十七章
「待っていた」
エステルが振り向いた。
すらりとした長身。伸びた背筋。落ち着いてよく通る声……。
霊機炉の青白い光に照らし出された彼女に、神々しさすら感じた。彼女が冷酷で無慈悲で、底知れない悪意を抱いているのだと知っているのに、だ。
(……)
ソフィアはゆっくりと部屋に踏み入った。
足が重い。先ほどナヤの記憶に触れたことだけが原因ではなく、エステルと対峙するのが怖いからだ。
「私はひとりだ」
がらんとした広大な部屋の中央にいる彼女が、足を止めてしまったソフィアにちらりとほほ笑んだ。
「そう警戒しなくてもいい。話がしたいんだ」
「……本当にひとりなんですか?」
「無論そうだ。もちろん、そこのユルが私の部下のほとんどを使いものにならなくしてくれた、という抜き差しならない事情もあるが……なにより、あなたとゆっくり話したかったからだ」
ユルを振り返る。
背後に立っている彼は、なにも言わなかった――ただ、つまらなそうな顔をして鼻で笑っただけだ。
その不服従と反抗心に満ちた態度に、ソフィアは安心感を覚えた。彼がいると思うと、エステルに対する恐れが少し薄れる。
「わたしには、あなたと話したいことなどありません」
「いいや、あるだろう」
毅然とした拒絶の言葉にも、エステルはまったく怯まなかった。その程度の返答は想定済みなのだろう。
なにより、ソフィアがここまで来てしまったことが、その本心を雄弁に物語ってしまっている。
「知りたいことがあるはずだ。そのためにあなたは私のもとを逃げ出し、姿をくらませ――そしてこうしておびき出されてきてくれたのだから」
エステルの声が甘く、低くなった。
「ユルを救う方法を知りたいのだろう?」
「ソフィア。耳を貸すな」
ユルの静かな声は、まるで雷のようにソフィアを打った。びくりと背筋をゆらし、それから、いつのまにかにじんでいた冷や汗を意識する。
エステルの言葉に惹き込まれていた。
(……落ち着いて)
深呼吸し、心臓を落ち着ける。ソフィアは腰の灰の短剣に触れた。
「……そんなものがないのは知っています」
「この研究所は、かつて軍の予算を横流しして行われていた、非道な実験施設だ。ある不幸な女を使って、不死の兵士を生み出す理論を研究していた……もっとも、結果は知ってのとおりだ。生まれたのは究極の兵士などではなく、不完全さにまみれた単なる死にぞこないたち……」
「ユルは、死にぞこないじゃない」
ソフィアの反駁にも、エステルはただ微笑んだだけだった。
「もちろんそうだとも。……少し口が過ぎたな。あなたがそう思うのは当然だ。しかし、ユル、お前はどうだ? 己が死にぞこないではないと言えるか?」
ユルは沈黙を返した。
少佐は笑った。愉悦が口の端ににじんでいる。その顔貌はあくまで美しく、冷酷さは却って彼女の神秘性を強調しているようですらある。霊機炉から放たれる青い燐光が、エステルを淡く縁取っていた。
「そう……お前は死にぞこないだ、ユル。死を求め、死地に飛び込み、死ねずに生きている。不死者はただ生きているだけでその魂をすり減らし続けているのだ。乙女、あなたも知っているだろう。その男の強さを」
「いったいなにを……」
「何度も見たのではないか? 敵を蹴散らし、無茶を押し通すユルの姿を……。もちろん、その強さには秘密がある」
ユルを指し示す。
「人間の身体は通常、自身の力に無意識のブレーキをかける。そうでなければ筋肉は裂け、腱は破壊され、骨は折れるからだ。ところが、そこの男は違う――限界を超えてもすぐに復元する」
――ソフィアはぞっとしてユルを振り返った。
彼はただ険しい顔をしているだけだった。
「そう……もうわかっただろう。ユルが戦うたびに、彼の体内でなにが起こっているのかが。ゆえに、その男は生きているだけで破滅に近づいている。その呪わしい無力さを、彼自身が知っている……」
「……それ以上言わないで」
あえぐようなソフィアの小声に、エステルが優しくささやいた。
「片目を失っているだけのように見えるが、もしかしたら、隠しているだけで他にもなにかを失っているのかもしれない……。なにしろ、彼は弱音を隠すのだから、見た目だけの損傷だと思うほうが間違っているのではないかな?」
「聞きたくない、そんなこと……」
ソフィアはうつむいた。しかし少佐がこちらに視線をそそいでいるのを感じていた――同情と憐憫の視線を。
「……彼を救えるとしたら?」
静かな声は、あきらかな誘惑だった。
「もし、あなたが私とともにあってくれるのなら……私もあなたの目的のために協力を惜しまない、と言ったとしたら?」
「わたしは」
「あるんだ」
エステルがソフィアに手を伸ばす。
距離は十歩。
――混乱した面持ちのソフィアに、少佐は優しく言葉を重ねた。
「ユルを救う方法はある」
「嘘だわ」
「いいや、嘘なものか。あなたにも以前、見せただろう――『望み』を見せる万華鏡を」
ぎくりとした。
ソフィアの胸中に、ユルとふたりでいる光景がよみがえった。現実すらかすむほど鮮やかで、あまりにも本物らしい思い出。
その実、それは彼女の中にしか存在しない。
「あなたは境域の乙女だ。境界線の上で世界をつなげる女……そうであれば」
エステルの声がひそやかに、秘密めかして語りかけてくる。
「あなたの『望み』と、『現実』を仲立ちすればいいのではないかな?」
無造作に、首から下げた万華鏡に触れる。
少佐のそのしぐさに、ソフィアは足元が揺れるような感覚を覚えた。あれを覗いたときに感じた寒気のことを覚えていた。
それは、強烈な希求に対する本能的な恐れだった。あまりにもほしくて、そのためならどんなこともしてしまいそうな……そんな恐怖。
「ためしてみる価値はある」
エステルがまるで、当たり前のことのように言った。
「もちろん、少し時間はかかるだろう。いかな境域の乙女とはいえ、『望み』などというものとのあいだに無条件で立てるわけではない。しかし、『望み』と『現実』とのあいだに境界線があるのも事実だ。この万華鏡があれば、すぐにそこに至ることも可能だろう……私は研究のすえ、その結論に至った。だからあなたのことがほしかったのだよ」
「……」
「さあ、おいで」
ソフィアはふらりと一歩を踏み出した。
床を踏みしめても現実感がない。ただ、青白く輝く美しい女のほうへと進んだ。
「ソフィア」
背後から肩をつかまれて、はっとした。振り返ると、厳しい顔をしたユルに行き当たる。
「甘い言葉に騙されるな」
「ユル……」
「その女の言うことはなにひとつ信用ならない」
急に現実に引き戻されて、ソフィアは怖くなった。浸っていた希望があまりに心地よく、そして、目の前の真実があまりにも冷たくてよそよそしかったからだ。
ユルが強引にソフィアを引き寄せ、じっと目を覗き込んでくる。
「あんたを利用するつもりなんだ。なぜここに来たのか、約束をもう忘れたのか? 自由になりたいんだろ?――バンフィールドに操られるためじゃないはずだ」
「でも……」
両肩を痛いほどつかまれて、ソフィアは怯えた目でユルを見上げた。
エステルがため息をついたのが聞こえる。
「ユル……お前だって救われたいだろう?」
「うるさい」
「その不死の呪いが消えたらと、考えたことはないのか?……一度たりとも? 普通の男のように生きられたらと想像したことは? そうすれば、彼女とともにいられるという願いを見て見ぬふりしなくてもよくなると、気づいているか?」
「俺はあんたをよく知っている、バンフィールド」
ユルが言った。
ソフィアの肩から両手を離し、銃を抜く。その銃口をエステルにぴたりと合わせた。
「あんたの言葉は支配のためだけにある」
少佐はまったく動揺しなかった。
ユルが引き金を引けば、それで終わり。……そう知っていてもだ。彼女は笑みを浮かべながら、両手を耳の横に挙げただけだった。面白がるような笑みすら浮かべている。
「……支配のための言葉、結構じゃないか」
彼女は弁解しなかった。
「それが悪なのだとしたら、それは誰にとって、どのような悪なのか? 私は希望を指し示している。支配などという些細な欠点も目に入らぬほどの、まばゆい希望をね。乙女、あなたにとってそれは悪なのか?……だとしたら、あなたにとっての善とはなんだ?」
言葉が出てこない。
ソフィアは胸をつかんだ。
「私の支配から逃れる自由、そしてユルをなすすべもなく失う自由……そこに希望はなくただ喪失感だけがある。しかし、私の支配が悪なのだとしたら、それは間違いなくあなたの善だ。……ふふふ……」
そのレトリックは歪んでいた。そして、甘くてかぐわしかった。
ソフィアはユルを見上げた。
「ユル……」
「ソフィア」
彼から一歩離れる。
ユルはただじっとソフィアを見ていた。もう一歩離れる。
銃とエステルとのあいだに身体をさらした。まるで、少佐をかばうように。
「話を……話を聞いてみてから決めたらいい。今、エステルはここにひとり……急いで決断する必要なんて、なにも……」
「万華鏡とかが必要なら、その女を殺して奪えばいい」
「いい提案だ」
エステルが笑った。
「問題は、そうなれば私が研究してきた『願いに至る道』の手がかりがなくなることだが……乙女、それは許せるかな?」
「いいえ。やめて……ユル、少佐の話を聞きましょう。お願い……」
「大丈夫だとも、乙女。彼とて救われたいはず……それに、あなたがそこにいては、私を傷つけることも難しい」
ソフィアは両手を広げた。
それは、ユルからエステルを守る意志だ。彼はその姿を真正面から見据えたあと、わずかに目をそらした。
「……バンフィールド。ナヤはあんたのことを女王蜂と言っていた。……そうだ、あんたは確かに女王蜂だ」
そう吐き捨てる。
「巣の頂点に君臨する、絶対王者……そのすべてはあんたのためにある。あんたにとっては、俺もソフィアも、なにもかもが自分のためのシステムのうちのひとつに過ぎない」
「なかなか面白いことを言う」
「ソフィアを手に入れるために、どんな手でも使ってきたはずだ。なら、そうだよな……その目的はなんだ、バンフィールド。富か? 名声か?」
ソフィアごしに視線がぶつかりあったのがわかった。
――エステルの目的。
レニエロが語っていたように、境域の乙女はその伝統的な役目を抜け出して、すでに巨大な利益を生む装置として扱われ出している。眠りの園を拓き、文明と豊饒の地とすることができれば、そこから生み出されるものの価値は計り知れない。
……しかし。
「いいや。あんたにはもっとほしいものがあるんじゃないのか」
ユルは言った。
「自分を中心とした、完璧な世界……あんたのためにだけまわる世界だ。そして、その中心にいるあんたも、完璧でなければならない。そうでなければ巣の女王とは言えないからだ」
万華鏡。
ソフィアは不意に、エステルがそれを持っている意味に気づいた。
……その万華鏡を、彼女自身が覗いていないわけがあるだろうか?
そこに彼女がなにを見たのかはわからない。
しかし、ソフィアと同様、エステルはそれに焦がれたはずだった。希望の甘さを知り、現実の冷たさを知ったはずだ。
二度、三度と覗くうちに、いつしか希望の甘さにも慣れてしまったに違いない。そして、ただ渇望だけが募っていく――。
「……ソフィア、その女の言うことはすべて、自分のための方便だ。『願い』との仲立ちを望んでいるのは俺でもあんたでもない。……バンフィールドなんだ」




