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十五章

 研究所の中は、薄暗く陰気だった。外見から感じた陰鬱な気配が、静かにわだかまっているのを感じる。

 ソフィアは周囲を見回した。

 廊下の両脇に扉が立ち並んでいる。ほとんどの扉は開いていて、のぞくと部屋の中が確認できた。荒れていて、ガラスやなにかのかけらが飛び散っている。がらんどうの棚。引き出しがすべて開いた机……。

 とある部屋のところまできて、ソフィアはびくりと立ち止まった。

 窓のない部屋だった。とても広く、端から端までゆうに三十歩ほどはあるだろう。

 異様だったのは、剥き出しの壁や床におびただしい量の血が飛び散っていることだ。

「ここで実験の産物が本当に不死なのか、試験されていたんだ」

 背後から声が降ってきて、思わずぞっとした。振り向くと、ユルが立っている。

 彼の顔にはこれといった表情は浮かんでいなかった。

「試験……」

「本当に死なないのかとか、耐久性はどうなのかとか……その時点で脱落するやつも多かった。その試験をクリアしたとしても、次の試験だ。不死が精神に及ぼす影響、痛みへの耐性……」

「……ユル……無理に話さなくても」

「いいや。自分でも不思議だが、別に無理に話してるわけじゃない」

 ユルはそう言うが、その冷静な語り口自体に、この施設であったことの凄惨さがあらわれているように思った。彼の言葉には不自然なほど、負の感情が乗っていない。ここであったことを考えると、そちらのほうがおかしいように思える。

「ほとんどは途中で脱落した。不死になれなかったり、壊れるのが早すぎたり……どうやら、オハラシュとかいう神との相性があったみたいだな」

「その絆、というのは……霊機学で結ばれたものなの?」

 なにげなくしたその質問に、ユルは一瞬沈黙した。

「いや、違うと思う。ここには喉をつぶされたアゼール人の女がひとりいて、その女がなにかをして神と実験体の絆を取り持っていた。……俺にはそう見えていた」

「女……?」

霊謡師(シャーマン)だと思っていたが、よくわからないな。とにかく、その女……ミナハがやっていたんだ」

 なんとなく引っかかるものを感じた。すぐ喉元まできているのに、うまく言葉にならなくてなにも言えない。

 その強い違和感のことを考えながら、ソフィアは口を開いた。

「その人は今どこに……?」

「死んだ」

 乾いた返答だった。

「ミナハも俺たち同様、実験を強要されてたみたいだった。時々、実験を拒否したとかで痛めつけられたのも見た。その日もそうだった」

「その日?」

「八年前だ。新しい実験体とオハラシュとの絆を取り持つのを拒否して、数日食事を抜かれていた。ナヤはそのころもうすでに壊れかけていたが、まだ頭ははっきりしていて、ミナハのことを心配していた……」

 ユルが突然歩き出した。

 なにかを思い出すような顔をしている。ソフィアはそのあとを追いながら、小さく訊ねた。

「その日に、なにが起こったの」

「バンフィールドがあらわれたんだ」

「……少佐」

「軍を率いていた。俺たちには、なにが起こったのかよくわからなかった。わかったのは、この研究所の職員と、バンフィールドとのあいだで戦闘が発生して、殺し合いが起きたことだけだ。俺はその隙に逃げようとして失敗し、行動不能になったところをバンフィールドに保護された。……保護というよりは、囚われたようなものかもしれないけどな」

 迷いなく歩いていくユルについていくので精いっぱいだった。特別早く歩いているようにも見えないが、歩幅違いすぎる。

 いつもは気遣っていてくれたのだろう。それが、今はなくなっている。

「そのときにミナハも死んだ。巻き込まれたんだ。ナヤも、ミナハを守ろうとして蘇生を繰り返し、動けなくなった……そのあとのことは、知らないな」

「……どこへ向かっているの?」

「ここだ。ミナハの死んだ場所――」

 ユルがぴたりと歩みを止める。

 彼がなぜ、そこに行こうとしたのかはわからない。なにか感じるものがあったのか……とはいえ、ユルはそれを語らなかった。

 扉が閉まっている。銃痕がみっつほどついていた。扉のかたちが歪んでいるのか、取っ手をまわすと勝手に開いて内側の壁に当たった。

「ナヤ……」

「……」

 狭い部屋だった。窓がなく、視界がほとんど効かない。

 その隅に、異形の影がうずくまっている。わずかな光に浮かび上がるのは、まばたきもしない大きな両目だった。


「……」

 ナヤは無言で立ち上がった。

 死んだミナハの部屋に、ひとりで――。

「……かあさまが来てくれるとは思わなかった……」

 うつろな声だった。暗闇の底から響いてくるかあさまという呼びかけは、ソフィアに向けられている。

「ナヤ。ソフィアはお前とはなにも関係ない。母親でもなければ、ミナハでもない」

 ユルが静かに言って、思わず見上げる。

 ミナハではない。

 その言葉の意味を問いただすより前に、ナヤが叫んだ。

「うるさい! うるさいうるさい! お前がかあさまを隠してるんだ! あの日からずっと!」

 長いため息。

 ユルが軍刀を抜きながら一歩前に出た。

 それが合図だった。ナヤが前触れなく床を蹴って飛ぶ。ふたりの不死が、ほとんど一瞬で相打ちになった。

 ぱっと血が飛び散る。お互いにはじけるように後方へ倒れ、地面に叩きつけられた。

 慌てて駆け寄ったソフィアの目の前で、ユルの胸のあたりが青い燐光に包まれた。幾何学模様が表面を覆って、復元する。ナヤのほうも同様だった。首から顔にかけてを覆う青白い不死の証……。ジジ、ジジ、と燐光にノイズが走った。

 ユルは、ソフィアを押しのけながら跳ねるように身体を起こした。

 ナヤのほうは違った。ゆっくりと身体を起こしたが、そのゆるぎなく静かな動きに比して、様子がおかしい。

 首から顔に巻かれた包帯に大きな裂け目が走り、血がにじんでいる。あふれてぼたぼたとしたたる血は、なおも流れ続けていた。――傷口が、ふさがっていない。

 復元失敗だ。

(ああ……)

 幾何学模様に走ったノイズ。あれが、復元失敗の合図だった。

 なのに、ふたりはまだ戦おうとしていた。なぜ戦うのかもわからないし、どう止めればいいのかも見当がつかない。

 不死者同士の戦いは、どちらかが行動不能になるまで終わらない――そのことに気がついて、ぞっとする。

「かあさま、待っててね。ユルには罰を下すから……」

 ナヤの声は穏やかだ。しかし、喉でなにかが泡立っている音が混じっている。

「俺がミナハを守れなかったことを言ってるのか?」

「お前が先に死ななかったら、かあさまも死ななかったのに……女王蜂から守れたのに……」

「そうだな」

 ユルが否定しなかったのは、ナヤの言葉を真剣に捕えていないからか、あるいは、ただそう思ったのか……それはソフィアにはわからなかった。

 ふたりは再び戦いはじめた。

 今度は、ナヤの一方的な攻撃になった。ユルはただ攻撃をかわし、いなし、うまくさばいていた。その理由ははっきりしていて、異形の少年は先ほどまでに比べて明らかに動きに精彩を欠いていたからだ。

 ソフィアにもわかるほどだった。一歩ごとに血を撒き散らし、ふらつく――復元失敗の影響は、致命的だった。

 やがて、ナヤは攻撃をはずしたと同時に地面に倒れ込んだ。血だまりの中でもがき、立ち上がれなくなる。

 ユルはただ黙ってそれを見ていた。

「……」

 彼はなにも言わなかった。ソフィアのほうを見ることさえしなかった。

 でも、気づいてしまった。

(わたし……)

 胸が苦しくなった。

 先ほど、不死者同士の戦いはどちらかが行動不能になるまで終わらない、と思った。どこか他人事のようにそう考えていた自分の愚かさに唖然とする。

(わたしだ……わたしが、終わらせるんだ……)

 ――不死者の命を絶つための短剣は、ソフィアのもとにある。

 それを使うときが来たのだ。

 ナヤの苦しみを終わらせ、この世から解放する……それこそが、今ここでソフィアのなすべきことだった。


 灰の短剣をすらりと抜く。細身の刃は清らかだった。

 無言でそれを抜いた気配に、ユルは気づいたようだった。だが、やはりなにも言わない。……ユルらしかった。

(人を殺す……)

 その重みが、息苦しさをともなってのしかかってくる。最初にユルにそれを依頼されたときには、絶対に無理だと思った。

 今だってそう思っている。……なのに、どうして短剣を抜いてしまったのだろう? その自問には、あまりにも明らかな事実が答えてくれた。

(……だって……このままナヤが生きていくことに、どんな救いがあるんだろう?)

 ナヤのかたわらに跪く。

(自己を失い、苦痛を身体に刻み付けて……これでナヤは生きていると言える……?)

 自分には他人の生死を決める権利などないと、よくわかっていた。それでも、ナヤを救えるとしたら、それはソフィアだけだ。

 不死者にとって、死は救い。

 か細い呼吸を繰り返すナヤと目があって、ソフィアは一度目をつぶった。

 ――それから、目を開いた。短剣を両手で持って、顔の高さまで上げる。

「……かあさま……」

 ナヤが小さく言って、びくりと手を止めた。

「ようやくそっちに行かせてくれるんだ?」

「……」

 死んだ母を探していたのは、そこに行くためだ。

 以前、バンフィールド邸にナヤがやってきたときにうすうす気づいていたそれに、ソフィアは言葉を詰まらせた。

「……すぐに」

 それだけ言うのが精一杯だった。

 ナヤはうれしそうだった。

「わかった。すぐにね」

「うん……」

 深呼吸する。

 眼下の穏やかな表情の少年を見る。目はそらさなかった――そうすることもできたかもしれないが、この瞬間から目をそらしてしまえば、それは彼の生から目をそむけることと同じように思えてならなかった。

 ぎゅっと短剣を握る。

 そして――。

 最後の瞬間の細いため息が途絶えた。

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