七章
大広間からこっそり抜け出して、ソフィアはようやく一息つくことができた。それで、どれだけ息苦しく感じていたかをようやく自覚する。
人気のない夜のテラスで、大きく深呼吸して夜の空気を吸い込んだ。
(なんてたくさんの人に会ったんだろう)
着飾った、洗練された人々。みな立派な肩書を持っていて、如才なく社交的で、都会的……。
エステルはソフィアに影のように付き従い、困惑する彼女を完璧にエスコートしてみせた。集まる人々を丁寧に捌き、時には無遠慮な質問からかばい、そして、ソフィアが言葉に詰まれば会話を助ける。
完璧なふるまいだった。
辺境の分宮では特になにも思っていなかったが、夜会にいる他の人々に混じるとソフィアはいかにも世間知らずで、洗練されていないような気がした。
――とはいえ、この場の主役はソフィアだ。ただ黙って微笑んでいるだけでも許された。
なぜならこれは彼女のための夜会であり、『融和の象徴として命を狙われながらも、気丈にも公の場に姿をあらわした境域の乙女』を知らしめるための宴だからだ。
……しかし、夜会に出てきたものの、肝心のユルとは会えずじまい。
ソフィアは、愛想をふりまくために夜会へやってきたのではない。だから、警備の仕事で忙しくしているエステルの隙をうかがって、こうしてテラスへと忍び出てきたのだった。
(さて……少し休んだら、ユルを探さないと……)
ソフィアは頭を振って、顔を上げた。
ぐずぐずしている暇はなかった。あまり長い時間姿をくらませれば、エステルを心配させるだろう。それに、命を狙われているのだから、あまり身勝手なことはしないほうがいいに違いない。
……境域の乙女としてのソフィアは、すでに自分が勝手なことをしていることに気づいていたが、深く考えないようにした。
ソフィアは最後にもう一度深呼吸した。
それから、踵を返し、テラスから廊下に戻る。
「あっ」
「失礼」
そこで、誰かとぶつかってしまった。
ユルのいそうな場所はどこだろうと、そればかり考えていたせいで周囲にまったく気を配っていなかったせいだ。
「ごめんなさい」
慌てて謝罪しながら、相手を見上げる。
二十七、八の、栗色の髪の若い男だった。紳士然とした隙のない身なり。端正な顔。西方人だった。
目が合った瞬間、相手のほうもソフィアの正体に気づいたようだった。
「乙女ではないですか。こんなところでおひとりで……?」
「えっ。ええと、ちょっと気分が悪くなって、風に……当たっていて」
「僕は、アーネスト・ホロウェイです。議員をしています」
「はい。ホロウェイ議員……はじめまして」
気もそぞろに挨拶しながら、周囲に視線を巡らせる。
遠くの廊下に見える警備兵。背格好からしてユルではないはず。こんなところに乙女がいるとは思っていないのか、ソフィアに気づいている様子はない……。
「誰かをお探しですか?」
「えっ? あ……ええと、連れがいないかと……」
ホロウェイと名乗った青年は、どうやらその言葉を誤解したらしかった。
「ああ、あなたを警戒させてしまったかな? なにも無礼なことをするつもりではないんです。ただ、純粋な意味で、乙女に是非お近づきになりたくて」
「そういう意味じゃありません。あの……連れを探さなければいけないんです。もう行かなければ」
「では、いっしょに探しましょう」
親切な申し出に、ソフィアはただ困惑した。
態度も丁寧で、わずかでも下心を感じさせるところはなかった。しかし、なんといっても見知らぬ人だ。議員だという自己紹介も、もしかしたら嘘かもしれない。
ソフィアのような世間知らずを騙すのは簡単だろう。
彼女の戸惑いを知ってか知らずか、ホロウェイがため息をつく。
「それにしても、警備兵はなにをしているのか? 乙女をひとりでふらふらさせるなど、あってはならないことだが……襲撃してくれといわんばかりだな」
「わ、わたしが、勝手にはぐれてしまったんです」
「警備担当はバンフィールド少佐か。もしや、彼女に不手際があったのではないでしょうね」
「違います。エステルは悪くありません」
話があらぬ方向へ行きだしたので、ソフィアは思わず声を張り上げた。
それから、ハッとして声量を落とす。
「……人を探していて、それで、エステルのもとから自分で離れたんです。だから、彼女のせいではないんです」
「……」
ホロウェイも、それでようやく自分が言いすぎたのに気づいたようだ。咳払いし、穏やかな声音になった。
「申し訳ありません。出すぎたことを言いました。しかし、ひとりでいるのが危ないのは事実です――広間までお連れしましょう。探し人は、誰かに探させなさい」
正論だった。ソフィアは、それに言い返すことができなかった。
ひとりで探すと言い張ることは不自然だ。かといって駆け出して逃げれば、それはそれで大騒ぎになるだろう。
うつむいて、ため息をつく。
「はい……」
「では、行きましょう」
そのあとを重い足取りで追いながら、内心ではどうにか彼をごまかし、姿をくらませられないか考えていた。
(ただ逃げるのじゃだめ。だから……ころあいを見て、もうひとりで大丈夫と言おう。そうしたら、そこからまたユルを探せるかも)
そうしてとある部屋の前を通りがかったときだった。
半分開いた扉の前を、ホロウェイが通過する。そのあとを歩いていたソフィアが同様に通り過ぎようとしたとき――。
「……!」
ぬっと出てきた手に、扉の中に引きずり込まれた。
大声を上げようとした口を、手でふさがれる。そのまま抱きすくめられるように動きを封じられて、ぞっとした。
「しーっ」
ぎょっとして頭上を見上げる。声に聞き覚えがあった。
いたずらっぽい金色の瞳と出会った。
「俺だよ。そのドレス、似合ってるな」
ユルだった。
心底驚いて、ソフィアは一瞬硬直した。
まさか部屋の中に彼が潜んでいて、こんなふうに再会するなどと考えもしなかったからだ。
ユルは、ソフィアが彼に気づいたとわかるや、あっさりと彼女を解放した。
「大声出すなよ。バレるからさ」
「……」
あまりに突然あらわれたユルに、ソフィアはぽかんと彼を眺めることしかできなかった。
元気そうだった。
「な……なんで」
ようやくそれだけ言う。
「今日、ここにあんたがいるって言うから、探してたんだ」
「そうじゃなくて……」
「じゃあなに?」
「……」
ユルの怪訝な表情に、ソフィアはそれ以上なにも言えなかった。たぶん、どうしてとかなぜとかいう疑問をぶつけても、意味などないのだろう。
ユルは最初に会ったときと同じように、軍服を着ていた。やはりこの会場で警備に当たっていたのだろうか。
(なんだ……ユルもわたしを探してたんだ)
この偶然だか作為だかに、じわじわと謎の感情が胸に兆した。腹立ちのようでもあり、溜まった鬱屈が爆発しようとしているようでもある。そして、それ以上に安堵していた。
「さっきいっしょにいた男が、あんたがいないのに気づいて戻ってくるかもしれない」
ユルは廊下をうかがって、そっと扉を閉めた。
「というか、いなくなったのに全然気づかないんだな。大丈夫か、あいつは?」
「みんながみんな、あなたみたいにカンが鋭いわけじゃないし……それに、気づいてもらわないほうがいいもの。この場合は……」
「そういえばそうだな」
二週間ぶりに会うが、彼の無遠慮な距離感はまったく変わっていないようだった。
ユルは二歩、後ろに下がった。それから、上から下までソフィアを眺める。
「さっきも言ったけど、ドレスが似合ってるよ。どこかの令嬢みたいだ」
顔が熱くなるのを感じた。
彼の言動には、良くも悪くも遠慮がない。最初に会ったときもそうだった。
「あ……ありがとう。わたしは……わたしも……あなたに会いたかった」
彼に会いたいと思ったのには、それ以上の理由はなかったのかもしれない。ソフィアは、言いながらそう気づいた。
窮屈な生活。洗練された人々のあいだで感じる孤独感。
思えば、ユルと砂漠を彷徨っていたときが、一番自由だった。命の危険と隣り合わせだったけれど、乙女という役割から解放されていた。そう、草原と石くれ砂漠という違いこそあれど、あの万華鏡で見た景色のように――。
そのことに、今更ながらに気づいたのだった。
「どうした?」
「その……ごめんなさい。わたし……」
なんだか胸がいっぱいになって、おかしな顔でもしていたのだろう。恥ずかしくなってうつむいたソフィアを、ユルはしばらく黙って見ていた。
「あなたといたときが、本当の自分だった気がして……」
「じゃあ、今も本当のあんただ」
顔を上げる。
真面目な顔をしているユルと行き当たった。
「俺といるだろ。違うか?」
「そ……そうだけど、でも、ちっとも自由じゃない……」
「……俺には、あんたの言う自由の意味がよくわからないが……」
ユルは突然、窓に歩み寄って開け放した。
手招きされるままに、彼の横に立つ。窓からは広い庭が見えた。きれいに手入れされている。その向こうには夜なお明るい首都の街並みがある。
「自由になりたいんだったら、ここから出たらいい」
「え?」
「窓から降りればすぐだし」
あまりに簡単に言うので、最初は冗談を言っているのかと思った。
しかし、どうやら本気であるらしい。ユルがちっとも笑わないので、そう悟った。
「出るって……だって、そんなこと無理に決まってるじゃない。エステルが心配しているだろうし、それに、わたしは命を狙われていて――」
「境域の乙女歓迎パーティーが開かれてるのに、命を狙うやつが、この会場以外であんたを探してると思うか?」
「……ええと」
「まさか、無防備に乙女が、今この瞬間、街を歩いてるわけがないよな~」
わざとらしくつぶやく。
ソフィアは言い返そうとして口を開き、そして閉じた。
確かに、彼のいうとおりだ。それに、ユルといるときには自分を偽るのが難しい。
「……案内しますけど?」
「街を?」
「そう。あんたが街を歩きたいって言うんならな」
「……それも取引?」
「よくわかったな! そう、あんたには逆に助けられたから、なにか返さないといけないと思っててさ」
もっとほかの理由であればよかった、と、なんとなく思った。それでも、今ここで殺してくれと迫られるよりは万倍もいい。
ソフィアはうなずいた。
「わたし……街を歩いてみたい」
境域の乙女が街を歩いているはずがないのなら、今から窓の外に出るのはソフィアだ。




