三章
『それ』は、なんだかいびつだった。
細身の、まだ少年らしき身体の線。全身にまとった包帯には、あちこちに血がにじんでいる。その包帯の隙間から、大きな瞳がのぞいていた。
どこを見ているのかよくわからない視線。ゆらゆらと揺れる身体。
一見したところ普通の人間のようにも思えるそれをいびつだと思ったのは、きっとそのたたずまいのせいだろう。
駅舎に満ちる青白い光がぎりぎり届かない場所に立っている。
「お前……ナヤか」
ユルが言葉を発して、ソフィアは我に返った。
さきほどまでいなかったはずの『なにか』があらわれて呆然としていたのは、彼女だけであったらしい。
「何年ぶりだ……八年か?」
「やっぱりお前が隠してたんだ!」
ユルの問いかけには応えず、異形の少年、ナヤが叫ぶ。
「ようやく見つけた。かあさま、探してたよ」
「かあさま?」
「いるじゃないか、そこに」
す、と少年の手が上がる。指さしたのは――。
「わ……わたし……?」
突如渦中に放り込まれ、ソフィアはぎくりとした。
『かあさま』『隠してた』……単語の意味はわかるが、それだけだ。ナヤがなにを言っているのか、まったくわからない。
(誰かと勘違いしてるんだわ……)
「深く考えるな、ソフィア。壊れてるんだ」
ナヤが指さしている先をちらりと確認しただけで、ユルは素っ気なかった。
「ユル……かあさまを隠していた罰は受けてもらうよ……」
くすくす笑いとともに、闇の中へと消えていく。
――静寂が落ちた。
不吉で、緊張に満ちた空気が身体にまとわりついてくる。
「……」
身動きするのもためらわれた。なにかしようとすれば均衡が崩れてしまうのではないか、という理由のない恐怖感があったからだ。
(……でも、ああ……)
いつまでも縮こまって怯えていることはできない。
からからの喉を叱咤する。
「……ユ、ユル……怪我を見せて……」
震える膝を励ましながら、なんとか立ち上がった。
ここにソフィアひとりだけであれば、混乱と恐怖に身動きが取れなくなっていただろう。
でも、ユルがいて、怪我をしている。
(わたしをかばって怪我をしたんだ……)
左肩を貫通している木片を見て、ぞっとした。飛び出た先端からは血がつたって、ぽたぽたと床に落ちている。
つかの間考えに沈んでいたらしきユルが目を上げた。
「いや、今復元する。大丈夫」
「復元って――ま、待って!」
ユルが肩に突き刺さった木片に手をかける。ソフィアがあっと息を呑んだのと同時に、勢いよく引き抜いた。
駅舎の床に、血が弧を描く。
「ふー……」
ユルは悲鳴もなく、ただ長いため息をついただけだった。苦痛からか、額には汗が浮かんでいる。
――しかし。
青白い光がまたたく。怪我をしていたはずの左肩を、幾何学的な模様の燐光が覆った。
からん、と投げ捨てられた木片が音を立てる。そのまま床を転がっていって、壁に当たって止まった。
「このとおり、俺の怪我は心配しなくていい」
ユルが言って、左肩を回す。動きはなめらかだった。
怪我が、治っている。――と、言うより……。
「死んでたって蘇生するからな」
ソフィアは唖然とした。
ユルの傷は、跡形もなく消え去っていた。
傷が消滅した。目の前で。
その事実を飲み込む前に、ユルが突如ふらついてびくりとした。
「ま、待って、全然大丈夫そうに見えない……!」
慌ててユルを支えようとするが、それを拒絶するように距離を取られる。
「ほら、復元してるって。なんともない」
左肩の、服に開いた穴を指さす。血まみれではあるが、淡い褐色の肌は滑らかで傷ひとつない。
「そ……その言葉を、そのまま信じると思うの」
だが、ソフィアは引き下がらなかった。どこかごまかすようなそぶりのあるユルを、じっと見上げる。
すっと目をそらされた。
「……それより、ナヤのことを考えないとな」
「ねえ、顔色も悪いわ」
「だから、今は、それどころじゃ――おい、話してる途中だろォ!」
ガァンッ!
どこかから飛んできた木片が、思いっきり霊機炉に突き刺さる。ユルが咄嗟に地面に身体を投げ出さなければ、再び彼を貫いていたはずだった。
「くそ、やっぱり壊れてるヤツは空気も読めないんだ」
きゃらきゃらと響く笑い声。ユルが舌打ちする。
「おい、ソフィア、逃げるぞ」
「え、た……戦わないの?」
「俺は今戦えない」
「え?」
壁にすがるようにして立ち上がったユルを、慌てて支える。今度は拒否されなかった。
「戦えないって、どういうこと?」
「その、つまり……だから、今日はすでに何度か復元してる。汽車で一度。飛び降りて一度。それから、さっきの怪我だ」
正直言って、彼の説明は説明になっていなかった。
それでも、なんとなくはわかる。最初に会った時、彼は血まみれで咳き込んでいた。次には、汽車から飛び降りた。そして、今の怪我。
ユルは、自分で言ったとおり不死なのだ。
「……怪我をしてもすぐ治るけど、何度も繰り返すと身体の調子が悪くなるのね?」
「治るんじゃない。復元するんだ」
「違いがわからない」
これ以上、わたしを悩まさないで――そう言いたかったが、相手は仮にも命の恩人だ。たとえ、殺してくれなどと要求されているとしても。
ソフィアは、ユルを支えていないほうの手で短剣を抜いた。
「ともかく、逃げましょう」
おそらく、頭ひとつ分以上は身長に違いがある。彼の腕を肩にまわすと、それだけでずしりとして、歩調が鈍った。
重かった。ただの少女のソフィアに支え切れる重さではない。だが、四の五の言っている余裕も暇もなかった。
(重くない、重くない……このぐらい、平気)
「重くない?」
「今、重くないと思い込もうとしているところだから、黙ってて……!」
ユルが口をつぐむ。
ふたりは、足を引きずるようにして駅舎の出口に向かった。
(さっき、ユルは線路をつたっていけば眠りの園の外へ出ると言ってたはず……)
時折笑い声が届く。そのたびに緊張に身体を縮こませながら、きしむ扉を押し開けて外に出た。
夜の闇、そして強い風。
同時に、背後でぼん、という低い破裂音が鳴り響く。びくりとして振り返ると、青白い光が駅舎内に満ちていくのが見えた。
「霊機炉が暴走したな」
「もしかして、さっき木片が突き刺さったから……?」
「ああ、さっさとここを離れたほうがいい。線路沿いの岩場に身を隠しながら行こう」
ユルが銃を引き抜く。
「……」
霊機炉は一度安定すると、半永久的に動き続ける。一方でその回路内に異物――たとえば木片のような――が入り込むと、安定性が崩れて崩壊する性質がある。
百メートル離れたところで、再び大きな破裂音が響いて、今度は駅舎ごと青い光に包まれるのが見えた。
どこかからか響き続けるナヤのくすくす笑い。暗い空が青白く燃える。
呆然と駅舎を見ているソフィアを、ユルがうながした。
「ナヤは真剣に殺しにかかってきてるわけじゃなさそうだ……まあ、すぐに気が変わるかもしれないけどな」
「……」
遠ざかったり近づいたりするナヤの気配を感じながら、うなずくしかなかった。
(気が変わる、か……)
『壊れている』という単語が脳裏をよぎった。
たぶん、それは、ナヤの精神状態のことを指しているのだろう。確かに、まともには見えなかった。ソフィアをかあさまと呼び、隠していたとユルを責め立てる――その姿はまさしく壊れているというほかない。
(知り合い……なのかしら。ユルとナヤは……)
肩にかかる重さに、息が上がる。ソフィアは、いったいどんなふうな知り合いなのだろうと、ただ疑問に思うことしかできなかった。
線路は砂と岩のあいだを縫って伸びている。ふたりは大きな岩の影を這いつくばるようにして進んだ。暗い上に、ソフィアもユルも疲労困憊もいいところで、なかなか距離を稼げない。
ややあって、どちらからともなくへたりこんだ。
ちょっとした木ほどもある岩塊の影にしゃがみこみ、空を眺める。星が出ているが、月はない。お互いに限界なのはわかっていたので、しばらくは息を整えるのに専念した。
急速に身体が冷えていく。凍えるような風の存在を強く意識するころになって、ユルがぼそりと言った。
「あんただけ逃がしたいが、どうするかな……」
見ると、岩に背中を預けたユルが目に入る。その手には油断なく拳銃を握っているが、元気なのは口調だけのようだ。
「見せて」
「ん?」
ソフィアは膝立ちになって、ユルを上から見下ろした。
「あなたの怪我を、もう一度見せてって言ってるの」
「ええ? さっきも見せただろ。もう治ったし――おい」
強引に彼のシャツを引っ張り、中をあらためた。
とうてい年頃の少女のすることではないが、今はどうでもいい。
確かに傷は治っている。しかし、べったりとついた血はまだ乾いてすらおらず、肌や服にへばりついていた。
じっと彼を見つめると、聞えよがしのため息が返ってきた。
「……死なないのね」
「死なないんだよ。……不死なんだ」
「きれいになってる。服には穴が開いているけど、肌には開いてない……」
「なあ、べたべた触るなよ」
嫌そうな顔をするユルのことは無視した。だいたい、この男は今日会ったばかりだというのに、すでにソフィアの手を握ったり、抱きかかえたり、着替えさせているのだ。
(自分は嫌がるくせに……)
段々腹が立ってきた。
「復元ってなんなの?」
「そんなこと説明してる時間は――」
「人に!」
静かだが低い声は、我ながら剣呑な迫力であふれている。
「殺してとか言っておいて、なにも説明しない気なの!」
ユルは気圧されたような顔をしていた。
ソフィアには彼をどうこうできない。弱っているとはいえ、相手は軍人――しかも不死なのだから。
なのに、目の前の彼女を恐れてでもいるかのように、岩塊に背中を押し付ける。
「そ……そうは言ってない。ただ、今はいろいろ緊急事態だ。後ででいいだろ」
「そうなの」
なら、もういい。
ソフィアはふいとユルから手を離した。
「そうやっていつも、誰も、わたしにはなにも説明しない。いいわ、わたし、あなたを殺さないから」
「はあ?」
背後から聞こえてきた不服の声は聞こえなかったふりだ。短剣を構え、岩陰からこそこそと駅舎の方向をうかがう。
「おい」
「さっきも言ったけど、わたしに人殺しなんてできない。だって……そんなの無理だわ」
ぎゅっと短剣を握った。
「そんなことできるはずないでしょう。人を殺すってどういうことだか、あなたは本当にわかってるの?」
ソフィアには想像がつかなかった。でも、それが忌まわしく、恐ろしいことなのはわかっている。
うつむくと、強風が髪の毛をはためかせた。そうすると、地面のほかにはなにも見えなくなる。
「誰かの命を、自分の手で奪うなんて……できっこないじゃない……」
「ソフィア!」
肩をつかまれて、引き寄せられる。
岩塊がばちんと鳴った。
石くれがばらばらと降ってくる。なにかがぶつかって、そして弾けた――。
ナヤだ。
「ぼうっとするな」
見上げると、ユルが険しい顔をしている。
彼に抱きかかえられているのだ、と気づいた。
「ナヤが追いついてきたみたいだな」
「……あなたたち、知り合いなんでしょう? なんとか説得は無理なの……?」
「説得?」
ふ、とユルが鼻で笑う。
そして、自分の頭を指さした。
「明らかに復元失敗でここを損傷してる。話の通じない化け物を相手にしてると思え」
乾いた笑いに、なんとなくお腹の底が冷たくなった。
「復元失敗……?」
ユルはソフィアの怯えたような視線にも、まったく動じない。ただ当たり前のことのように、こう答えただけだった。
「俺もいつかああなる」