四章
――俺もいつかああなる。
その言葉の意味を飲み込むことはできなかった。
「ばあ!」
岩陰から、逆さの顔がソフィアの眼前に飛び込んできたからだ。
雑に巻きつけられた包帯に覆われたナヤの顔。その琥珀の瞳は長い睫毛にふちどられて、まるで少女のようだった。
狂気に満ちた笑顔は、どこか無邪気で楽しげだ。
……しかし、そこで突然視界が真っ暗になる。暖かくて大きなユルの手が、ソフィアの目を覆ったからだ。
がつん。鈍い音が響いた。
背後のユルが、ナヤを攻撃したのだとわかった。決定的なシーンを見せまいととっさに判断して、彼女の視界を奪ったのだろう。だが、お互いに態勢を崩しているので、完璧にとはいかなかったようだ。
「昔、よくこうやって遊んだよね?」
指の隙間から、血まみれのナヤの顔が見えた。
こめかみのあたりに青い光がまたたく。幾何学模様が傷跡を覆い隠し、そして――。
ナヤが後ろに飛び退る。
(ユルと同じ……!)
「お互いに殺し合ってさ……ふふ」
ユルは返事をせず、血のついた銃をナヤに向けた。そのまま二、三度撃つ。
当たったのか、当たっていないのか……いずれにせよ、異形の化け物は再びその場から姿を消した。
思わず耳を覆って身体をすくめているソフィアの背中が突き飛ばされる。配慮したらしき感じはしたが、乱暴なのには違いなかったので、思わず地面に膝をついた。
しかし、文句は言わなかった。守られたのが、直感的にわかったからだ。
「……!」
ユルが岩肌に打ち付けられる。先ほどまでソフィアの前方にいたはずのナヤが、背後からあらわれたのだ。
少年のような細身の姿をしているが、恐ろしい膂力だった。
「ぐ……」
「あれれ……もう終わり……?」
バウンドするように身体を跳ねさせ咳き込むユルを、不思議そうに覗き込みながら蹴倒す。
そして、仰向けの胸を思い切り踏みつけた。
「昔はもっと楽しくて、いっぱい……あああ。頭が痛い……」
ナヤが頭を掻きむしる。
先ほど、『ユルに罰を与える』と言っていたはずだが、今となってはその目的を覚えているのかどうかもあやしい。爪の跡から血をにじませるが、それもすぐに青い光をまとって復元した。
「……そうだ、かあさま……そっちへ行っていい?」
そして、唐突にソフィアへと視線を向ける。
ぴくりとも動かないユルへの興味はもうすでに失せたようだった。
「探してたんだ! ねえ、そっちへ行きたいよ……」
――ヒヤリ、と背筋に冷たい汗が流れる。
ソフィアは胸の前で短剣を構えながらも、身動きできないでいた。目をやると、ユルはぴくりとも動かない。
(あ……)
そうだ。
ユルはもう戦えない。……とっくに限界を過ぎていたのに、ソフィアを守ってくれた。そのせいで、不死にもかかわらず身体を起こすことすらできなくなってしまっている。
……だったら。
(わ……わたしが、なんとかしなきゃ……)
ナヤとの距離は、ほんの数歩だ。彼さえその気なら、ほんの一呼吸もかからずソフィアを殺せるだろう。その事実が身体をすくませるが、一方で、思考は驚くほど冴えていた。
「……こ……来ないで」
「……行っちゃだめなの?」
傷ついたような声が返ってくる。
ソフィアはごくりと喉を鳴らした。声が震える。
「そう、まだだめ。それに……ユルからも離れて」
思ったとおりだった。
彼女の言うまま、ナヤがユルから二歩、下がる。
(……わたしの言うことなら、聞くのかもしれない……)
おそらく、『かあさま』……つまり、彼の母と誤認されているのだろう。そのことの真相や、是非はもうどうでもよかった。
「もっと離れて。ユルに危害をくわえないで。……絶対にだめ」
恐る恐る使った強い言葉にも、ナヤは従順だった。
ふらふらと下がるその姿は、叱られた子どものようだ。
「ユルとはただ遊んでただけだよ……」
しおらしい台詞は言い訳めいている。ソフィアは恐る恐る、ユルににじり寄った。腰が抜けてしまっているのか、うまく立ち上がれなかったからだ。
「かあさま、怒ってる?」
ユルとナヤのあいだに身体を割り込ませる。
そして、へたり込んだまま灰の短剣をナヤに向けた。
「か……帰って。今日は帰って……お願い」
それだけ言うのが精一杯だ。
自分がどんなふうに見えているのか、ソフィアにはわからなかった。立ち上がることもできず、武器は頼りない細身の短剣一本。ただ身体を投げ出して、背中でユルを庇うことしかできていない。
いや、こんな状態で庇っていると言えるのかどうか、それもわからない。
「お願い」
今はただ、ナヤが帰ってくれるように祈ることしかできなかった。
視線を逸らすことができず、まばたきもしないでソフィアは異形の少年を睨み続けた。
「……わかった」
どきりとした。
ナヤの言葉が、あまりにも消え入るように小さかったからだ。
「ごめんね……」
その一言だけが、風に残る。
岩の影にするりと身体を溶け込ませる。ナヤはそれきり、ソフィアの目の前から姿を消した。
太陽にじりじりとあぶられている気分になった。
「喉が渇いた……」
夜はあんなに寒かったのに、太陽が昇るや気温は急上昇した。さえぎるもののない空から、強烈な陽光が降り注いでいる。
石くれだらけの乾いた大地の上で、ソフィアはふらふらと歩いていた。
――ナヤの襲撃から一時間ほどで意識を取り戻したユルとともに歩き出してから、数時間は絶対に経っている。しかし、体調が悪いままのユルと、もともとあまり体力のないソフィアの歩みは、ほとんど亀のようだった。
頻繁に岩陰で休憩しては、口数少なく再出発する。その繰り返しだ。思っているよりも距離を歩けていないに違いない。
眠りの園の外へはまだ出られていなかった。
ソフィアは、見るからにふらふらのユルを横目で確認した。他人のことを気遣っている余裕などないはずだが、自分よりもユルのほうが無理をしているのはわかっている。
「あ……あそこ、あそこで休みましょう……」
線路脇の枯れ河のほとり。ちょうど太陽を遮ってくれている傘のような形の岩を見つけて、指さした。
「ああ……そうするか」
荒い吐息の下から、ユルがうなずく。
脚を引きずるようにして歩き出す。途中からは、ソフィアがユルを支えるようにして、たったの数十メートルをのろのろ進んだ。
「ああっ……」
目的の岩にたどりついた時には、とうとうふたりして地面に転んだ。
そして、起き上がれずしばらく呆然としていた。転んだというよりは、休もうと急ぐあまり体力を使い果たし、限界を迎えたのだろう。
「……このまま休むか……」
ユルが言って、身体を仰向けにする。ソフィアもそれに倣った。
不安定な形の岩が目に入る。崩れてくるかもしれない、と思わないでもなかったが、それよりも日陰の中にいられる安心感のほうがずっと大きい。
「腹が減ったな……」
「……それより、水が飲みたい……」
ぼそりとつぶやきあって、どちらからともなくため息をついた。
横を見ると、ユルは目の上に手の甲を当てている。石くれ砂漠の照り返しは強烈なので、目の疲れもひどいのだろう。
ソフィアは彼を気遣う言葉を投げようと思った。
「……不死でも、お腹がすくの?」
しかし、出てきたのはそんな質問だ。
言ってから、なぜこんなことを訊いたのだろうとぼんやり考えた。
「腹? 減るよ。人をなんだと思ってるんだ」
「だって、死なないんでしょう?」
「死なないよ。でも、腹は減る……」
(……じゃあ、死なないだけで、痛かったり辛かったりするんじゃないの……?)
その言葉を飲み込んでしまったのは、胸に重いわだかまりがあったからだ。
『俺もいつかああなる』
軽く放たれたその一言が、今になって意味を持ってくる。
(……)
勇気がなくて、なにも言えなかった。
「帰ったらさあ」
唐突にユルが言った。
「え?」
物思いから、急に引き戻される。
ユルはこちらを見ていなかった。相変わらず手の甲を顔の上に乗せたままだ。しかし、その言葉は明確にソフィアに向けられている。
「帰ったら、なに食べたい?」
「え……帰ったらって……」
「イオルティアに帰ったら」
イオルティア。西方人最初の植民都市にして、イオルティア共和国首都。
そして、ソフィアの目的地だった。
「帰るというか……わたしは、イオルティアにははじめて行くけど……」
「なんでもいいよ。とにかく、街でなにか食べたいよな」
ユルは一瞬沈黙した。
「……肉だな」
そして、手を顔の上からどける。この上なく真剣な表情をしていた。
「肉が食べたい」
「……わたしは、甘いものがいいかな……」
ソフィアはちょっと迷って、言い直した。
「ううん、やっぱり水がいいかも……食べ物じゃないけど」
「飲み物の話はしてないんだけど」
「でも、今は水のことしか考えられないわ。あなたこそ、よくこんな状況で固形物を食べるところを想像できるわね」
「こう蘇生続きだと、身体が持たないからな。あ……もしかして、聖女さまだから肉を食べないとか?」
もちろん、そんなことはない。
週に一度は肉を食べていた。しかし、海際の辺境で暮らしていたので、食卓には魚がのぼることのほうがずっと多かっただけだ。
「……わたしは、魚のほうが好き」
「骨を取るのが面倒くさいよな」
ユルがため息をつく。
それにうなずきながら、なんとなくおかしくなった。
「……ねえ、あなたって死にたいくせに、ちゃんと食べて、身体の心配までするのね」
「そういうもんだ」
(そういうものなのかしら……)
不死の身体で生きるということは、ソフィアには想像がつかない。しかし、彼が殺してほしいという理由が、うっすらとわかりかけてきた。
(ナヤのようになりたくないからだ……)
ユルは、自分が自分でいるうちに死にたいと願っている。
……だとしたら、呪われた地で死にかけながら、食事の話をするのも彼なのだろう。それを失いたくないからこその、希死念慮……。
(わたしに、どうしろっていうんだろう)
今は彼の背負う重荷に思いを馳せるのが精一杯で、ソフィアにはそれ以上を考えることができなかった。
ユルがゆらりと身体を起こす。
「……振動……」
「え?」
「馬が近づいてくる……」
力を振り絞って、ソフィアも起き上がった。
見ると、遠くに土埃が上がっている。遠くと言っても、思ったよりもずっと近くだった。
しばしして、ユルの言うとおり馬が見えた。その上にある軍服姿に、ユルが鼻を鳴らす。
あらわれたのは、三十二、三の細身の軍人だった。
「やーよかったよかった、間に合って。ユル、ご苦労だったな」
馬を降りて、座り込んでいるソフィアの前に膝をつく。
「はじめまして、乙女。私はウォルター・キューウェル大尉です」
「え……」
「バンフィールド少佐の命により、お迎えに上がりました」
男――キューウェル大尉の笑顔は頼もしかった。