十三章
「俺には時間がない」
ソフィアは、胸の中にぽっかり穴が開いたような気分でいた。
もしかしたら、ユルも彼女といることを望んでくれるかもしれない――その希望をあっさり打ち砕かれて、そこにあったなにもかもがどこかへ吹き飛んでしまった。
再び長いこと沈黙していたユルが、口を開く。
「最初に会ったときに言ったことがすべてだ。あんたを助けてやってるのは、別に親切でやってるわけじゃない。取引だからだ」
顔を上げる。
ユルは窓のほうを見ていた。しかし、別にどこを見ているわけでもないのだろう。その言葉同様、表情にも厳しさはなく、ただ残ったほうの目でここにある現実を見ている。
ソフィアは立ち上がった。
そして、椅子の背にもたれかかっているユルの前に立つ。
「わたし……なにを言われても、あなたを殺さない」
静かに告げる。
胸の穴は埋めようもないが、だからと言って彼の言葉を受け入れるつもりはなかった。ユルがどこにいて誰と立っていようと、それは同じだからだ。
「取引と言った?」
「ああ」
ユルがこちらを見上げてくる。そして、ソフィアの落ち着いた表情に、少しだけ意外そうになった。てっきり、しょげかえっているか、泣きそうな顔でもしていると思っていた――というように。
ぶつかった視線からは逃げなかった。
「取引は公平でないとならないわ」
「命と命の交換だ。釣り合ってる」
「いいえ。釣り合わない。あなたの命に釣り合うほどには、あなたから与えてもらってないもの」
「与えて……?」
一瞬、ユルは怪訝そうに眉をひそめた。
「わたしにあなたを失うという犠牲を払わせるつもりなら、天秤の片方にも同じ重さのものを乗せてから要求するのね」
そのとき、ふたりのあいだにあったものがなんだったのか、ソフィアにもよくわからなかった。一瞬心が通じたように思えたし、あるいは、彼の拒絶を見たような気もした。
ややあって、ユルが言った。
「……あんたも見た目からは想像もつかない強欲さだよな」
皮肉っぽく言いながら、目をそらす。
「そんな重たいもの、持ってない」
ソフィアはわずかに動揺した。
強欲――それは、彼女の要求を正しく評価していた。ソフィアが突然秤に乗せたものの重さを、彼流の言い方で表現していたからだ。
(……)
ソフィアは、彼の言葉の意味を考えながら口を開いた。
「なら、取引は成立しない」
表情も声も揺らがなかったが、きっとユルには内心の戸惑いを見抜かれたに違いなかった。
「……いいぜ、あんたの理屈につきあってやっても」
声がやわらいだ。
ソフィアを見上げる瞳には、一種の優しさがある。
「その代わり、そのときにはかならず取り立てる」
翌朝、ホロウェイに呼び出された。
ソフィアとユルが彼の執務室に行くと、険しい顔をしたホロウェイと、見知らぬアゼール人の女性が待っていた。
「かけてください」
「あの……そちらの方は」
見たところ、四十ぐらいの女性だった。清潔な身なりをしているし、きちんとしているが、着古した服からは彼女があまり裕福でないのがうかがえる。淡い褐色の肌と、灰色がかかった白い髪……。
「彼女はレニエロ。先代乙女シャナイアの妹だ」
ホロウェイの言葉に、ソフィアはびくりとした。
「先代乙女の……?」
「はじめまして、当代の乙女」
柔らかく深い声は、どこか悲しみを帯びているように思える。
ソフィアは慌てて立ち上がり、深々と礼を取った――こういうときには、乙女として受けた教育が役立つものだ。
「ああ、かけて。今は丁寧な挨拶を交わしている場合ではないんです」
議員が硬い声で言った。
「なにかが起こったんですか?」
「バンフィールド少佐から書簡が届いた」
室内にしんとした沈黙が落ちる。高まった緊張感に、ホロウェイは難しい顔でソフィアを見た。
「あなた宛てです。失礼は承知ですが、すでに開けて内容を確かめさせていただきました」
「……なぜ、ここにその手紙が?」
それは、エステルがソフィアの居場所を把握している、ということを意味していた。
冷たい手で心臓を鷲づかみされたような気分になる。もちろん、いつかは行方を突き止められるだろうと思っていた。ソフィアのほうも、少佐から永遠に逃げようとしていたわけではない。
近いうちに決着をつけるときがくるのだろうと心の底ではわかっていた。
……それが、今だとは思っていなかっただけだ。
「わからない。街の情報屋を使ったのかもしれない。あるいは、当家にもネズミが潜り込んでいるのやも……しかし、いずれあなたの所在が知れることはわかっていました。それが予想より早かっただけだと思うしかない」
ホロウェイが長いため息を吐く。
「ゆっくりしている暇はありません。昨日保留した返事を聞かせてもらえますか?」
「書簡にはなんと書いてあったのですか?」
「ただ、場所を指定して、話をしたい……と」
話。
ソフィアの背中を、冷たいものが走る。以前少佐と交わした会話を思い出した。希望と絶望、甘さと恐怖に満ちたあの瞬間は、今も彼女の心にこびりついている。
「……ホロウェイ議員。返事をする前に、レニエロさんとなにか話をしなければいけないのではありませんか」
自分を落ち着けるように、わざと冷静に言った。
「……ああ、そのとおりです。話を飛ばしてはいけませんね……」
ホロウェイはソフィアの態度に、自分が取り乱していることに気づいたようだ。恥じ入るように頭をぐしゃぐしゃにする。整えてあった短い巻き毛が乱れた。
「あなたの言うとおりです。レニエロは、かつてアゼールの名家『岩山の鷹』の現当主です」
アゼール人はたいてい、名のみを名乗る。たとえばユルがそうだ。それは彼の出生が高貴なものではないことを意味していた。
しかしレニエロは違う。氏族名は、霊謡をつたえる古来からの一族であるということの証明だった。
「現当主、といっても『岩山の鷹』はもう没落して久しい。大げさに名乗るものではありません」
レニエロが静かに言った。
「姉が儀式を拒否したときに、我が家系の名は乙女を輩出した祝福の家ではなく、裏切りものの呪われた一族のものとして記憶されてしまいました」
「……せ、先代の乙女が、儀式を拒否したというのは……本当ですか?」
いつか聞いた、先代乙女シャナイアの話。
ソフィアは自分でも気づかないうちに身を乗り出していた。
「拒否したのではなく、失敗したのだという噂があると聞きました」
「そこまで知っていらっしゃったのですね。そうです……姉は儀式を拒否したのではありません。失敗したのです」
エステルの話を思い出した。
灰の宮は、シャナイアが儀式を拒否したのだということにしたはずだった。
――歴史学者の家に生まれた彼女が、真偽のあやしい歴史資料に感化された末に起こった悲劇。
そう断定して、シャナイアを辺境の分宮へと追放したのだと……。
(拒否と失敗は違う……シャナイアは役目を果たそうとしたけど、できなかったんだ……)
「……儀式の失敗とは、土地と神の解放の失敗を意味します。霊機学のおかげで、都市は著しく発展しました。霊機学は赤子を守り、子どもを育て、人々を豊かにしてくれる。明日食べるものがあるというのは、すばらしいことです……」
彼女の声はなめらかで美しい。話す内容と同じぐらい、声に他人を惹き込む力があった。
「しかし同時にそれは、我々の生活圏が広がっていくことを意味します。育った子どもたちはやて仕事を求め、家を必要とし、そして家庭を持つ。この呪われた大陸の大部分は、不毛の眠りの園なのに……」
「だからシャナイアは責められたのですね」
レニエロがうなずいた。
ソフィアにも、もうわかった。灰の宮やエステルが乙女の確保にやっきになっていた理由のひとつは、それだと。
――境域の乙女の権威は、もはや無限に広がる未来への切符になっている。儀式によって土地を再生させれば、そこには新たな可能性と富が生まれるからだ。
「だからこそ、乙女は儀式を失敗をしてはならなかった。ありえない事態に動揺した灰の宮は、その咎を姉に着せることしかできませんでした――」
「……なぜ、あなたはシャナイアが儀式を失敗したのだと確信しているのですか? 直接聞いたからですか?」
「いいえ。姉は儀式に失敗したあと、家族と話すことも許されずハイアゼリアの山岳地帯にある分宮へ幽閉されました。しかし、わたしにはわかるのです。姉のことが……」
ソフィアは、はっと気づいた。
「霊謡……」
「そうです。『岩山の鷹』は霊謡師の家系です。今となってはその血も衰えてしまいましたが、それでも時折、姉の記憶を夢に見ました。昔からそういうことがよくあって……それで、姉が拒否したのではなくて、失敗したのを知ったのです」
そこで、レニエロが真っ直ぐにソフィアを見る。
「灰の短剣の故事をご存じですか? 二百年前、西方人が船団でこの大陸に入植したころは、我々アゼール人にとってあなたたちは突然あらわれた侵略者でした。争いは数年続きました。しかし、あるときアゼール人霊謡師の娘と、西方人技師が恋に落ちた。そして、ふたりは力を合わせて、その短剣を作ったのです」
ソフィアは自分が無意識に、腰に下がった短剣に触れていたことに気づいた。
「西方人とアゼール人のあいだに立つもの。大地と神のあいだに立つもの。……それが境域の乙女です。あちらとこちらのあいだにあって、灰の短剣をふるうもの……灰とは、白でも黒でもないもののことです」
まるで物語を詠んででもいるような声音。
レニエロの語りの魔力に飲み込まれそうだった。
「では……短剣は大地と神を解放するためのものなのでしょうか?」
エステルの言葉が支配のための道具だとすれば、レニエロの言葉は空気を満たす神秘の力だ。……『衰えた血』などと言えるものではなかった。
「境域の乙女が彼我の仲介者ならば、短剣は?……儀式とは?……姉は、自らの役目に誇りを持って、常に疑問を巡らせていました。霊謡師の娘と西方人技師が灰の短剣に込めたものを見つけようとしていました。そして、見つけてしまったのです……」
わずかな沈黙。
レニエロが告げる。
「灰の短剣は、神を殺すという真実を」
「眠りの園は、はるか昔にアゼール人が大地に残した傷跡です」
いつのまにか、ソフィアは息を詰めていた。
そっと吐き出すと、鼓動が早くなっているのに気づいた。レニエロは大げさに語っているわけでも、演技がかっているわけでもない。なのに、どうしようもなく心を乱されていた。
「氏族同士での、神々を巻き込んだ破滅的な争い。その末に、アゼール人は大きく数を減らしました。死に絶えてしまった氏族も少なくなかったと言います。同時に、神々もまた無傷ではいられませんでした。存在の危機に晒された神々は、眠りにつきました。自らの傷を癒すためにです……苦痛にうなされ、もだえながら、大地の生命力にしがみついて今も眠っている」
ユルと彷徨った、あの不毛の場所のことは忘れようにも忘れられなかった。
(ああ……)
ソフィアにはわかった。眠りの園は生命を拒否しているのではない。
神々のために、そのすべてを捧げているのだ。
「眠りの園の中で人が生きていられないのは、そのためです。長くとどまれば、神々の糧となる……」
レニエロがじっとソフィアの目を覗き込んだ。
「では――儀式で大地と神の絆を断ち切ること、それは、神の死を意味するのではありませんか?」
『灰の短剣は、大地から神を解放する。それはつまり、大地と神とのあいだの絆を破壊するということだ』
エステルの言葉を思い出す。短剣に触れている手が震えた。
「神殺しの剣。姉は行き当たった真実を心に秘めていました――わたしでさえ、夢に見なければ知らなかったでしょう。ですが……」
そこではじめて、レニエロの言葉に人間らしさが戻った。
「献灰の儀は失敗しました。……姉は儀式を拒否したのではない。なぜなら、彼女は眠りの園の神々を、いつ終わるとも知れない苦悶から救うことが使命だと思っていたからです……」
「ああ……」
――ソフィアは、ようやくわかった。
乙女と神。それはそのまま彼女とユルだ。終わらない苦痛の生を終わらせるもの……。
「ですが、失敗したのです。姉は使命を果たせませんでした……」
レニエロが疲労に顔を覆う。
「なぜかはわかりません。しかし、灰の宮は非情です。失敗した乙女に用はないのですから。……ハイアゼリアに幽閉されただけでも、ありがたいと思わなければなりませんでした。彼らもさすがに乙女を殺すことをためらったのでしょう」
レニエロが首を振る。
「――灰の宮の公式の見解では、シャナイアが死んだのは十五年以上前のことです……分宮の窓から崖に身を投げたと知らされました。長らくそれを信じていました。しかし……どうしてか、感じたのです。八年前のあの日に――姉の死を」
そして、ひそやかに告げる。
「バンフィールド少佐。彼女です……彼女が殺しました。顔を見ました。……だから、ずっと彼女のことを調べていました……わたしには優しい姉でした……あんなふうに殺されていいはずがなかったんです……」
「レニエロ、もういい。話してくれてありがとう」
黙っていたホロウェイが、口を開いた。
それで、室内の空気が変わった。レニエロの力はどこかへ消え失せてしまった。
「……僕がレニエロをここに呼んだのは、少佐の危険性を乙女に知ってもらうためです。十五年前に行方不明になったシャナイアは、八年前に少佐に殺された。であれば、その空白に少佐が関与しているのだと思うのが自然です。彼女のもとへ行けば、あなたもそのようになるかもしれません」
「……」
「これでもまだ迷いますか? 僕が信用できないというのなら、こう考えてください。当面のあいだでも、僕を利用すればいいんです。少佐を打倒するまで!」
「わたしは」
ソフィアは真っ直ぐ前を向いた。
「わたしは、そんな理由で逃げ出してきたわけじゃない」
すらすらと言葉が出てくる。
「バンフィールド少佐を打倒するためではありません」
「……では、なんのために彼女のもとを離れたんですか?」
ホロウェイ議員は苛立ちを隠さなかった。今更になって怖気づいたのかと思ったのだろう。
好きに思えばいい、と思った。
「乙女として役割を演じるためでも、少佐に仕返ししてやりたいのでも、ましてやあなたに操られるためでもありません」
そう、そんなことのために飛び出したのではなかった。
「条件があります。協力してもいい。……でも、もうたくさんです、誰かの意のままになるのは。……エステルから来た書簡のことを教えてください。彼女とはしなければならない話があるんです」




