二章
『簡単だろ? 助けた代わりに、俺を殺してくれればいい』
そんな声が聞こえた気がした。
ぼんやりとした薄青い光が瞳の奥に届く。ソフィアは、身体の正面にじりじりとした熱さを、そして背面にひんやりとした冷気を感じていた。
(殺してくれればいいって、……なんにも簡単じゃない……)
それとも、彼はそう感じているのだろうか――。
「……彼?」
ぱっと目を開ける。
強張った身体が軽くきしんだ。手をついて身体を起こすと、身体の上から毛布が滑り落ちる。
目の前に鞘に入った灰の短剣が置いてあったので、反射的に握りしめた。そうすると、いくらか心が落ちついた。
「……わたし……」
見渡すと、埃っぽく、かなり暗い。
レンガの壁の、広い部屋だった。いや、部屋というよりは、なにかの施設のようだ。
大きな霊機炉が備えてあって、あとはがらんどう。古い建物ではなさそうだが、使われなくなって少なくとも数年は経っているように見える。ガラスを風が叩いて、びくりとした。
――夜。
「道理で真っ暗……」
稼働している霊機炉から漏れている青白い光が、かろうじてのところで空間を照らしてくれているのだけが幸いだ。
「霊機炉は一度動くとなかなか止められないからな」
「……!」
突然、背後から声がかかって飛び上がるほど驚いた。
恐る恐る振り向くと、いつの間にか、外に通じる大きな扉のところに背の高い影がある。大柄だが、鈍重な印象はまったくない。こうしてシルエットで見ると、俊敏な野生の獣を思わせた。
「ええと……あなたは、『新入り』さん……」
「ユルだよ。名乗っただろ」
そう。彼は、ユルと名乗ったアゼール人だ。
ソフィアはようやく、意識を失う前になにがあったのかを思い出した。
――ユルが、彼女を抱きかかえて汽車から渓谷へと飛び降りたのだ。
「助かったな、開拓時代の駅が近くにあってさ。霊機炉もまだ動いてるし」
「ま……待ってください。『助かったな』じゃなくて……」
いかにも普通のことのように言いながら歩いてくるユルから、慌てて後ずさる。
「どうしてこんなところに、というか、なんで助かったの――あっ。ま、待ってください、わ、わたし、着替えてる……」
見下ろすと、先ほどまで着ていたはずの白装束ではなくなっていた。どこにでもよくあるようなシャツにスカート――まるで町娘だ。
ユルは彼女の混乱を斟酌しなかった。あからさまに動揺し逃げ腰のソフィアの近くまで無遠慮に歩み寄り、しゃがみ込む。
「質問は順番にすれば? 服は、着替えさせただけだけど」
「着替えさせた?」
「川に落ちてずぶ濡れだから、そのままにしておくと危ないだろ。夜に気温が下がるのはわかりきってるんだから」
「えっ――」
「周りの家に服が残されててよかったよ。俺も着替えられたしな」
もはや、なにをどう言えばいいのかわからず、絶句した。彼女は一応、まだ十八歳の若い乙女だ。そして、彼は見たところ二十三、四の青年――ソフィアでなくとも、唖然とするはずだ。
……が、当の本人は『なにを当たり前のことを』というような顔をしている。そして、ソフィアがなにも言えないのをいいことに、その話題には二度と触れなかった。
「そういえばあんたは世間から隔絶されたところにいたんだって? もしかして開拓時代を知らない?」
「……か、開拓時代。……そのぐらいは知っています……」
「そう。ほんの十年前の話だ。不毛の地眠りの園を、霊機学の力で開拓する試み……その時に開拓拠点として作られた駅舎のうちのひとつが、ここ」
「ま、待ってください、あの……いっぱいいっぱいで」
理解が、追いつかない。
ともあれ、ぼんやりとした状況は飲み込めてきていた。汽車から脱出した――いや、救ってもらった、のだろうか? そして、川に流されてこの廃駅にいる……。
「……つまり……ここが開拓時代の駅舎だということは、わたしたちは眠りの園の中にいるということでは……?」
「そうだよ」
「ね……眠りの園は、神々の眠る地です。そこを荒らせば必ず災いが起きます。アゼール人のあなたのほうがよくご存じでしょう」
それこそ、誰でも知っているはずだ。アゼール人の神々の眠る、生命を拒絶する地――少なくとも、そのような伝承があり、実際にそうであることは事実だった。
眠りの園では、人は長く生きていけない。とどまれば消耗し、死に至る。
だからこそ、ここ数十年で急速に勃興した霊機学の力を借りた開拓が大々的に行われたのだ。もしこの広大な荒れ地を豊饒の地に変えることができれば、人はもっと豊かになれると、そう信じて。
「……開拓の試みは無残に失敗した……霊機学をもってしても、です。一刻も早くここを出なくてはならないのではありませんか?」
しかし、深刻なソフィアの様子に反して、ユルはほとんどのんびりしていると言っていいほど危機感のない口調で答える。
「大丈夫。一日か二日なら死なないし、この駅舎から線路をたどっていけば数時間で眠りの園の外に出られるよ」
「な……なにを根拠にそんな……」
「この駅が証拠だ。十年前に駅舎を建設し、小さな町を築くまではできた……まあ、そこまでだけどさ。考えてみろ、駅も街も、一日二日でできるか?」
「……」
なにかを言い返そうとして、そして、結局なにも反論はできなかった。
……確かにそうなのだろう、と納得してしまったからだ。ユルの言葉には、今ここにある駅舎や霊機炉というゆるぎない裏付けが存在している。
「それに、ここにいるほうが安全かもしれない」
青白い燐光に照らし出されたアゼール人の青年の目は、ソフィアを見ていない。ちらちらときらめく金色の瞳は、なんだか考えに沈んでいた。
「あんたは命を狙われている。が、ここにいる分には、その危険からは離れていられるしな」
「そんなことを言っても、別の危険が――」
はっ、と息を呑む。
「そうだ……わたし、汽車で殺されかけた……」
爆発。そして、その後にあらわれた車掌。
明らかにソフィアを狙った攻撃だ。乙女のための特別便を狙って行われたそれは、誤解のしようもなくその意図を表明している。
ユルが首を傾げ、身体をかがめて覗き込んできた。
「もしかして今まで忘れてたのか?」
「そっ……それは、いろいろあったからです……!」
真顔で訊かれて、かっと頬が熱くなる。思わず、『あなたが変なことを言うから』とか、『服だって着替えさせられているし』とか、心からの動揺が口を衝きそうになった。
しかし、ソフィアはそれをぐっと飲み込んだ。……ここでそんなことを言っても、どうしようもない。ほかに気にすべきことがあった。
「それより……みんなはいったいどうなったんですか? わたしの侍女や、護衛の軍人――あなたの仲間たちは……」
「さあな。運がよければ生きてるだろうよ」
「……あ……あなたは……ずいぶんと平然としていますね。もしかして……最初から全部知っていたんですか?」
「もちろん」
ユルはあっさりとそれを認めた。
「ソフィア、あんたは境域の乙女……つまり、アゼール人と西方人の融和の象徴だ。あんたに存在していられては困る連中がいるらしい」
「……わたしに、存在していられては困る……?」
「受け売りだからなあ、なんて言ったか……そうそう、イオルティア独立戦線だ」
イオルティア独立戦線。
その単語を口にしたユルの表情には、これと言った感情は浮かんでいない。彼が言うとおり、誰かに聞いただけであって、彼自身の興味はそこにはないようだ。
「西方文化原理主義者どもの集まりらしい」
「き、聞いたこともないわ、そんな組織……」
「ともかく、あんたはいろんな意味で注目の的だ。あんたに死んでほしい連中もいれば、死んでもらっては困るやつらもいる。たとえば――」
と、ユルはそこで皮肉っぽく吐き捨てた。
「俺のご主人さまとかな」
「……その人が、わたしを助けるように、あなたを使わしてくれた……ということですか?」
「ああ。俺もあんたには会いたかったし」
先ほどのつまらなそうな顔から一転、悪戯っぽくにっと笑いかけられる。が、ちっとも絆されなかった。見目のいい男だが、それだけで心が動かされるのにはいろいろと起こりすぎている。
ソフィアはじっと彼を見た。
「わたしに……殺してほしかったから?」
「灰の短剣」
ユルがソフィアの手を無造作つかむ。ぎゅっと握ったままだった短剣のことを、そこで思い出した。
「それだけが俺を殺せるんだ」
その目は真剣だった。
あまりの真っ直ぐさに、怖くなる。冗談を言っているのでも、大げさなのでもない。その言葉には、真実だけが持つ強烈な鋭さがある。
彼の手を振り払った。
「――こ、この短剣は……乙女のための、聖なる祭具です。誰かを、ましてやあなたを殺すためのものではありません」
胸に短剣を抱えこむようにして、小声で言う。正面切って言葉をぶつける勇気がなかったからだ。
「それに……わたしには人殺しなんてできません。そんな恐ろしいこと、考えただけでも……」
「あんたの命を助けたのはそのためだ」
ユルは、ソフィアの拒絶にもまったく動じていない。ただ肩をすくめただけだった。
「命の見返りは、命で――ちゃんと釣り合ってるだろ」
話の通じなさに、唖然とする。
天秤の片方に勝手にソフィアの命を乗せて、そして、その反対側には自分の命を乗せている。そんな言い方だった。
もちろん、命とはそんな軽々しいものではないはずだ。……そのはず。ユルを前にしていると、そんな当たり前の価値観がぐらついてくるようで眩暈がする。
「し、知らない。……見返りとか、なんのためとか……!」
思わず、言葉に隠しようもない拒否感が乗ってしまった。
言ってからハッとしたが、もう遅い。乙女としての振る舞いも、見知らぬ危険な男に対する警戒心も忘れた自分に内心で狼狽する。
反射的に落とした目線に、町娘の服が飛び込んできた。
(……ああもう)
今着ているのは乙女のための白装束ではない。
……それなら、今ここでだけは、言いたいことを言ってしまおう。瞬間的に、ソフィアはそう開き直った。だって、目の前の男は『殺してほしい』のだ。
だったら、その前に彼女を危険な目には合わせないはず。
「だいたい……わたしたちがここで無事でいることがおかしいわ」
「なに?」
「あんな高い橋から落ちて、生きていることがおかしい。それとも、あなたは霊謡師なの?」
もし、彼が霊謡師ならば、助かった理由に説明がつく。アゼール人は眠りの園の神々との細い絆を利用し、不思議な力を使うと聞いていた。
「いいや。無事だったのは単に俺があんたをかばったからで――」
ユルが言葉を途切れさせる。
視線を天井の隅の辺りに向けた。
「……しっ。おかしいぞ」
「は、話をそらさないで」
「そうじゃない。……誰かがいる」
「……え?」
低くなった声の調子に、気圧される。
思わずユルの視線の先を追ったが、ソフィアにはなにも見えなかった。けれど、彼が冗談を言っているのではないことは、急激に空気を満たす緊張感からうかがい知れた。
「なあ、ユル……隠してたな、お前……」
わだかまった闇の中から声が響く。
突然、ユルがソフィアに覆いかぶさった。なにが起こっているのかもわからないまま地面に引き倒され、悲鳴を上げることすらできない。
次の瞬間、衝撃があった。
目の前に鋭い木片が飛び出している。……ユルの肩を貫いて。
覆いかぶさった彼は、もはやソフィアを見てすらいない。どこか闇の中を見ている。
「……誰だ」
そのまま平然と身体を起こす。ソフィアはただぽかんとしているしかなかった。
大きな身体が彼女の上からいなくなって、視界が開ける。
青い燐光が空間をぼんやりと照らしていた。
「ああ……やっぱりそうだ! お前がかあさまを隠してたんだな……ユル!」
部屋の片隅。
先ほどまではいなかったはずの、異形の影がそこに立っていた。




