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九章

「ご自分が命を狙われていることを、どうお考えなのか」

 キューウェルが長いため息をついた。

 バンフィールド邸の一室。深夜にもかかわらず、館は慌ただしい空気に満ちていた。

 ソフィアのせいだ。勝手に宴から姿を消し、街で騒ぎを起こした――その事実は、エステルの采配でおおやけにならずに済んでいるらしい。

 しかし、当然、すべてを完全に隠蔽できたわけではない。その後始末のために、エステルは今も不在だった。

 キューウェルは疲れた顔だった。目の下色濃い隈がある。

「……ユルの誘惑に乗ったのは、どういうおつもりですか?」

 彼は、ソフィアをそそのかしたのがユルだと決め込んでいた。

 テーブルを挟んで、大尉と真正面から向かい合う。

「ユルが誘ったのではありません。わたしが自分から、街に出ると言ったんです」

「いや、俺が連れ出したんだ」

 扉の近くに寄りかかっているユルが言った。

「退屈だって言うから、騙して外へ誘い出した」

「ユル、嘘をついてかばおうとしてくれて、ありがとう。でも、わたしは自分の意志で――」

「ああ、そこまで」

 キューウェルが頭痛をこらえるように、肘を突いた手で額を支える。

 彼の心中は察して余りある。その点には、少し罪悪感を感じていた。

「……なるほど、だいたいわかりました。世間知らずのあなたに、ユルが一方的に取引を持ちかけてつけこんだ……そういうわけではないのですね。考えてみれば、こいつは悪知恵も働くし、なにをしでかすかわからない男だが、あなたを騙すような悪辣さは持ち合わせていない」

 その口調には、ある種の諦念があった。

「取引したんだよ」

 ユルの態度は、いつもどおり堂々としていた。

 キューウェルのもとに出頭したときから一度も悪びれた態度を見せていない。それどころか、少し怒っているようでもあった。

「忘れたんじゃないだろうな。ソフィアはこの世でただひとり、俺を殺せる女だ。俺は、そのためにバンフィールドに従ってきた。……いずれ、乙女に俺を殺させるという条件でだ」

 部屋の空気が急速に緊張を帯びた。

 話の焦点が、ソフィアからユルに移ったのがわかる。あるいは彼女をかばうために話をそらしたのだろうか――しかし、キューウェルを見るユルの視線は冷たい苛立ちを帯びている。

「その話を乙女の前でするな」

「ソフィアを救った。連れてきた。で、あんたはいつ段取りをつけてくれるんだ?」

「……少佐は、約束の期限を定めていない」

 その返答には、わずかに躊躇と迷いの気配があった。厳しい顔をしてはいるものの、キューウェルの言葉には本来あるべき冷徹さが欠けている。

「そう急ぐな。お前がその無茶をする癖をなくせば、時間はまだある」

「そうか。じゃあ、俺が死ぬのは『都合がいいとき』ってわけか」

「おい、ユルを拘束しろ。地下にぶちこんでおけ。暴れるなら武器を使った鎮圧を許可する――頭も冷えるだろう」

 キューウェルが話を打ち切る。

 合図とともに、控えていた軍人が前に歩み出る。ソフィアは一瞬、ユルが彼を殴り倒すのではないかと恐れた。

 しかし、ただ皮肉っぽくこう言っただけだった。

「バンフィールドに言っておけよ。必ず取り立てる(・・・・・)

「……」

 軍人がユルを乱暴に扉の外へ押し出した。

 そのまま、ふたりは廊下へと出ていく。扉が閉まったあとには、ソフィアとキューウェルのみが取り残された。重い空気が息苦しくて、ただ沈黙していることしかできなかった。

 ガン!

 びくりとして顔を上げる。キューウェルがテーブルを殴ったのだ。その表情には、見間違えようもない怒りが浮かんでいた。しかし、ソフィアがいることを思い出したのか、それきり大尉は感情をしまい込んだようだった。

「失礼。取り乱しました」

「いえ……」

 ソフィアがユルと出会ってから、わずか二週間ほど。キューウェルやエステルとはもっと短い。

 最初は、彼らの関係を単純なものだと考えていた。エステルは厳しい上官なのだろう。ユルは反発を覚えているのかもしれない。キューウェルは、そのあいだに立って苦労しているようだ……。

(違うのかもしれない……)

 そんなふうに軽々しい理解をしてはいけないのかもしれなかった。

「……彼をなんとか軍人らしく仕立て上げたのは、私でしてね」

 キューウェルが唐突に口を開いた。

「軍人らしくは言いすぎかな。まあ……仕事をなんとかこなせる程度には従順になった、と言ったところです。八年見てきました。……そして、そのあいだに痛感したことがある。あれにとっては、死は救いだということです」

 ソフィアには、ただテーブルを見つめていることしかできなかった。

 今となっては、彼女にもそれが理解できたからだ。

『味がしない』と言ったときのユルを覚えていた。ナヤと戦ったときにはかたくなに弱みを見せることを嫌っていた。無理に串焼きをすすめると、強い拒絶にあった。

 そんな彼が打ち明けてくれた崩壊の予兆――。あのときあの瞬間だけは、ソフィアに自分を見せてくれた。

 ユルの不死は不完全だ。

「私も時々そう思うことがある。救いがあるのなら、与えてやるのがいいのではないかってね」

 キューウェルは疲れ果てているようだった。

「しかし、私は軍人です。今はまだユルの望みを叶えてやる時ではないと命じられれば、従うしかありません。それに、個人的にもユルを死なせるのは忍びない」

「少佐が……そのように命じているのですか」

「ええ。あなたとユルを引き離せと命じていたのも、少佐です。……あなたが絆されて、ユルを殺してしまっては困ったことになるので。しかし、我々の選択は彼にとってなにより残酷なのでしょうね」

 そこで、迷いを見せる。

「……少佐は私費でユルの不死について研究しています」

「研究……?」

「その不完全性を取り除くためのものです。ですが、進捗のほどははかばかしくないようだ。私も詳しくは聞かされていませんが……」

 ため息を吐く。

「鍵が足りないと」

「……ユルが、普通の身体に戻る方法があるんですか……?」

「それを見つけようとしているんです……ああ、こんなことを乙女に打ち明けてしまうとは……」

 本当は言ってはいけない秘密だったのかもしれない。キューウェルはそれ以上言わなかったが、ソフィアはなんとなくそう察した。

 思わず前に身を乗り出す。

「……わ、わたし。彼を殺したくなんてありません。もし、彼を救えるなら……!」

 ユルを救う方法があるかもしれないという希望が、心拍数を上げる。

 もし……もし不死でなくなるのなら、彼だって死にたいなどとは思わなくなるはずだ。そうしたら……。

(ユルといられる)

「忘れてください」

 キューウェルが言って、ぎくりとする。

「今話したことを誰にも言わないでください。ましてやユルには」

「で……でも、教えてあげれば、もしかして希望を持ってくれるかもしれません……」

「私はその希望を抱いては八年過ごしました。あなたに忠告するとしたら、希望はときに人を呪い、苦しめるということです。特にそれが、叶いそうにもない希望のときは」

「……」

「ともあれ……」

 キューウェルはちらりと壁の時計に目をやった。

「今日はそろそろあなたを解放しなければならない時間です。あなたの起こした騒ぎについては、少佐からじきじきに尋問があるでしょう」

「待ってください、大尉」

「ここまでです。しばらく、あなたもその希望を抱いて考えてみるといい」

 ソフィアにはそれ以上言い募ることができなかった。

 大尉の穏やかで紳士的な宣告。それは、彼の言葉の正しさを証明している。

 ユルにこのことを告げることはできそうにない。


 ――太陽が昇る直前の、本当に暗い時間。

 ソフィアは眠れずにベッドの上に横たわっていた。……眠れなかった。ただ暗い天井を見つめていた。

 そのせいだろうか。

 窓の外の木が不自然にざわめいたのに気づいた。

 身体を起こす。予感めいたものがあって、枕元に置いていた短剣を手に取った。

 窓ガラスがはじけ飛ぶ。

「――!」

 すさまじい音のあとに、静けさが落ちた。窓の外に、異形の黒い影があった。

 こちらを覗き込んでいる。

「かあさま……こんなところにいたの……」

 ひそやかに聞こえてきたのは、ナヤの声だった。

 忘れようもない。ソフィアはごくりと喉を鳴らし、ベッドボードに背中を押し付けた。無意識に身体が逃げようとしているのを感じる。

 眠れなかったのは、彼の接近を感じていたからだろうか。

「……まだそっちへ行っちゃいけないの? いつになったらいいの?」

 影は悲しげですらあった。

「わ……わたしはあなたの『かあさま』じゃない」

 ようやく、それだけ言うことができた。

 みぞおちのあたりになにかが重くわだかまる。

 ここで彼の誤解を解くことは、もしかして危険かもしれない。『かあさま』だと思わせておいたほうが、安全だ――そう思わなくもなかった。

「違う。かあさまはかあさまだよ。ずっと探してた。かあさまが死んじゃったあの日から」

 しかし、ナヤの声があまりにも彼女の心をかき乱す。化け物の声は哀れを誘った。彼が実験の産物であることを知ってしまったからだろうか。

「……死んでいるの、その人は。わたしは生きてるわ」

「なんで? でも、ここにいるよ」

 混乱に声が震える。

「……わからない。頭が痛い……」

「お願い……わたしはかあさまじゃない」

 静けさが落ちる。

 バンフィールド邸が騒がしくなるのを感じた。窓が割れた音のせいだ。

「怒らないで、かあさま。ぼくが悪かったよ。だから、怒らないで……今日は帰るから」

「……」

「また来る……そのときに、許してね……」

 影は、あっさりとどこかへ消えた。まるで最初からいなかったかのように。

 ばたばたとした足音が廊下から近づいてくる。

「乙女! 入ります!」

 扉が開いて、軍人がふたりなだれ込んできた。

 ソフィアは、ただ呆然と窓を眺めているしかできなかった。また逃げようとしたと疑われないように言い訳をしたほうがよかったのかもしれない。しかし、そんなことはまったく思い浮かばなかった。

(『かあさま』のもとへ行きたい……?)

 胸に兆した予感が、心臓にひんやりと忍び込む。

(その人がすでに亡くなっているのなら、それは……)


「ふむ……なるほど」

 窓辺にたたずむエステルには、光がそそいでいる。

 朝のまぶしい太陽が部屋に差し込んでいた。

 ――ナヤの襲撃から数時間後。

 ようやく帰ってきたエステルは、そのまま休みもせずにソフィアのもとを訪れた。ひととおり部屋を見て、割れたガラスを調べ、事情を聞く。

 そして、窓辺に立ったまま嘆息した。

「ナヤか……」

 お互い、一睡もしていない。ソフィアは鉛のような重さを頭の奥に感じていた。一方エステルは、いつもどおりだ……疲れた様子もなく、背筋を伸ばしている。

「……ユルと同じ実験施設にいた不死だ。私が発見をしたときには、すでに壊れていてね。やむなく眠らせておくしかなかった。それが、事故で目覚めてしまったようだ……まさか、あなたのもとを訪れるとは」

「わたしを『かあさま』という人と勘違いしているようでした」

「それに大した意味はないのだろう。しかし、ユルではなくあなたに執着しているとなると、少し考えなければならないな」

 それはつまり、警備を増やすという意味だろう。

 どんどん窮屈になっていく。エステルは、二度とソフィアを危険にはさらさないだろう。いかなる種類の危険にも――。

「少佐。わたし……逃げ出してしまってごめんなさい」

「……その話は、休んだあとにしよう」

「ま、待ってください、わたし……ユルを殺したくないんです」

 エステルが窓を背にゆっくりと振り返る。

 ソフィアの必死な顔を見たはずだが、それでなにを思ったのかはまったくわからなかった。逆光になって、まったく表情が読めない。

「少佐……あなたは、ユルと取引なさっているとか。……いずれ、わたしに彼を……殺させてやると」

「そうでなければ、ユルは私のもとにはとどまっていなかっただろう」

 ユルは、その皮肉っぽく軽薄な言動の下に、強い不服従と死への希求を隠している。キューウェルは、エステルに従いながらも、同時に己の無力さへの呪いとユルへの複雑な感情をかかえこんでいた。

 では――。

「……ユルを救う方法はないのですか?」

 ソフィアはあえぐように訊ねた。

「あなたも彼を失いたくないはずです。わたしは、ユルに生きていてほしい……」

 エステルは沈黙する。

 長い沈黙だった。

「あるいは……いや」

 その声には、同情がある。

「ユルは……あれは、死なせてやるのが救いだ」

 ――では。

 エステルもまた、ユルやキューウェルと同じように、なにかをそのうちにいだいているのだろうか?

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