだよ。ついカッとなると燃えちゃうし燃やしちゃう。でも、今回は引いとくわ」
ふっと笑うつばさに、結衣も口元だけ柔らかくなった。
「……さて、実験室戻るけど。つばさは授業は?」
「サボる。だってインフルエンサーだし〜。でも、マブのピンチは見過ごさない主義だから、参上した」
つばさは軽口を叩きながら、スマホを構えて自撮りモードに切り替える。
結衣を横に引き寄せ、ピースサインを作ってシャッターを切った。
「はい、今日も握力女神と一緒。#工科大の日常#もの壊す女神」
「……投稿やめて」
「安心して。結衣は映ってないから。雰囲気だけ」
結衣は小さく息を吐き、破損した試験片を拾い上げた。
指先がわずかに震える。掴んだ瞬間、パキンと小さな音を立てて砕け散る。
「あ……」
「いいじゃん。壊した分だけ、また作ればいい。ほら、次いこ次」
つばさの言葉は軽い。
けれど結衣にとっては、その軽さが妙に支えになっていた。
「そういえばさ、澪くんのことなんだけど……結衣って知ってる? 事故のこと」
唐突に声のトーンを落としたつばさに、結衣は小さく瞬きをして顔を上げる。
「事故?」
「八年くらい前にあったじゃん。【異能暴発事件】。洛陽市の一部地域が吹っ飛んだってやつ。……あれ、該当異能者は去年まで昏睡状態だったらしいんだよね」
つばさはスマホを見ながら、さらっとした口調で続ける。
「ネットじゃ“都市伝説レベル”って言われてるけど……内部じゃ割と有名な話っぽい。で、名前が――綾瀬澪」
結衣の手が一瞬止まった。
試験片を拾おうとした指先に、自然と力が入り……カチリと音を立てて、破片がまた砕け散った。
「……初耳です」
「だよね。だから、フードフェスの芋虫ヒーローやら、レンカレで澪くんが来たとき吃驚したんだよね」
つばさは肩をすくめ、いつもの軽さを取り戻したように笑った。
「あたしは思うわけ。澪くんが“普通”でいるのは、めっちゃ尊いことなんじゃないかなーって」
結衣は黙ったまま、砕けた試験片を静かに机に置いた。
胸の奥がざわついているのを悟られないように、呼吸を整える。
(異能暴発で街を吹き飛ばした……? でも、綾瀬さんの異能は“職輪転化”。バイトで能力を得る、あの……不便で、どこか滑稽で、でも誠実な力のはず……)
耳の奥で自分の心音が強く響く。
昨日まで隣を歩いていた青年と、伝え聞いた“怪物”の姿が、どうしても結びつかなかった。
***
つばさと別れた帰り道。
結衣の足は、自然と因課の建物へ向いていた。
(……本当に、綾瀬さんが“異能暴発事件”の当事者? 信じられない。でも、気にならないと言われれば嘘になる……)
登録管理課のカウンターに顔を出すと、見慣れた担当官がこちらに気づいた。
「結衣ちゃん? どうかした?」
「滝口さん。……ひとつ、聞きたいことがあります」
結衣の声は落ち着いていたが、その奥にある緊張は隠しきれなかった。
梢は眉を寄せ、椅子を引いて座るように促した。
「どうしたの」
「綾瀬澪さんのことです。……彼の過去に、“事故”があったと聞きました」
短く沈黙。
梢は結衣の真剣な眼差しを受け止め、ため息をひとつ吐いた。
「……誰から聞いたの?」
「……友人からです」
「なるほどね。軽々しく流れていい話じゃないんだけど……他言しないというなら。特に本人には」
梢の目が鋭さを帯び、息を飲んだ結衣が頷く。
それは“軽率に扱えば命に関わる情報”だと告げていた。
梢は腕を組み、少し考え込む。
「結衣ちゃん。まず前提として、綾瀬くんは“今”は登録済み。担当もついてる。危険視される存在じゃない。それは忘れないで」
「……はい」
「それで、昔の話。あの事故に、居合わせた職員が確かにいる。私の同期もそう」
梢は一瞬、視線を伏せた。
「詳しいことは、機密だから言えないの。でも、地域ひとつが吹っ飛んだのは事実。怪我人は出たけど、死人が出なかったのが不幸中の幸いね」
「…………」
「あの場にいた職員は“生きてるのが不思議”って、口を揃えてたわ」
「……そんなに」
「彼自身は、その時からずっと昏睡状態で、去年まで目を覚まさなかった。彼に故意があったわけじゃない」
結衣は小さく息を呑む。
梢は机越しに身を乗り出し、まっすぐ彼女を見つめた。
「結衣ちゃん。今の綾瀬澪は、ただのバイト青年。そこだけは、忘れないで。変わらずに接してあげてね」
結衣は小さく頷き、目を伏せた。
気味悪さではなく、同情でもない。
ただ、彼のことは知っておきたかった。
それが何故か、答えはわからない。
(やっぱり……綾瀬さんは不思議な人)
***
結衣は、夕暮れの風に髪を揺らした。
梢との会話が頭の奥で反芻する。
(八年前の異能暴発事件……綾瀬さんが、その“当事者”)
足を止めて、空を見上げる。
群青色に染まり始めた空に、一番星がひとつ滲んでいた。
(でも、今の彼は……道端で焼き鳥を頬張って、バイトに奮闘して、くだらない冗談で真っ赤になる、表情豊かな明るい人)
自然と唇の端がわずかに緩む。
(普通でいることが、きっと一番すごいことなんだ)
足音が石畳に淡く響く。
結衣は胸の奥で芽生えた小さなざわめきを抱えながら、真っ直ぐに帰路を進む。
その表情は、いつも通り無表情のはずなのに、どこかほんのりと柔らかかった。
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