十二章
「マンホールの蓋が動いた形跡があります。ここから逃走した可能性があるかと……」
「やはり灰の宮に逃げ込もうとしているようだな……この近辺にいる可能性が高い。引き続き捜索に当たれ!」
足音が遠ざかっていく。
……追っ手の気配が消えてからしばし。ユルが小声でささやいた。
「……行ったか?」
「行ったみたいだけど……」
ふたりはと顔を見合わせた。
ユルの左目の光は失われたままだった。それを意識して心が痛んだが、そのことに触れることが躊躇われる。
(復元失敗……最初は味覚。次は視覚……)
いったい次になにが失われるかと思うだけで、胸が痛くなった。
幸いなのは、本人が至って冷静なことだろう。おそらく、今までに散々考えて、そして覚悟を決めていたに違いない。少なくともソフィアには、ユルの様子はいつもと同じに見えた。
(わたしも、いつもどおりにふるまおう)
そう決意して、顔を上げる。
――近くの蒸気噴出口からもうもうと熱気が噴き上がっている。そのせいで、この辺りは少し視界が悪い。おかげで、積み上げられたなにかの箱の影に隠れているだけで簡単には見つかりそうになかった。
バンフィールド邸から逃げ出したふたりは、下水を通ってここにたどり着いていた。ところが、相手のほうでも彼らがどこをどう通って、そしてどこへ行くつもりなのか……全部予想がついていたようだ。
「……ところで、まだ下水の匂いがしない?」
「え?」
「なんかくさい……」
袖を鼻に近づけて何度か嗅いでみる。よくわからない。くさい……ような気もした。
下水を通ったせいだ。服に匂いがついてしまったのだろう。
「俺、味がしなくなってから匂いもよくわかんないんだよな」
「そうなのね……でも、今は匂いがわからないほうがいいかもしれないわ。気になってしかたないし、なんだか気分が悪くなる」
「うーん……あんたはもともといい匂いがするからなあ……」
ユルが普通に言って、身体をかがめる。試しに匂いを嗅ごうとしたのだろう。彼女の肩の辺りに顔を寄せようとした。
しかし、そこでふと気づいたらしく、ぱっと身体を離す。
「どうしたの?」
「……よく考えたら、こういうのが馴れ馴れしいのか……」
困ったような、気まずそうな顔になる。
ソフィアは意外な気持ちで彼を見上げたところで、はっと気づいた。そういえば、八つ当たり気味に『馴れ馴れしい』などと言ってしまったのは彼女だ。
「き、気にしてたの? ごめんなさい。あれは、ちょっとイライラしてて、本気で言ったわけじゃ――」
「しかも……思い出したんだけどさ。そういえば、あんたの服を着替えさせたよなって……」
突如、話がおかしな方向へ進みはじめて、ソフィアは狼狽した。
汽車から脱出した夜の話をしているのだろう。眠っているあいだに、身体が冷えてはいけないという理由で着替えさせられていたあれだ。
なるべく思い出さないようにしていたことだ。とはいえ、よくも忘れていられたものだと、今更ながらに顔が熱くなった。
「よく考えたら、女にすることじゃなかったよな。緊急事態だと思ってやったが……あんたが怒るのも無理はない」
「そ……そういう常識は、あったのね」
お互いに顔を逸らしたまま、歯切れの悪い言葉を交わす。
なにを言っていいかわからず、ソフィアは明るく――しかし微妙に早口に――付け足した。
「あなたのことだから、その辺りはすごくちゃんとしてくれたって思ってるわ。あの時は思わず動揺しちゃったけど、でも、きっと、なるべく見ないように配慮してくれたんでしょ?」
「え?」
「……してくれたのよね?」
「……多少は……」
ユルは急に話題を変えた。
「それより、ここからどうするかを考えるべきじゃないか?」
「……そ……そうね」
――見たんだ。普通に。
そう悟った。もう彼の顔を、どう見ていいかもわからない。
ユルのほうはもう開き直ったらしく、目をそむけるのをやめてソフィアを見下ろす。
「灰の宮とかってところに行きたいんだよな」
「い……行きたいわけじゃないの。でも、そこしか逃げる先を思いつかなくて……」
「……バンフィールドのところにいるよりはマシって程度のところか?」
ソフィアはうなずいた。
灰の宮。
ソフィアは、境域の乙女としてそこで育った。逃げ込めばひとまずエステルからは守ってくれるだろう。
(……でも、そうしたらユルはどうなるんだろう……。彼を助けようとすることを、灰の宮は許してくれるかしら……)
それが、ソフィアに煮え切らない態度を取らせている原因だった。
バンフィールド邸から逃げ出したのは、彼とともにいたいからだ。そうでなければ、この行動に意味などなくなってしまう。
しかし、灰の宮はそれを許すだろうか。
(……わたしは境域の乙女。それを武器にして、戦うしかない……)
ソフィアは地面を見たまま、そう考えた。
許してもらうなどという考えを改め、なんとしても意志を押し通すしかなかった。
「ソフィア」
突然、肩を引き寄せられた。
今までの馴れ馴れしさを反省したことを、もう忘れてしまったらしい。ユルは警戒の表情で箱の影にソフィアを押し込めた。
馬車が滑り込んでくる。
突然あらわれたように見えた。もうもうとした蒸気の中を進んできたのは、明らかに辻馬車ではなかった。
扉が開く。
「出てきたまえ」
降り立った影は、すらりとしていた。
隣のユルの身体がわずかに緊張をはらんだのに気づいた。……まるで、放たれる前の弓のように。もしソフィアが黙ったままでいたら、彼は数秒後には無言で飛び出し、影を殴り倒していただろう。
「ユル――待って。あの人を知ってる……」
ソフィアは言った。
「助けが必要だろう、乙女。僕は味方だ」
「ホロウェイ議員……」
アーネスト・ホロウェイ。
夜会で会った、若い議員だった。
ホロウェイの邸宅はイオルティアの中心部からははずれた、静かな辺りにあった。
しかし、周囲には古い様式の立派な屋敷が立ち並んでいて、歴史の古い区画なのがわかる。
「……なぜ、助けたのかという顔をしていますね」
邸宅の客間。
「親切心だということでは不満かな」
ホロウェイが意味ありげに笑ってみせても、場の空気はちっともなごまなかった。
ソフィアは、目の前に出されたコーヒーには手をつけず、ただ議員の出方をうかがっていた。室内のぴりつく空気には議員も気づいているようで、気だるげに肩をすくめた。
「冗談です」
突然あらわれたホロウェイの助けを受け入れたのは、一種の賭けだった。
ソフィアにはどこにも行く場がない。彼女を助けてくれる誰かは、ユルだけだ。だったら、思い切ってみても悪くないのではないか。そう思ったのだった。
「実は、バンフィールド少佐のところへ、当家のネズミを放っていてね。それで、騒動が起こった情報はすぐに手に入れました。あとは、あなたを見つけるのが少佐が早いか僕か早いか、それだけの問題でしょう?」
「……どういうつもりで、わたしのことを探っていたんですか?」
「……まあ、実を言うとあなたを探っていたというわけではないんですが。単刀直入に言うと、僕はバンフィールド少佐を探っていましてね」
ソフィアはちらりとユルを見た。
隣で足を組んで、じっと黙っている。その左目はもう眼帯で隠されていた。議員の計らいで着替えを用意してもらった時に、ついでに用意されていたものだ。
ホロウェイは忌々しげだった。
「我がホロウェイ家は、バンフィールドに劣らぬ名家だ。入植時からイオルティアの政治にかかわってきました。……しかし、今、僕は政治生命の危機にさらされていましてね」
「……少佐のせいで?」
「ものわかりがいいですね、乙女。そのとおりです」
――そういえば。夜会の時に、彼はエステルのことを責めようとしていなかっただろうか。彼女の警備の不手際について、なにか言いたげにしていたはずだ。
「……夜会でわたしに接触してきたのも、少佐とわたしの関係に探りを入れるためだったんですね」
「ええ、そうです。どう探ったものか考えながら歩いているうちに、いつのまにかあなたはいなくなっていたが……まあ、そのことは今はもういいでしょう」
咳払いする。
「ともかく。……僕が、あなたを襲った暗殺計画の真相を知っていると言ったら、どうしますか?」
「暗殺計画……」
ソフィアは不意をつかれたようで、まばたきした。
命を狙われていることは覚えていた。しかし、あれきり身近に脅威を感じなかったので、ここでその話が出てきたのが意外だったのだ。
「イオルティア独立戦線という組織のしわざじゃないのか」
ユルが口を開いた。
「真相ってことは違うのか? 幹部が指名手配されたとか、活動拠点に軍が踏み込んだとかって聞いたが」
「イオルティア独立戦線。復古主義者の集まりだ。彼らは、入植時の『純粋な西方文化』を至上として、アゼール文化との分離と、イオルティアからのアゼール人排除を望んでいる」
そこで、頭痛を感じたような顔になる。
「……僕は、とある芸術家のパトロンをしていましてね。古典主義の画家だったのだが、よりによって彼がかの組織の幹部であったことが判明し、逮捕されてしまったんです」
「では、あなたも復古主義者……?」
「まさか! アゼール文化との分離とは、霊機学との離別のことを意味します。ありえませんね」
ホロウェイは鼻で笑った。
「なにより、我々西方人とアゼール人は、長いことうまくやってきた。ホロウェイ家のような名家にだって、アゼールの血がわずかに流れている。今更純粋ななんとかのためにことを荒立てる意味がありますか?」
「でも、そう思わない人たちもいるんでしょう?」
「僕は違う。……しかし、支援していた画家が逮捕されたことで、かなりまずい状況に陥っているのは確かです。なにしろ、画家にはたいへんな額を援助していましたから……」
それで、テロ組織の資金源の疑いで、彼は微妙な立場にあるらしかった。
「今はまだ、捜査の手も伸びていません。しかし、それも時間の問題です。無論後ろめたいところはないが、例の画家が僕の資金を流用して政治活動に励んでいたのだとしたら、罪を逃れられたとしてもホロウェイ家は破滅だ」
「……それで、このことを調べはじめて……真相をつかんだのですね」
ようやく、少しづつホロウェイのことが見えはじめてきた。
彼は自分の身を守るため、という、至極わかりやすい理由で動いているようだ。親切心だとか義侠心と言われるよりも、よほど信用できるような気がした。
「これを見てほしい」
ホロウェイがテーブルの上にしわくちゃの紙を滑らせてくる。
「手に入れられたのは偶然です。証拠としての力も弱い。しかし、真相を雄弁に語っている」
少し躊躇したあと、ソフィアはそれを手に取った。
指令書だ。
署名も時候の挨拶もなかった。簡素な用紙に、あちこちがにじんだ、無機質な字が並んでいる。タイプライターが使われているせいで、筆跡はまったくわからない。
「……『爆弾はジエナ渓谷にかかる橋の上で爆発させよ』……『汽車に乗る乙女を確保すること』……『乙女の死亡、その他不測の事態にあたっては、灰の短剣の確保を最優先とすること』……?」
ソフィアは顔を上げた。
「計画は、わたしの暗殺が目的だったのでは……? これだと、まるで……どうしようもなければ殺せというふうに読めますが……」
「そのとおりです。……これは、襲撃現場の近くの谷で上がった死体から発見されましてね。……心当たりがあるのではありませんか?」
「谷……」
ハッとする。
ナイフを持って迫ってきた車掌のことを思い出した。ユルが谷底に投げ落とした男だ。
「その紙切れを手に入れて、出所を探すまでにいくら使ったかは考えたくありませんね。しかし、そのタイプライターの字体から機種を調べて、どこの誰が購入しているのかをどうにか突き止めたんです。ひとりには絞れなかった――しかし、その中に見慣れた名前があった」
ユルが言った。
「バンフィールドか」
「……彼女がどうして乙女を……灰の短剣を奪おうとする行動に及んだのか、それはわからない。しかし、少佐が乙女を保護する手際。灰の宮から引き離し、自らの手もとに置き、公のためのその権威が自らのもとにあると夜会で披露してみせた。辻褄があうのではありませんか?」
ユルはホロウェイの演説を聞くまでもなく確信しているようだった。残った右目が、冷たい色を浮かべている。
「俺はそれを信じるぜ。あの女のやりそうなことだ。適任の俺を差し向けたはいいが、俺が勝手にソフィアに殺されて、短剣が回収不能になると困ったことになるからな。だから、別のほうにも手をまわしておいたんだろう」
「……」
「たぶん、あの汽車にはほかにも同じような指令を受けた刺客が乗っていたはずだ。ひとりだけじゃなかった。……飛び降りる前に、気配を感じたからな」
確かにあの時……汽車から飛び降りる直前、ユルはなにかを気にしているそぶりを見せていたはずだ。
(……)
ソフィアは戸惑っていた。
――エステルこそが、あの事件の真犯人だった。
そう聞かされても、驚きも衝撃もなかった。ただ、底知れない闇に触れたようで気分が重たくなる。
ふと漏らした、場違いな笑い。あの冷酷さを思い出した。
「僕とあなたは、手を組んでバンフィールド少佐に立ち向かえる」
ホロウェイが身体を乗り出す。
「あなたが僕とともにいてくれることこそが、少佐の嘘をあばき、イオルティア独立戦線と僕との無関係を証明してくれるんです。もちろん、助けは惜しみません――あなたとは協力関係を築きたいのです、乙女」
その熱心さには、後のない切迫感がある。
願ってもない申し出のはずだった。
灰の宮という、伝統の圧力にまみれた組織を頼るよりは、ホロウェイと協力関係を築くほうがずっと賢い選択のように思えた。
――しかし。
「……少し、考えさせてください……」
ソフィアは、気づくとそう口に出していた。
「……要するに、イオルティアなんとかっていう組織のことはもう気にしなくてもいいんだろ?」
ホロウェイにあてがわれた部屋で、ユルが唐突に言った。
議員との会談はとっくに終わり、今はふたりきりだ。
ユルは今までまでずっと押し黙ってなにかを考えていた。それでそっとしておいていたのだが、急に口を開いたのだ。
先ほど交わされた会話のことを、今まで考えていたのだろう。
「バンフィールドはあんたのことを手に入れたくて、あんな事件を仕組んだらしいが……」
「そうね……。わたしというより、この短剣かしら……」
灰の短剣に触れ、わずかに沈黙を落とす。
「たぶん、乙女は替えがきくからだわ。何人も候補がいるもの……選ばれる当代の乙女はひとりだけど、わたしが死んだら次の乙女を選べばいいだけだから」
「そんな仕組みになってるのか」
「ええ。……」
ソフィアはちらりとユルをうかがった。
(……今、訊いてみよう……)
少しだけ躊躇してから、思い切って口を開く。
「ねえ……たとえばの話をしてもいい?」
「なに?」
「……もし……わたしが、あなたにいっしょにいてほしいって言ったら、どう思う……?」
言ってしまった。
心臓が早鐘のように高鳴る。まともにユルを見ることができず、ただ床の絨毯を眺めた。
ずっと訊こうと思っていたことだ。
(もし……もしユルが、いたいと言ってくれるなら……)
キューウェルから聞いた希望を、彼に話してみてもいいのではないか。
ユルがそれを共有してくれるのなら、どんなにかいいだろうと思った。万華鏡で見たように、彼女の隣にいてくれたら……彼がそれを望んでくれるのなら。
「……」
ユルは長いこと黙っていた。
彼がどんな顔をしているのだか、まったくわからない。それでもソフィアは待った。ユルの答えを待たなければならない――その一心で。
「……俺はあんたとはいられない」
感情のない声が言って、びくりとした。
「俺があんたのやりたいことにつきあっているのは、その後で殺してもらうためだ――いっしょにいるためじゃない」




