五章
エステル・バンフィールドは部屋へと足を踏み入れた。
この実験施設では、かつて軍の予算を横流しした違法な実験が行われていた。軍命を受けてエステルが踏み込んだときに、関係者はすべて死亡――しかし、残された記録から、この施設では霊機学を応用した『不死兵』の研究が行われていたことがわかっている。
「残された記録か……」
エステルは部屋を見まわした。
記録、ということになっている。しかし、記録というよりは『成果物』が残っていたのだ。
部屋は殺風景で、壊れたベッドと破れた窓があるだけだ。ベッドには切断された鎖。かつて、ここに繋がれていた少年は、今は彼女のもとにいる。
「……」
ふと、部屋の片隅に蜂の巣があるのに気づいた。
今はもう、巣に蜂はいないようだが……。
「バンフィールド少佐、やはり眠っていた実験体――ナヤが行方不明になっています」
背後からの声で、振り返る。
そこには部下の兵卒が緊張した面持ちで直立していた。
「行方不明か」
「すぐに探させます」
「いや、そのうち勝手に出てくるだろう。最後に見たときには、ユルに執着していたからな」
「はあ……」
そこで、兵は部屋に蜂の巣があるのに気づいてぎょっとしたようだ。
「少佐! 下がってください! 蜂の巣だ」
「ああ、大丈夫だ。去年より前の巣だろう」
「……ああ、そういえば少佐は学生のころ、蜂の研究をされていたとか……?」
あからさまにほっとした顔になる。
エステルはそれには返事をしなかった。
「それより、キューウェルからの連絡は?」
「はい。乙女を連れてこちらへ向かっているとのことです」
「乙女――」
ふ、と柔らかい笑みを漏らした彼女に、兵は一瞬見とれた。それから、かっと頬を赤らめる。
そのどれもが、エステルにとっては目新しい反応ではない。彼女は踵を返し、部屋を出た。
「私もそろそろ戻らなければならないな」
首から下げた、小さな万華鏡に触れる。
乙女はこれを覗いて、なにを見るだろうか――。
「……話に聞いていたよりにぎやかですね……」
馬車の窓を通り過ぎていく景色に、ソフィアはただ唖然とすることしかできなかった。
背の高い時計塔。文字盤は薄青く霊機で輝いている。立派な建物が立ち並び、そのあいだには空中回廊が設けられていた。そこを歩く日傘の貴婦人。洒落た身なりのアゼール人の若者。穏やかそうな紳士……。
イオルティア。
西方人がこの大陸で一番最初に作った都市だ。
ソフィアは、都市の威容と喧騒に圧倒されていた。
(飛行船……)
馬車の窓にへばりついて、ぽかんと空を見上げる。
青い空を背景に、白いクジラのような巨体が浮かんでいた。
「首都を気に入っていただけたようでなによりです」
「……!」
思わず居住まいを正す。
ソフィアの斜め向かいに座っているキューウェル大尉のことを、すっかり忘れていた。
「ご、ごめんなさい。お恥ずかしいところをお見せしました」
眠りの園を彷徨ったあの日から、わずか二日。
大尉に救われたソフィアは、今では元気いっぱいとなって、護衛つきでの旅に逆戻りしていた。
(大尉じゃなくて、ユルだったらここまで恥ずかしくなくて済んだのに)
彼になら、多少はしゃいでいるところを見られても今更だ。ところが、キューウェルは違う。彼はソフィアには至極丁寧に接し、乙女に対する礼節を守っている。
だから、彼女のほうもそのようにふるまってきた。……ここに来て、隙を見せてしまったが。
(……)
少し考えて、思い切って口を開く。
「あの……ユルは、大丈夫でしょうか?」
馬車の中には、大尉とソフィアのふたりきり。
ユルは、眠りの園での無茶がたたって病院送りになっていた。
「ユル? ああ、大丈夫でしょう。不死ですし」
「そ……それは知っています。でも、不死だからと言って無事だとは限らないのでは……」
軽い調子の返答に、ソフィアはぼそぼそと食い下がった。
その態度をどう思ったのか、キューウェルが優しい視線をこちらに向けてくる。
「あなたの前でも相当な無茶をしたと見える。そりゃ心配にもなるでしょう」
なんとなくほっとして、うなずいた。
「……いつもああなんですか?」
「我々の上官殿は無茶なことを命じる方でして」
肩をすくめる。
「私も怪我はしょっちゅうです。ユルは自分が死なないのをよくわかっている。死なないと思えば、無茶なこともしますからね……」
そこで、ふと気づいたようにキューウェルは視線をソフィアに向けた。
「そういえば、乙女。ユルはあなたに見返りを要求していないでしょうね」
「その……」
不意打ちの質問だった。
そんなことを訊かれるとは、まったく予想していなかった。口ごもってしまったソフィアにキューウェルがあきれたような顔になる。
「ああ、やっぱり。乙女になんてことを……」
「い、いいえ。要求はされましたが、聞き入れていません」
「でしょうね。聞き入れていたら今頃あいつはこの世にいないでしょう」
「……」
ソフィアは無意識に、腰に下げた灰の短剣に触れた。
キューウェルもユルの望みを知っているらしい。特別隠していないのかもしれない。
(そう、それは隠さないくせに、自分の弱いところはかたくなに見せようとしない……)
逃避行でのあれこれを思い出し、なんとなく腹が立ったが、今は当人もいないのでぐっと飲み込んだ。
「真面目に要求を聞いてやる必要はありませんよ。あれはそういう性質なんです」
「……そういう性質とは?」
「話すとちょっと長いんですが……」
キューウェルが口調だけは穏やかに語り始めた。しかし、その目にちらりと浮かんだ逡巡を、ソフィアは見逃さなかった。話すかどうか迷ったのだろう。
「まあ、いずれわかることです。開拓時代を知っていますよね?」
「はい。表面的な知識だとは思いますけど」
「私だって表面的ですよ。あのころは、急速に発展する霊機学に過剰な期待が寄せられていた時代でした。より豊かに、より便利に!――そんなふうに」
西方人の持ち込んだ技術、解剖機学。そして、アゼール人の使う秘術、霊謡。
その融合が霊機学だ。
「そうこうしているうちに、誰かが神々の領域に手をかけた。人はもっと強くなれる。完全になれる、とね。……その結果がユルです。しかし、あなたもご存じのように、霊機学は決して万能ではなかった」
「……」
「あれは、半分が神と重なっています。ユルの肉体を構成する情報が、神――オハラシュのもとにあるんです。だから怪我をすると、集合情報体から情報が復元される」
キューウェルはソフィアの表情を確認し、付け加えた。
「だから再生でも治癒でもない。ただもとに戻るだけなんです」
確かに、ユルもそのようなことを言っていた。
治るのではなくて、復元するだけだと。
「それでいて不老ではなく、魂の不滅も保証されていない。復元すると言っても、蘇生するほどの大怪我のあとは疲労と不調で行動不能になることもある。……不死とはいったいなんなのか、私も時々考えます」
「あの。……復元失敗……のことを、訊いてもいいですか」
思い切って口にしたその質問にも、キューウェルはわずかにあいだを開けただけだった。
「……先ほども言いましたが、霊機学による不死の創造は完璧ではありませんでした。復元を繰り返すうちに、人工的に作られたオハラシュとユルあいだの絆が、摩耗していくんです。そのうち、情報の復元にノイズが乗り始める」
「それが、復元失敗……?」
「その通り。ですから、損傷した肉体がもとに戻らない。魂の不滅を保証しない不死とは、そういうことです。脳を損傷したまま復元にノイズが乗ってしまえば――」
ナヤのことが脳裏をよぎって、ぞっとした。
彼のあの言動は、まさしく復元失敗の産物だったのだろう。
キューウェルは窓の外に視線を投げた。
「思うに、我々の魂とは脳なのではないですかね。そこで感じて、考えているんだ。であれば、魂を保証しない不死になんの意味があるのか……」
そこまでつぶやいて、口をつぐんだ。
「失礼、踏み込みすぎたかな。ともかく、前置きが長くなりましたが……ユルがあなたに取引を要求するのは、オハラシュ神の影響なんです。オハラシュはアゼール人の天秤と通称の神。眠りの園にとらわれてはいますが、絆をつうじてユルの言動に影響を及ぼしている」
キューウェルは肩をすくめた。
「……つまり、あいつは取引をつうじてしか誰かと関係を築けない」
その言葉に、ソフィアは思ったより傷ついた。
(だから、わたしをあんなにかばっていたのね……)
もちろん、ユルは最初からそのことを明言していた。守ってやるから、殺してくれと。しかし、彼の徹底的な献身に明白な理由があったと知って、どうしてか裏切られたような気持ちになる。
「なにかしてくれたら、なにかしてやる……そういうわけです。ですから、真面目に聞かなくたっていいんです。しつこくはあるが、かといってそれを物理的に強制してくるというわけではありませんから」
「……そうですね、素直に聞く必要はないですよね……」
ソフィアは足元に視線を落とした。
ユルがどういうつもりでいるかはともかく、彼女は正真正銘、彼を殺したくなかった。殺人という行為が違法だということを度外視しても、とてもではないが、殺せそうにない。
(……じゃあ、ナヤもユルと同じように、実験の産物なんだ。だから、知り合いだったのね……)
その時。
馬車が急停止して、思わずつんのめって倒れ込みそうになった。
外で馬がいなないている。なにごとか揉め事が起こったのか、複数の人間の怒号が飛び交いはじめた。
行く手を阻んでいるのは、白装束の集団だった。
街中にあって、そのゆったりとしたローブ姿は完全に浮いている。ソフィアは、きゅっと身体を縮こまらせた。
(灰の宮の神官たち……)
境域の乙女を中心とした、祭祀組織。
見慣れたその姿に、心拍数が上がる。辺境の分宮で境域の乙女として育てられた彼女には、彼らがなぜ今ここであらわれたのか、よくわかっていた。
「護衛、ご苦労さまでした。乙女は馬車の中ですね?」
馬車の中のソフィアにも声が聞こえてくる、穏やかな声。
そう、彼らは乙女を取り戻しに来たのだ。
いや、正確に言えば、別に奪われてはいない。しかし、当然のことながら、乙女の身柄が軍のもとにあるのはイレギュラーな出来事だ。
「お待ちください。乙女はバンフィールド少佐が保護しています」
数人の神官に取り囲まれたキューウェルが、どこかあさっての方向を見ながらそらぞらしく言った。
「私の勝手な判断で身柄をお渡しするわけにはいきません。正式なルートを使って、書面で要求を――」
「しかし、今ここに私たちがいるのですから、もう保護の必要もないでしょう? 以後は、責任を持って灰の宮で乙女をお守りします」
「繰り返しますが、私にはこの場でなにかを決定する権限がありません」
「許可を乞うているのではありません。これは灰の宮の使命なのです」
キューウェルの手が腰の銃にかかった。
「揉め事を起こしたくありません。しかし、そういうことであれば、上官命令に従ってあらん限りの抵抗をすることになりますが……」
みるみるうちに、雰囲気が険悪になっていく。
御者だろうか、「大尉、いけません」と引き留めている声が聞こえてきたが、キューウェルは引き下がるつもりもなさそうだ。
(どうしよう……自分から出ていけば、丸く収めることができるかしら……)
乙女として受けてきた教育が、彼女にささやいてくる。もし、ソフィアが進んで灰の宮の神官たちのもとへ行くなら、大尉にも止められないだろう。争いを起こす必要もなくなるに違いない。
――迷っているうちに、身体が自然に馬車の扉へと吸い寄せられる。
あとほんの数十秒彼女の到着が遅ければ、ソフィアはそのまま外へ出ていってしまっていただろう。
「これはこれは、灰の宮のお客さまがおいでとは、にぎやかなことだ」
涼やかに通る声だった。
誰にも気づかれないうちに、彼女はそこにいた。馬に乗って、高い場所から場を見渡す。
「しかし、馬車には乙女が乗っている。その前をさえぎり、騒ぎ、あまつさえ彼女の安全を無視した要求を通そうとだだをこねるとは、いつからここは子どもの遊び場になったのか?」
馬上であっても、彼女が女性としては長身なのがわかった。
歳は二十代後半。白金の長い髪は隙なく整えられて、背中に流れている。彼女のその存在感と美貌に、神官たちですらあっけにとられているのがわかった。
「乙女が命を狙われているのは周知の事実。よって、私、エステル・バンフィールド少佐が警護にあたる。これ以上の要求は議会の承認を取り付けてからにしてもらおう」
バンフィールド少佐。
ユルとキューウェルの上官――それが、こんなに美しい女性だとは想像していなかった。ソフィアはただ彼女にぽかんと見とれた。