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八章

 ソフィアの暮らしていた辺境では、夜とは静かなものだった。日が沈むや静まり返り、人々は寝入ってしまう。彼女自身、そのような生活サイクルを送っていた。

 しかし、首都では事情が違うらしい。

「夜になってもお店が開いているどころか、夜になってから開くお店や屋台もあるのね」

 購入した町娘ふうの服。それに着替え、ソフィアは自分を見下ろした。

 イオルティアの夜は明るい。あちこちに霊機灯があって、街を照らし出している。

 店の外で待っていたユルが、軽い調子で言った。

「お、その服も似合ってるぜ」

「ありがとう。さっきの服のままだと、動きづらいし目立つから」

 ソフィアはユルに連れられて、街へ抜け出してきていた。

「ねえ、ユル。……本当にありがとう。今、すごくすっきりしていい気分」

「なんだよ、急に」

 ユルは肩をすくめた。

「外に出るって決めたのはあんただ。褒めるなら自分の勇気と決断だろ」

 ぶっきらぼうな返答が返ってくる。それで、なんとなく、彼は礼を言われるのには慣れていないのだろうかと思った。

 確かに、ユルは彼女の意志を尊重する体裁を取っていた。決して強要せず、ただ窓を開けてみせただけだ。

(でも……わたしには自由がなかったんじゃなくて、どうやって自由になっていいかわからなかったし、その勇気もなかっただけなんだ……)

 こうして一時、乙女という役割から解放されてみて、今更のようにそれに気づいた。

 そして、ユルはソフィアの決断を否定せず、ただつきあってくれている。彼の『取引』は、その言葉の響きとは裏腹に思いやりに満ちているようにも思えた。

「……確かに、わたしの場合……自由になるのには、他人の何倍も勇気が必要ね。義務、使命、役割……」

「ただ街を歩くだけだ。そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないか?」

「そうかしら」

 思いついて、ユルを見上げる。

「そうね、単に『悪い子』になるっていうだけか……。遅れてきた反抗期かしら」

「悪い子ォ?」

「そう。課せられた義務を放り出し、我が身を顧みず……それって悪い子だわ」

「……」

 ユルは眉をひそめて、しばし沈黙した。たぶん、なにか考えていたのだろう。しかし結局考えはまとまらなかったらしい。

「いつもそんなことを言われて育ってたのか?」

「……だいたいそうかも」

「今度ごちゃごちゃうるせえなって言ってやれよ」

「ああ、そんなの――すごくすっきりしそう」

 ふたりは、通りを歩いた。

 辻演奏を楽しみ、酔っ払いが集合するらしき酒場の密集した路地を遠目に眺めた。入るのは、ユルに止められた。イオルティアの市民はいつ眠るのだろうと思うほど、人が多い。男性のみならず女性の姿もたくさん見かけた。もちろん多くは男性といっしょだったが、女性数人だけで夜を楽しんでいるらしき姿も見た。

 歩き回っているうちにお腹が空いてきたので、屋台で焼き肉の串を買い、噴水のある公園のベンチに座り込んだ。

「ユルも買えばよかったのに、わたしだけ食べてると変じゃないかしら」

「別に変じゃない。俺はあんまり腹が空いてないから、遠慮なくどうぞ」

「眠りの園では、首都に帰ったらお肉を食べたいって言ってたのに」

「首都に帰ってきてもう十日以上経ってるぞ。とっくに腹いっぱい食べた」

 ソフィアは手の中の串を眺めた。ボリュームたっぷりで、とてもおいしそうだ。霊機灯の青白い光の下、肉の照りが負けていない。

「半分いる?」

「いや、いいって」

 目をそらして、拒否感を隠しきれていないかたくなな反応が返ってきた。

 ソフィアはまばたきした。それから、目を伏せて話題を変える。

「……別の仕事をしていたって聞いてたけど、なにをしてたの? てっきり、もっと早くに会えるものだと思ってたわ」

「ああ、それ?」

 ユルの声の調子は、すでにもとに戻っていた。しかし、快活という感じでもない。

「その話は、今じゃなくてもいい」

 歯切れが悪かった。

「話せない秘密の任務ということ?」

「ここで話すと辛気臭くなるから、あとででいいってことだ。それより、もっと楽しい話をしようぜ。たとえば今ごろバンフィールドは血眼になってるだろうなあ――とか」

 なにがおかしいのか、ユルは鼻で笑う。

「完璧主義者のあの女のことだ、乙女が姿を消した失態におかんむりだろうな」

 そういえば、以前、彼は皮肉を込めてエステルのことを『ご主人さま』と呼んでいたはずだ。今の彼の様子を見ても、尊敬する上司に向けた態度ではない。

 困惑するソフィアをよそに、ユルは生き生きと続けた。

「キューウェルのやつ、かわいそうに」

「大尉がどうかしたの?」

「今日は嫁さんの誕生日なんだってさ。前から準備して休みを取ってたのに、たぶんバンフィールドに呼び出されてるぞ」

「えっ……」

「俺ははっきり言ってたんだ、命令に従順すぎるからいいように使われるんだって。そうすると、キューウェルは『それが軍人というもの』だとか、『上官命令は絶対』だとか言うんだよな。でも、その顔が疲労と心労でやつれててさ――」

「そう、こんなふうにだ」

 ぎょっとした。

 突如割って入った第三の声は、真後ろから降ってきた。

「……」

 ゆっくりと振り向くと、そこには、キューウェル大尉が立っていた。

 疲れた顔色で、心労に翳った目をしていた。急いで着てきたらしき軍服は、シャツのボタンをひとつ掛け違えている。

 なぜか穏やかな笑みを浮かべていた。

「宴の会場からいなくなった乙女が、どうしてお前とともにここにいるのかな?」

 その口調には、感情が乗っていなかった。


「ねえ、ユル、どこに行くの!」

「俺に訊くな!」

 手には焼き肉の串。

 食べている隙も時間もない。というか、全力疾走のユルに抱きかかえられたまま、通りの注目を一身に浴びているこの状況で、食べる勇気がない。

 しかし捨てる勇気もなく、結果としてしっかり握りしめたままでいた。

 人込みのあいだを縫って、路地を駆け、霊機灯の灯りを避けて行き当たりばったりに角を曲がる。

 ……この逃走劇が唐突にはじまったのは、キューウェル大尉があらわれた次の瞬間だった。ユルは反論も説明もせず、ソフィアをかかえて走りだしたのだ。

 ばらばらと出てくる軍人を振り切って公園を抜け出し、雑踏に紛れ――そして、今に至る。

「も、もう追ってきてないんじゃない?」

「いや、キューウェルを舐めるな。絶対に追ってきてる」

 ソフィアからはその存在を確認できない。

 しかし、ユルにはわかっているらしい。

「でも、こんな……いつまでも逃げ切れないわ!」

「今それ言われても出頭するタイミングを逃してるだろーッ!」

「きゃああっ!」

 予告なくユルが橋の欄干を飛び越えて、ソフィアは悲鳴を上げた。

 もちろん、大した高さではない。せいぜい三メートルほどの低い橋だ。しかし、両手がふさがったまま飛び降りればじゅうぶんに怪我の危険性があるので、普通はそんなことをしない。

 残念なことに、ソフィアをかかえている男はそのようなことを気にかける繊細さを持ち合わせていなかった。

 着地の衝撃をものともせず、そのまま川岸を走りだす。

「お前、いい加減にしろ。止まれ!」

 橋の上から、キューウェルがひらりと飛び降りてくるのが見えた。あのまま橋を渡っていれば、行く手を遮られていただろう。

「ああっ……」

 ソフィアは思わず串焼きを握りしめた。

 正面に、ふたりの軍人が見える。明らかにこちらに向かって走ってきていた。背後を振り返ると、キューウェルが迫ってきている。

「土手の上に逃げないと……!」

「いやこっちだ!」

「えっ……」

 突如、ユルは川の上に飛びだした。

 そして、川半ばで優雅に船遊びをしていた小舟を蹴って、岸の反対側へと移る。川幅が数メートルの細い川だからこそ可能な芸当だが、あっけにとられたような顔の船頭と、舟にしがみついている身なりのいい男性の視線が痛い。

「お前! 市民に迷惑をかけるな!」

「あんたはお行儀よく回り道してこいよ!」

 キューウェルに言い返しながら、ユルが土手を駆け上る。

 上についたところで、さすがに息が切れたのかソフィアを下に降ろした。

「走れるか?」

「走れる……けど、どこへ逃げるの!?」

「どこにっていうか、逃げられるだけ逃げるんだよ!」

 もはや、目的などないに等しい。

 ソフィアの腕を引いて、ユルが走りだす。

 あっというまに息が上がって足がもつれた。

 十分もしないうちに脚が上がらなくなり、ふらふらになる。迷路のような細い路地を通り抜けた先の、ゴミ集積所――その横でとうとう足を取られ、思いっきり転んでしまった。

 串焼きが地面を転がっていった。

「ああー……串焼きが……」

「もうそんなのどうでもいいだろ。ちょうどゴミ捨て場だ、ここに捨てていくぞ」

「た、食べ物を捨てると、バチが――」

「今そんなこと言ってる場合か!?」

「わたしの住んでいたあたりでは、食べ物を粗末にすると、その扱いが自分に返ってくるって言われてたの……」

「いつかゴミのように捨てられるって? その心配はそのときすれば……あ、まずい」

 ぴくりと背後を振り返る。

 通りには誰もいなかったし、足音も聞こえない。しかし、誰かの気配をいち早く感じ取り、ユルは周囲をきょろきょろと見渡した。

 そして、横手の建物の扉を開け、中に入る。

「勝手に入っていいの?」

「鍵が開いてたし……すぐ出ていけば構わないだろ」

 中はかなり暗かった。窓から入ってくる霊機灯の灯りだけを頼りに、正面にある急な階段を上る。踊り場を何度も曲がり、三階で廊下に出た。

 扉が立ち並んでいる。

「古いアパルトメントだな。部屋の中に入るわけにはいかないか……」

 そのとき、階下で複数人の足音が聞こえた。それから、キューウェルの声――。

 なにを言っているのかはわからないが、部下になにごとか指示しているようだ。ソフィアとユルが身動きもせずじっとしていると、そのまま階段を上がってくる足音が聞こえた。

「な、なんでここにいるって気づかれたのかしら……」

「入口開けっ放しだったかも」

「……」

「しかたない」

 ユルは周囲を見渡し、近くの窓を開けた。顔を輝かせてソフィアを振り返る。

「よし、運がいいぞ。こっちで逃げられそうだ」

「ま、窓から……? 今日二度目だわ……」

「ほら、外に出て」

 戸惑うソフィアの肩を押す。

 しぶしぶ、窓から身を乗りだした。そして、ぎょっとする。

 窓の下には足場らしきものがなかった。ただ足をギリギリ引っかけられるかも、というような幕板があるだけだ。そのかなり下には、雨除け(オーニングテント)が大きく張り出している。

「こ、これのどこが運がいいの?」

「下から見上げられてもバレない。バレるのは上からだけ」

「ま、待って、えええ」

 言い争っている時間はないという切迫感。やたらとせっついてくるユル。

 ソフィアは、混乱したまま窓枠を乗り越えた。ぶるぶる震える足で幕板に立ち、窓についている鉄の手すりにしがみつく。続いて出てきたユルはさすがに身軽で、当たり前のような顔をして外に出たあと、落ち着いたそぶりで丁寧に窓を閉めた。

「こ、このままここで待つの? 大尉たちが出ていくまで?」

「ああ」

 真面目な顔でうなずかれる。もはや、おかしいのはソフィアのほうのような気さえした――絶対にそんなことがないのはわかっていたが。

 ややあって、静かな足音が中で通り過ぎるのが聞こえた。

「いたか?」

「いえ、どこにも――」

「おかしいな。ここだと思ったんだが……」

 そんなような会話を交わしながらも、キューウェルはしばらくしつこく探し回っていた。一階に降りていったかと思えば、また戻ってきたり――。

 生きた心地がしないとはこのことだ。

 しがみついている手の感覚もなくなってくるし、このまま立ち去ってくれなかったらどうなるのかと、そればかり考える。

 大尉たちがあきらめて建物から去っていくころには、緊張から全身がこわばりきっていた。

「……行った?」

「行った……」

 ユルが大きくため息をつく。

「よかった。本当に執念深いよな、あいつ……」

「あの……ねえ、全然よくなくて……」

「え?」

「もう、わたし……無理」

「あ」

 ずるり、と足がすべる。

 手の力はとっくになくなっている。走り続けたせいで、体力はもう尽きていた。

「ソフィア!」

 宙に投げ出された身体を、ユルが慌ててつかむ。

 彼は躊躇しなかった。

「……!」

 ソフィアを追うように身体を投げだし、態勢を入れ替え――抱きしめるようにしてかばってのける。雨除けを突き破ったところでいくらか勢いが緩んだ。

 さらに、ソフィアもユルも運がよかった。

 なぜなら、その下はゴミ集積所――硬い地面ではなく、生ゴミそのほかの衝撃吸収材で満ちた場所だったからだ。

「……」

「……」

 気づくと、ふたりでゴミ集積所の上で天を仰いでいた。

 穴の開いた雨除けから、星のない夜空が見えた。

「……あんたの故郷の言い伝えってさあ……」

「食べ物を粗末にしたから、その行いがそのまま帰ってきた……?」

 同時に口を開く。

 ふたたび沈黙が落ちて、奇妙な空気になった。

 先に笑いだしたのは、どちらからだっただろうか。気づくと、大笑いしていた。あまりにおかしくて、笑いが止まらない。いったいどうしてこんなことになったのか、さっぱりわからなかった。

 こんなに笑ったのは、久しぶりだった。五年……いや、もっとだ。長いこと、心から笑ったことがなかった。

「ああ……本当に、ばかみたい。怒られるのを先延ばしにしただけだわ……」

「そうだな……」

 笑いが収まったころになって、どっと疲れが襲ってくる。

 そう、こんなに楽しいのは今だけだ。自由には代償がつきまとう。ソフィアはエステルのもとへ帰り、しかるべき処遇となるはずだった。

 寂しくなった。

「ねえ……ユル。ひとつだけ訊いていい?」

「なんだ」

「どうして、串焼きを食べなかったの?」

 ずっと考えていた疑問がするりと口を衝く。この瞬間だけは、訊いていいような気がしたからだ。

 ユルは一瞬、沈黙した。けれど、結局はソフィアと同じような気持ちだったのだろうか――静かに答える。

「味がしない」

 あまりに穏やかで、嘘の気配がない。

「帰ってくるまで気づかなかったが……あんたを助けたあの日に、どこかが壊れてたみたいだ」


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