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十章

 ソフィアはじっと扉を睨みつけた。

 取っ手に手をかける。そっとまわしたが、がちりという手ごたえがあって途中で動かなくなった――鍵がかかっているのだ。

「……」

 がちゃがちゃがちゃ。

 両手で取り付いて、強引にやってみても同じだ。大きく息を吸い込んで、扉をガンガン叩く。

「そこに誰かいるんでしょう!」

 返事はないが、絶対にいるのは知っていた。

「鍵を開けて」

「そういうわけにはいきません。部屋からは出すなとの少佐のご命令です」

 聞こえるようにため息をついてやった。

「……お手洗いに行きたいの」

「……失礼しました」

 扉が開いた。

 ソフィアが部屋から踏み出すや、すっとあらわれた軍人が両脇についた。丁寧で隙のない『護衛』だ――たとえここが安全なバンフィールド邸であっても、あらゆる危険から……彼女自身からも、ソフィアを守ろうとする意志に満ちている。

(……これじゃ、普通の方法で部屋から出るのは無理だわ……)

 廊下を歩きながら、ソフィアは朝に交わされたエステルとの会話を思い出した。


「ユルか……あれは、死なせてやった方がいい」

 逆光になって、そう言ったエステルの表情は見えなかった。

 一瞬なにを言われたのかわからなかった――ユルを救う研究をしていると聞かされていたのに。だから、今は救えないとしても、そうしたいと考えているのかと思っていた。

「本人がそう望んでいる」

 ……しかし、違った。

 エステルの声音に動揺は見られない。

「なにより、私はユルと約束した。守らないわけにはいかないだろう」

「や……約束は、もし彼を救えるのなら……無効です。そのはずでしょう……」

「……キューウェルがなにか漏らしたかな?」

 怜悧な声に、びくりと身体を震わせる。エステルは言葉に感情を乗せていない。怒鳴り散らしたわけでもなければ、態度で不愉快をアピールしているわけでもなかった。

 なのに、それだけでソフィアはどうしようもなく萎縮した。

「い、いいえ。なにも……ただ、ユルを救う手はないのかと……それに、どうしてわたしが彼を殺せるなどという確信があるんですか?」

 苦し紛れの言葉に、自分でハッとする。

「そうだわ……わたしが殺せるって、根拠があるの?」

「灰の短剣は、大地から神を解放する。それはつまり、大地と神とのあいだの絆を破壊するということだ」

 エステルはよどみなく答えた。

「すなわち、あなたはユルとオハラシュのあいだの人工的な絆を破壊できる。灰の短剣を使えるのは境域の乙女だけ……いいや、灰の短剣を使えるからこそ、乙女になれると言ったほうがいいか」

 そこで、なにがおかしいのか低い笑いを漏らした。静まり返った劇場で、場違いの笑い声を思わず漏らしてしまった――そんなふうに。

「絆を破壊すれば、不完全さは取り除かれる。しかし、突き立てた短剣によってそのまま彼は死に至る……」

 ソフィアの背筋に冷たいものが流れた。

「人生とはままならぬものだな、乙女」

 ぞっとした。

 今まで、ソフィアはエステルを厳しくも有能な女性だと考えていた。完璧な美貌。非の打ちどころのないふるまい。会話にあらわれる知性。もちろん、冷徹な一面もあるとは知っていた。女だてらにバンフィールド家当主として一族を仕切り、軍務においては多数の部下を従えている彼女が、ただ優しいだけのはずがない。

 しかし、違う。彼女は冷徹なのではない。

 ――冷酷なのだ。

「あなたは、ユルの不完全性のことをどう考えている?」

 エステルは自身の胸に手を置き、窓辺を静かに離れた。いつもの彼女に戻っている。

「そうとも、彼は死なない。今すぐ危険な任務から身を引き、静かに過ごしていれば穏やかに老いていくこともできるだろう」

 その言葉は柔らかく、同情をにじませていた。先ほどソフィアが感知した冷酷さはどこかに消えてしまっている。

「しかし、その先は?」

 立ち尽くすソフィアから、ほんの一歩の距離。そこで立ち止まった。

 すらりとした長身で、透き通った青の瞳が見下ろしてくる。

「彼とあなたが生涯をともにできるように取り計らっても構わない。しかし、それでどうなる? ユルは老いるだろう――不老ではないのだから」

「……」

「肉体が衰え、脳が役目を果たさなくなっても、まだ生きるのだ」

 言葉が出てこなかった。なにか言おうとしては、なにを言うべきかわからなくなる。

 エステルの声のトーンがわずかな悲しみを帯びた。

「もちろん、あなたが自身の望みを彼に告げるのは自由だ。いつか必ず訪れるであろう破滅、それはなにも明日というわけではない。残りの人生を、静かに穏やかに暮らしてほしい……そう望んでみるのは間違いではない」

 ソフィアに寄り添おうとするその視線、声音はどこにもほころびがなかった。先ほど漏らした笑い声は、なにかの聞き違いか勘違いだったのではないかとさえ錯覚しそうになる。

「しかし――ユルは先延ばしを許さないだろう。彼にとっては、自分でいることを、自分で決断できていることこそが尊厳だからだ」

 そして、ソフィアのことを抱きしめた。

 不意打ちだったので、身体が硬直した。それに気づいただろうが、エステルはそのことには触れなかった。ただ優しく、慰めるように言っただけだ。

「あなたにもわかるだろう。誰かに自分の選ぶ道の権利を握られている感覚が」

「……」

「笑い、喜び、怒り、悲しみ……そして同情する、その人間性は彼のもの。彼が終わりの瞬間を今だと望むのなら、その願いを聞き届けてやるのが私のつとめだ」

 エステルがソフィアの目を覗き込む。

「だが、乙女。私はなにもあなたに絶望を説いているわけではない」

 強い視線だった。

「……もしも、本当にあなたが望むのなら――己のエゴで彼の生を支配することになるのもまたひとつの道だと思うのなら、私が手助けしてもいい」

「……それは」

「あなたが誰か(・・)から聞いた、ユルを救う方法……それが本当にあるのだとしたら?」

 くらり、と眩暈を感じた。

「今ではないが、その願いがあと少しで叶うのならば……彼を説得することもできるのではないだろうか? もちろん、ユルは嫌がるかもしれない。しかし、彼を殺せるのはあなただけだ。あなたさえ強い意志を持って拒絶できるのならば、彼は生きているしかない――」

 言葉はあまりにも甘かった。もう少し気力があったら、どんな方法なのか、いつ実現しそうなのか尋ねていたに違いない。

 先ほど彼女の冷酷さにぞっとしたばかりなのに。

 ソフィアは、自分が心変わりしかけたという事実に脚が震えるのを感じた。

「――もちろん、今はまだそれも実現しそうにない。神々の領域に手をかける仕事だ。だが、私はいつでもあなたの味方なのだよ」

 エステルの手がソフィアの腰の短剣にかかった。

 気づいたときには、もう遅かった。灰の短剣を奪われて、息を呑む。

「ゆっくり考えていい。あなたの決断を尊重しよう――希望を見つめているときも、あるいは、彼の苦しみに寄り添うのに疲れ果てたときも」

「た……短剣を、返してください」

「いいや」

 手を伸ばしたソフィアから、エステルが距離を取る。

「これは預からせてもらう。……あなたはすでに一度、逃走をくわだてている。私が持っている必要があるだろう――二度と、気の迷いを起こす気がおきないように」

 彼女の前では、自分が無力でちっぽけななにかになってしまった気がする。乙女として暮らしていたときの閉塞感にも似た、あまりの息苦しさ――。

 ……しかし。

 今の彼女は、あのときの彼女ではなかった。


 ――エステルとの会話から半日。

 ソフィアは手洗いから帰ってきて、ふたたび部屋に閉じ込められていた。

(ここにいるのは危険だわ……)

 少佐のことを思い出すと、心の中に冷たい刃を突き付けられたような気分になった。

 彼女の論理は甘く残酷で、希望と絶望に満ちていた。その境界線を揺れ動く自分が信用ならず、恐怖感すら覚える。

 脱出しなければいけなかった。突き動かされるような切迫感とともに、ずっとそう思考を巡らせていた。

 以前のソフィアであれば、無力感に打ちひしがれていることしかできなかっただろう――ユルが窓を開けて、選択肢がすぐそこにあることに気づかせてくれなかったら。

「ええと……」

 部屋を見まわす。

 優雅な内装の客間だ。ベッドがあって、テーブルセットがあって、もうすぐメイドがお茶を運んでくる時間……。

 そっと窓に近寄り、身体を隠すようにして外をうかがう。

 古典的な手段だが、ここを開けてシーツを垂らしておけば、外に逃げたと思ってもらえないだろうかと思ったからだ。ここは三階であって、彼女の身体能力を考慮すると、逃げ出すどころか途中で落下する危険性が大きかったが、そこはそれ。

 相手にそう思ってもらえればじゅうぶんだ。

(そんなに甘くないか……)

 ところが、窓の下には警備兵が配置されていた。

 ナヤのせいだ。彼が窓を割って突然あらわれたせいで、こんな厳重な見張りがついてしまった。

 シーツを垂らすどころか、窓を開けただけで感づかれるに違いない。

(じゃあ、やっぱりお手洗いの隙に……? 個室の中にまでは彼らも入ってこないし)

 なんとかして彼らの前から姿を消し、短剣のありかを探して、ユルを助け出す。

(……短剣は無理としても、ユルを助け出すだけでもなんとかしないと)

 そう設定を目標する。だったらいったいどうやって手洗いから抜け出すかを考えなければ――。

 じっと物思いにふけりながら窓辺を離れようとしたときだった。

「……?」

 どこかからか大声が聞こえた気がして、立ち止まる。

 耳をすませた。気のせいではなかったらしく、扉の外でも兵がざわついた気配がある。慌てて再び窓に近寄り下を見てみると、警備兵がどこかへ走っていくところだった。

 なにが起こったのかはわからない。でも、なにかが起こっている。

 ソフィアは窓を開けた。それから、慌ててベッドの下に潜り込んで身体を隠す。

 しばしして――。

 思ったとおり、部屋の扉が開けられた。中を見た警備兵が、うなり声を上げる。

「乙女が消えました!」

「まずい……合流されたか」

「とにかく、まだ遠くへはいっていないだろう。探せ!」

 心臓がうるさく跳ねている。この混乱のおかげで、彼らはベッドの下を探すという発想がなかったようだった。

(合流)

 ソフィアはベッドの下を抜け出した。

(ユルだ……!)

 騒ぎを起こしたのはユルだと確信していた。

 彼も、ソフィアを探しているのだろうか?

 恐る恐る、開けっ放しの扉から廊下をうかがう。誰もいなくなっていた。千載一遇の機会に、ソフィアはともかく小走りに部屋を抜け出した。そして、正面の部屋の扉を開けて中に滑り込む。

 誰かに見られたのではないかとしばらく息をひそめていたが、そのようなことはないらしい。思えば、この廊下にはずっと警備兵がいたのだから、彼ら自身が『ここにソフィアがいるわけがない』ことを知っている。

 ほっと安堵したのは一瞬だ。気を引き締めて、深呼吸する。

(チャンスだ。ユルを探そう……!)

 ……しかし、慌ててこの部屋に駆け込んでしまったのは判断を間違ったかもしれなかった。

 この小部屋は、確かに今は安全だ。しかし、外の様子があまりわからないので、扉を開けた瞬間を誰かに見られてしまう危険性があった。

 だったらバルコニーだ。

 ソフィアは低い姿勢で窓に近寄り、細く開けた。

 そのまま這うようにしてバルコニーへ出て、周囲の様子をちらちらとうかがう。屋敷は蜂の巣をつついたような騒ぎになっているようで、あちこちから大声や駆けまわる足音が聞こえてきた。

 誰も、こちらには注目していない。夜なのも幸いした。灯りの下から見れば、ソフィアの姿は闇に紛れているのかもしれなかった。

「……」

 ここから、下に降りられるだろうか?

 ユルと街に出た夜のことを思い出した。あのときはユルがいたから、窓枠にしがみつくなどという真似にもあまり躊躇しなかった。

 でも、今はひとり。

(……やるしかない……)

 迷いと恐怖を感じた。にもかかわらず、ソフィアの覚悟は揺らがらない。

 思い切ってバルコニーを乗り越えた。誰かに見られていたらとは考えなかった――今は、行動するしか道がない。

 とはいえ、さすがに気持ちが先走りすぎていた。

 バルコニーは下に降りるもののために作られていない。手をかけてぶら下がったところで、ここからどうやって下の階のバルコニーに着地すればいいのかわからないのに気づく。

(……は、反動をつけて、飛び込めばなんとかなるかしら……?)

 問題は、ここからもう一度上がることも難しそうなことだ。

 ソフィアはごくりと息を呑んだ。

(そうしよう……もし失敗しても、怪我をするだけ……怪我をするだけよね)

 自分がユルのように不死だったらと一瞬考えてしまってから、頭を振って打ち消した。

 足をばたばたさせる。ひどく不格好に勢いをつけて――。

 そして、そのまま真下に落下した。当然のことながら、手がすべったのだった。

「……!」

 頭の中に、ユルのことが思い浮かんだ。こんなにばかなことをしないで、やっぱり普通に扉から出ていけばよかった。そうすれば、少なくともこんな間抜けなことにはならなかっただろうし、彼と再会できたかもしれないのに……。

 地面に叩きつけられる。

……いや、地面に叩きつけられたにしては、あまりにも落下の時間が短かった。それに、この地面はなんだか……暖かい。

「うおお! なにしてるんだあんた!」

「……」

 下の階のバルコニー。そこから身を乗り出して、ユルがソフィアを受け止めている。

「え……ユル?」

「こっちの台詞だよ!」

 倒れ込むようにバルコニーにしりもちをついたユルがうめいた。

「なんでここに……」

「だって、窓から外を見たら足がぶらぶらしてたから」

 彼はあきれたように、抱きかかえているソフィアに視線を落とす。

 ――それはそうだろう。そうに違いなかった。


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