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十八章

「……ソフィア、その女の言うことはすべて、自分のための方便だ。『願い』との仲立ちを望んでいるのは俺でもあんたでもない。……バンフィールドなんだ」

 ユルが言うと同時だった。

 ソフィアの肩に、優しく柔らかい手が触れる。……エステルのものだ。

「……なにを言い出すのかと思えば」

 穏やかで落ち着いていた。

 その声は伸びやかでよくとおる。間近で聞いているとなおさらそのことが意識された。

万華鏡(カレイドスコープ)は『願い』を見せる……ああそのとおりだ。私がその望みのために突き動かされている……そう、当たり前だろう?」

 ユルに向けられながらも、その実、ソフィアに語りかけられている言葉。

 間違いなかった。エステルは冷酷で、計算高く、支配のための手腕に優れている。いや、優れているなどというものではなく、もはやそのために生まれてきたのだと言ってもおかしくないような気さえする。

 だから、わかった――今彼女が語るすべては、ソフィアに聞かせるためのものだと。

「なかなかの洞察力じゃないか、ユル。……私はこの万華鏡の中に完全性を見た。それは、他の誰でもない、私のための完全性だ。だが、それがどうしたのだろうか? 仮にお前が万華鏡を覗いたとして、そこに見えるのはやはりお前のための『願い』だ」

 ソフィアが、ユルとの未来を見たように……おそらく、ユルは自身の死を見るはずだった。

「自身の望みのために戦う……それは私であり、お前であり、そして乙女なのだ。断罪は結構だが、ならば、お前も断罪されなければならないのではないか」

「……」

「乙女、わかっているだろう。あの男は私の身勝手さを非難してみせた……自己中心的で、私のみで完結する『願い』をね。しかし、同時に私はこう言おう――彼の願いもまた、あなたを顧みない自分勝手さの産物だ」

 なにも言えなかった。

「彼は御大層なことを言いながらも、決してあなたのためには生きようとしない。……そうだね?」

 冷や汗が背筋をつたう。霊機炉のおかげで、部屋の中は熱いぐらいだった。なのに、寒気がして身体が震える。エステルの甘く残酷な指摘は、ユルだけでなく、ソフィアの中にある自己中心性をも突いている。

 ――なぜなら、ソフィアはユルに生きていてほしいからだ。たとえどんな姿になっても、苦しんでいても、それでもそばにいてほしかった。

 いつだったかエステルが言い当ててみせたように、それはエゴだった。他人の命の権利を握って離さず、己のために生きてほしいと願う……。

 エステルといったいなにが違うのだろう。

「乙女。あなたに今一度問おう。……自分のために望み、生きることは悪いことだろうか?」

 ……先ほどまでのわずかに責めるような口調が、優しく寄り添うように和らぐ。

「人間は、自己というレンズを通してしか世界を捕えられない。ちょうど、万華鏡を覗くように……。であれば、自分のためにしか生きられないのは当たり前だ。だから、私はあえてあなたに提案しよう」

 エステルがささやいた。

「私は、あなたに私と『願い』とのあいだを仲立ちしてもらいたい。そのあとに訪れるのは、私のための世界だ。完全で、完成された世界……その中にあって、あなたには私のために生きてもらいたい。そこでは、それがあなたのためになる。……そのように取り計らおう」

「……わたし」

「心配はいらないよ。ユルともいっしょにいさせてあげる。それが望みだったのだろう? 彼の不完全性は私にとっても呪わしく目障りなものだが、それも解決できるはずだ。そうすれば、すべてが完成する。そうとも、それが女王蜂の巣というものだ……」

 唇を噛んだ。

 蜜のような誘惑。あまりに甘美で、ふらつきそうになる。

 ソフィアは真っ直ぐ前を見た。そこにはユルがいて、視線がぶつかり合う。

 ――乙女ではなく、ソフィアでいられるか?

 彼と交わした約束を、一度も忘れていなかった。

「わたしは、あなたの意のままにはならない」

 なぜなら、彼女はもうすでに自由だからだ。


 ソフィアは静かに、しかし大きく息を吐いた。

 いつのまにか呼吸を止めていた。

「……あなたには、わたしもユルも救えない。……その気がない」

 背後のエステルは一瞬沈黙した。しかし、肩に触れる手がほんの少し力を帯びるのがわかった。

「乙女、その返答はあまりに感情的だ。どうか、私の提案をもう一度――」

「いいえ。わかっていたんです」

 ソフィアは言った。

 最初からわかっていた。エステルにはソフィアを許す気も、ユルを生かしておくつもりもないのだと。

 ――こんな場所で、ひとりきりで彼らを待ち構えていたからだ。

 話したい、などというもっともらしい理由をつけながらも、その行動が真意を物語っていた。エステルは社会の中に生きる人物だ。名家の当主であり、軍幹部であり、いずれは議員になるかもしれない女性……。

「ユルという脅威のことをわかっていながらもひとりで待っていたのは、そのリスクを冒さざるを得なかったから……そうですよね」

 彼女は今、危機にさらされている。乙女の失踪が明るみに出た上、己の陰謀が露見しようものなら、エステルの築いてきたものは崩れ落ちるだろう。

 まだ戦えるかもしれない。陰謀と闘争に勝てるかもしれない。……しかし同時に、それは長く苦しいものになるに違いなかった。

「……誰にも知られるわけにはいかない。だから、自分という餌をぶら下げてでもわたしを取り戻す必要があった……」

 ソフィアはぎゅっと拳を握った。

「わ、わたしは……もしかしたら、あなたがわたしやユルを救えるかもしれないと思った。あなたが冷酷で信用のできない人だとはわかっていました……でも、それでも、あなたが救ってくれるのなら……」

『私は希望を指し示している。支配などという些細な欠点も目に入らぬほどの、まばゆい希望をね』

 エステルの言葉には今でも心をゆらされる。

 それでも、ソフィアはずっと考えていた――彼女の語る言葉の意味を。それが本当にソフィアとユルにとって救済となるのかを。

「……それを聞き出すために、一芝居打ったというわけか」

 冷たい声がうなじのあたりを打つ。ぞくっとした。

「しかし、私の語ったことに嘘はない」

「いいえ。……あなたは、本当はわたしではなくて、短剣が必要だったのではないですか?」

 ホロウェイの持っていた指令書には、確かにそうあった。

 乙女の確保が難しければ、短剣を回収せよと……。

「ユルとは別の男にそのように指示を出していたのを知っています。でも、あなたの話のどこにも灰の短剣は出てきませんでした。……それならば、短剣はいったいなにに使うつもりだったんですか?」

 ナヤの心に触れてわかったことがある。

 オハラシュとの絆は、今やソフィアの中にも生まれていた。

 先代乙女シャナイアとオハラシュのあいだに絆があったように――なぜなら、オハラシュこそはシャナイアが殺し損ねた神だからだ。

 そのときにできたつながりのために、シャナイアはオハラシュと実験体のあいだを取り持つことができた。

 ……では、ナヤを通してオハラシュとのあいだにつながりを持ったソフィアは、シャナイアと同じ役目を請け負えるはずだ。

「あなたは、乙女にユルを殺させて……そして、オハラシュとのつながりを持たせるつもりだったんですね。そうすれば、あなたとオハラシュとのあいだを仲介できるから……」

 もしかしたら、エステルが短剣の使い道について、もっとほかの考えを提示してくれるものと期待していた。

 彼女の言葉のどこにもそれはなかった。

 もちろん、今ならばユルを犠牲にせずにエステルとオハラシュのあいだを取り持つこともできる。しかしそれはもはや問題ではなくなっていた。

「……そのことを黙っていましたね。その万華鏡が『願い』をかなえるという話も、もう信じることはできないわ」

 重い沈黙が落ちた。

 ユルの銃口は相変わらずこちらへ向いている。……彼がこの部屋に入ってすぐにエステルを殺しにかからなかったのは、なにも彼女を殺さずに切り抜けられると信じていたからではない。

 ソフィアのためだ。

 自分のために死ぬことを望みながら、彼女の『願い』の細くかすかな可能性に賭けてくれたからだった。

 もし、ソフィアが希望をいだかなければ、エステルはすでに死んでいたかもしれない。今だって、あいだにソフィアがいなければもう撃っているだろう。そうなっていたほうがよかったのかもしれない。

「少佐。……もう一度だけ、訊きます。どうかわたしを納得させてください……」

 ……しかし、ソフィアはまだあきらめていなかった。

「ユルを救う方法があるのではありませんか?」


「……賢いやり方を選べ、乙女」

 エステルが口を開いた。

 肩を強くつかまれる。はっとしたときには、背後で少佐が銃を抜いた気配があった。

 顔の横からぬっと伸ばされた腕。構えられた銃がすさまじい音を発する。あまりに至近距離で撃たれた銃に反射的に目を閉じかけた。

 一度、二度、三度。

 連続して撃たれた銃に、ユルがよろめく。

 すべて彼の心臓の付近に命中していた。青白い燐光が放たれる――ノイズ。

 幾何学模様がまたたいて霧散する。

(ああ……)

「おやおや、復元失敗か。ついてないじゃないか、ユル」

「……」

 ユルはまだ立っていた。あっというまに血だまりが足元にできていく。胸のあたりをつかむ手のあいだからも命が流れ落ちていく。

 その瞳はまったく戦意を失っていない。だが、彼の身体はもはや死んでいないだけだ。

「しかし、お前もわかっていたんだろう? 復元失敗がはじまれば、終わりはすぐそこに来ていると」

「!」

 もう一度、銃が撃たれた。

 今度こそユルは立っていられなかった。膝をつき、それでもこらえきれずに地面に伏した。エステルは硬直するソフィアを突きとばした――霊機炉に背中を打ちつけてへたりこむ彼女には目もくれず、ユルのもとへ向かうとそのまま彼の手の銃を蹴飛ばした。

 音を立てて銃がどこかへ滑っていく。

「ここまでしても彼は死ねない。……」

 エステルが振り向く。

 もう守ってくれるユルはいなくなってしまった。ソフィアは震える膝を叱咤して立ち上がり、エステルから逃げるように距離を取った。

「……さて、私はあなたを殺すこともできるが、気が進まないのだ」

 少佐はもはや、言葉を飾ることをやめたようだった。

 それは、ユルを救う手段を彼女が持ち合わせないという残酷な真実を告げているも同然だ。

「乙女を手に入れるのにはあれこれ小細工が必要だ。せっかくあなたが私の元へ来てくれたのだから、ぜひ末永く役に立ってもらいたいものだが……」

「……わたしは、あなたの思うとおりにはならないわ」

 ソフィアは逃げた。

 逃げたといっても、数メートルも歩けばそこは袋小路だ。背中を壁に押し当てて、身体を縮こまらせる。

 エステルは悠然とソフィアのあとを追ってきた。

 霊機炉の輝きを受けながら、ぴたりと止まる。そのあいだの距離はわずか数歩。

「もし私に協力するのならば、ユルを殺させてやってもいい」

「……!」

「今の彼には慈悲が必要だろう?」

 神秘の光が少佐を包んでいる。

 彼女は完璧だった。どんなときも、自分を一番美しく見せるすべを知っている。この場の支配権を握る彼女は、まさに神々しいほどだ。

「もちろん、私のことが憎いはずだ。しかし、わかっているのではないか?――あなたが生きるには、人生のすべてを私に賭けるしかないのだと」

 ――しかし。

「……少佐、あなたは完全性に憧れながら、どうしようもなく不完全なただの人間ね」

 ソフィアは灰の短剣を引き抜き、胸の前で握った。

「シャナイアという乙女を手に入れておきながら、その価値がわからずに殺してしまった。それから八年……またしてもわたしを殺さなければいけなくなっている。いったいいつあなたの願いは叶うのかしら」

 エステルがゆっくりと銃口を上げる。

「……それに。わたしはもう、ユルにすべて賭けてるの。あなたに賭けるぶんなんか、もうどこにもない」

 ――銃声。

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