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序章

「簡単だろ? 助けた代わりに、俺を殺してくれればいい」

 ――傾いた汽車の車両。どこか遠くでギシギシと鋼のきしむ音がする。焦げ臭い匂いがつんと鼻を突いた。

「もちろんあんたの無事を確保したあとでだ」

 ソフィアは今、その手に灰の短剣を持ち、ユルと名乗る青年の心臓へと向けていた。

 ……というか、向けられていた。

 がっしりと手を握られて、無理やりに。青年の大きい、暖かい手が逆に現実味を失わせる。

「……とはいえだ」

「え……」

「今はこんなことを話してる場合じゃない」

 なにも言えないでいるうちに、ユルは灰の短剣を元通り、彼女の腰に吊り下げられた鞘へと戻した。

 その金色の目はもう、ソフィアを見ていなかった。背後を振り返り、ふうとため息を吐く。

「よし、とりあえず死んでおくか! 今日二回目だな」

「だ、だから……あっ!」

 身体がふわりとすくわれる。

 ユルが、あっという間に彼女を抱えたのだ。まるで、花嫁かなにかのように――。

「行くぞ~ッ!」

「なにを――ま、待って、まさか!」

 ソフィアは悲鳴を上げた。

 妙に青い空が見えた。ユルが、車両から飛び出したからだ。

 ……はるか岩肌の下の、急流へ。

(……ああ!)

 風が、腹の底を撫でていくようだ。ソフィアはぎゅっと目をつぶった。

 頭上から爆発の音が聞こえてくる。

 いったい、どうしてこんなことになったのだろう。さっきまでは、汽車の座席で眠っていたのに……。


 ――二十分ほど前。 

 がたん、ごとん。

「……」

 いつの間にか眠ってしまって、夢を見ていたようだった。曖昧にしか思い出せないくせに、いやな冷や汗だけを遺していく夢――。

 ソフィアは頭痛をこらえ、座席の背にもたれから身体を起こした。ぐらぐらする。眩暈がひどい。頭がうまく働かなかった。

 しばらく時間をかけて、ようやくここが汽車の中であることを思い出した。

 見れば、窓の外はもう眠りの園だ。この、広大で美しく、そして呪われた大地は、大陸の中央部のほとんどを占めている。路線はその縁をかすめるように敷設されていた。

「お目覚めですか、乙女」

 隣の侍女が優しく声をかけてくる。そして、そっとコップを差し出した。

「少しお疲れのようですね、お茶をどうぞ」

「……ありがとう」

 気疲れが重くまぶたに残る。ソフィアはぎゅっと眉根を寄せた。

「でも、いらないわ。それより少し……風に当たりたい」

「しかし……」

 侍女の制止のそぶりが視界の隅に見えたが、席を立つ。ちらりと汽車を見通した。

 前後の席と、それから通路をはさんだ向かいの席。こちらをじっと見ている護衛の軍人たちが目に入った。

 ほとんど全員が西方人であり、ひとりだけ、アゼール人が混ざっている。眠りに落ちる前、彼らはこそこそと噂話をしていた。ソフィア――つまり、若く美しい境域の乙女に興味津々なのを隠しきれていない様子だった。

「デッキに出るなら、俺がついていくよ」

 その中のひとりが、歩き出したソフィアの手を取る。横から風のようにつかまえて、にこりと笑った。

「……なにかがあるといけないからさ」

 向かいの席に座っている軍人――アゼール人の、妙に端正な顔立ちをした、背の高い青年だった。

 金色の瞳がいたずらっぽくこちらを見上げている。彼の手を咄嗟に払うことができなかったのは、どきりとしてしまったからだ。

 一部のアゼール人特有の白い髪。日に焼けた肌。黙っていれば精悍な印象だが、しかし、先ほどから軽薄な言動が目に付く男だ。

 彼は周囲からはただ『新入り』と呼ばれていた。

「馬鹿! 乙女に馴れ馴れしいぞ! 貴様に任せられるか!」

 軍人たちのリーダーである大尉が咳払いをしながら立ち上がる。

「私が行きます。ご安心を、乙女」

「えー、ずるいですよ、大尉。境域の乙女さまがかわいいからってさあ」

「貴様……そんな不純な動機じゃない!」

 どっと笑い声が上がる。

「残念。……また後で会おうぜ」

『新入り』はあっさりと手を離し、そう囁いた。

 ソフィアは、ただ曖昧な笑みを浮かべた。この茶番に付き合う気力がなく、汽車の揺れでふらつかないようにするのが精一杯だった。


 思った通り、最後尾の車両のデッキに出るといくらか気分はましになった。

 吹き付けてくる冷たく乾いた風が心地いい。荒涼とした大地が流れていく。眠りの園はただまばらに草木が生えるだけの荒野だ。谷間のあいだを黄色く濁った河がくねっている。

 人を拒み、開拓を受け入れない呪われた土地――。

 しかし、今はその寂しい光景に、妙な安堵を覚える。きっと周囲の監視をわずかでも逃れられたからだろう。

(……みんな心配してくれているだけなのに、わたしってひどいかしら)

 ソフィアはため息をついた。

(でも、境域の乙女を無事に送り届けなければいけないんだもの。心配ぐらいするわね)

 一方で、その心配がソフィアというただの少女にではなく、聖なる境域の乙女という役割に向けられたものだともわかっている。

 傲慢な悩みだと思われそうで、誰にも言えないまま抱え込んでいた。

「……ところで、大尉」

 風が長い黒髪をはためかせる。

 顔だけで振り返ると、背後で威圧感を放っている大尉が目に入った。

「なんでしょうか、乙女」

「ひとりにしてもらえませんか」

「いいえ、できません」

 そうだろうと思った。聞くのではなかった、という後悔を抱きながら、大尉から目を逸らす。

(考え事をしたいだけなのに)

 ため息をつく。

(……儀式って、なにをするんだろう……)

 近頃ソフィアは、そればかり考えていた。

 この汽車の終着点には首都がある。そこで行われる儀式こそが、境域の乙女の存在意義だという。

(二百年前、西方人とアゼール人とのあいだに交わされた盟約……そこから受け継がれている秘儀……)

 わかっているのは、儀式が終われば、この役目も終わるのだということだけだ。その後は、山の奥の隠れ里で、静かに――外界の音も、名を呼ぶ声も届かない場所で――暮らすことになる。歴代の境域の乙女たちが、そうして消えていったように。

(そのためだけに生きてきたけど、だとしたら。だとしたら……)

 ソフィアはふと、振り返らずに訊いた。

「……大尉はどう思います?」

「は?」

「こんなことを言っていいかわかりませんが……」

 でも、誰かに問いかけたくてたまらなかった。

「わたしは乙女の役目をまっとうするために生きてきました。そうすることがみんなのためになるのだと教えられて……でも、近頃考えるんです」

 ほとんどつぶやくような小声は、風に紛れて消え去っていく。

「その『みんな』の中に『わたし』は入っているのかな、って」

 大尉には聞こえなかっただろう。仮に聞こえていたって、そんなことはわからないだろうとも思う。儀式を前にして不安になっている彼女のために、気休めを言うのが精一杯に違いない。

 いずれにせよ、返事は永遠に返って来なかった。

 ――衝撃。

 耳をつんざく爆発音。

 汽車が揺れる。身体が宙に飛ぶ。

 なにかを考える暇はなかった。

 肩に衝撃が走る――反射的に、デッキの手すりをつかんだからだ。でなければ、汽車の外へ放りだされていた。

 ソフィアの横を、大尉がすっ飛んでいった。彼女同様、なにが起こっているのかまったくわからないという顔だった。汽車は折しも、深い峡谷にかかる橋梁の上を通りがかっていた。

 気づいた時には、ただ呆然と、落下していく大尉を見送っていた。悲鳴も上げず、岩肌で一度弾み、そして、そのままはるか下の黄色の濁流に飲み込まれていく。

「……」

 傾いた汽車、そのデッキの手すり。ソフィアはそこに片手でぶらさがっていた。前方のほうで起こった爆発のせいで、汽車は脱線していた。橋梁からはみだす形で引っかかった最後尾の車両は、ぎしぎしと音を立てて揺れている。

 ようやく、わかった。

(わたし……死にかけたんだわ)

 もし手を伸ばさなければ、もし手すりにしがみつかなければ――死んでいた。

 揺れる身体の下には風が吹いている。二十メートルほど下には、逆巻く急流。もし岩肌に叩きつけられなかったとしても、落ちたら無事ではいられない。

 今更ながらに腹の底がひゅっと冷たくなる。

「だ……誰か、誰かいませんか……!」

 ソフィアは大声を出した。

「助けてください!」

 自力で登ることはできそうにない。今しがみついていられるのすら奇跡だ。

 ソフィアの声に答えたものか、車両の中から男が姿をあらわした。

 ――汽車の車掌である。爆発で負傷したのか、顔には血が飛び散っていた。

「ああ……! よかった! 手を貸してください」

 心底安堵しながら、必死に叫ぶ。

 そして、車掌の手に血まみれのナイフが握られているのに気づいた。その目が、不自然なほどの冷静さでソフィアを見つめている。

「……あの、車掌さん……」

 声が小さくなった。

 車掌がため息をついたのが、はっきり聞こえた。彼はなんの感情も見せずに、ナイフを構えてソフィアのほうへ歩いてくる。傾いた車両の壁をつたって、奇妙な着実さで歩みを進め、こちらへ。

 ぎゅっと心臓をつかまれたような気分になった。

 もはや、車掌の視線の意味は明らかだった。彼は爆発で負傷したのではない――そのナイフで、誰かを傷つけ、ここまでやってきたのだ。

(ああ……!)

 周囲に視線を走らせる。しかし、どこにも逃げ場はない。手を離すことも、手すりをよじ登ることもできない。

 車掌がナイフを振り被る。

 なのに、自分でなにかを選ぶこともできず、ソフィアはただそれを眺めていた。

 ――その時。

 突然、車掌の身体が大きく浮き上がった。

 背後から忍び寄った男が、車掌の身体を持ち上げたのだとわかったのは、一瞬の間があってからだ。

「……!」

 護衛のアゼール人。軽薄な『新入り』だった。血だらけで、自身も大怪我を負っているのがわかる。

 ソフィアが悲鳴を上げる暇もなく、車掌は情けない声を上げて外に放り出された。慌てて目を逸らしたが、その声が下のほうへ遠ざかって、大尉の後を追ったのがわかった。

『新入り』の手がソフィアの手をつかんで引き上げる。自分の力はほとんど必要なかった。デッキに上がって、車両の中へと這いずる。

 ――助かった。

 全身から力が抜けて、へたりこんだ。視線を上げると、『新入り』がこちらを見下ろしていた。

「あ……ありがとう」

『新入り』が片膝をついて、彼女を覗き込む。鼻血に塗れ、口元からは大量に吐血した痕跡があった。

「あんたは――」

 そして、なにか言おうとして、咳き込んだ。血に溺れたらしかった。ごぼごぼという不吉な音を立てる喉をつかみ、うずくまる。

 なにも知らないソフィアにだって、彼が重傷なのが伝わってきて呆然とした。

 ……しかし。

「悪い、全然大したことないんだ」

『新入り』はひとしきり咳き込んだ後、ゆっくりと身を起こすと、そう言った。手の甲で口元をぬぐい、二度ばかり大きく深呼吸する。

「もう大丈夫」

「え……いえ、本当に……? だって、そんなに血だらけで――今だって」

「いや、そんなことより、乙女――ソフィア」

 名前を呼ばれてびくりとする。

「俺があんたを助けたってことは、あんたは俺に借りができたってことでいいよな?」

「え? で、でも先に手当を……」

「怪我?」

 自分を見下ろし、そして肩をすくめる。

「もう治った」

「……」

 ソフィアには答えることができなかった。

 確かに、そういうふうに見えたからだ。

 彼はぼろぼろだった。手の甲でぬぐっただけなので、顔にはありありと血の跡が残っている。服の一部はこげていた。

 にもかかわらず、ぴんぴんしていた。

「もしもーし?」

「えっ……ああ、ごめんなさい」

 目の前で手を振られて、我に返る。いつの間にか、ぽかんとしていたらしい。

(これじゃまるで、おかしいのは彼じゃなくてわたしみたい……)

 絶対に違う。にもかかわらず、確信が持てない。意識の芯が不安定になる。

「とにかく……話を戻すと、だ」

「は……はい」

「借りは返すもんだ。違うか?」

「その……」

「そうだよな。乙女だってそのぐらい知ってるだろ」

 知っていた。

 だが、彼がなにを言っているのかはわからない。他に訊きたいことはたくさんあったが、流れるように畳みかけられて、まともに返事もできなかった。

「俺としては、あんたに借りを返してもらいたい」

「……その……つまり、助けた代わりに、わたしになにかを望んでいる……ということですか?」

「そうそう、そういうこと」

「そういうことなら――」

 ぎくりとして、言葉が詰まった。

 男の喉元――軍服が真一文字に切り裂かれているのが目に入ったからだ。大量出血したらしき形跡もある。

 先ほど、車掌が持っていたナイフのことを思い出した。彼のナイフは、すでに血に塗れてなかっただろうか?

(……)

 考えていると、頭がおかしくなりそうだ。

「……地位や出世をお望みでしたら、なんとかできると思います」

 疑問をぐっと押し込めながら、ソフィアはそう言った。

「地位や出世か。俺には必要ない」

「で……でしたら、お金ですか?」

「それもいらない」

 本当に興味がなさそうな顔をされて、困惑した。

「では、いったいどのようにお礼を……わたしにできることなんて、もう、他には――あっ……で、でもそれはさすがに」

「ん?」

「……助けてくれたのは感謝しています……でも、もし、かっ……身体を要求しているのなら、……あなたを軽蔑するわ」

 決死で言ってから、『新入り』が真顔なのに気づいて狼狽した。

「別にしてないけど」

「と……とにかく! その……『新入り』さんが来てくれなければ、今頃死んでいました。だから――」

「『新入り』じゃない。ユレスケステ。ユルでいいぞ」

「ユルさん。お礼はします。……必ず」

 まっすぐに彼を――ユルを見る。

 金色の瞳と正面から向き合う。なんだか底知れなくて、静かで、真剣だった。

「別に無理難題ってわけじゃない」

 ふ、とユルが目を逸らす。

「!?」

 腰を捕えられた。無作法かつ乱暴だった。そのまま、彼女の腰に下がっていた灰の短剣をするりと引き抜く。

 細身の刀身がきらりと輝いた。

境域の乙女に対する粗野な無礼さに、普段であれば怒りを覚えていたかもしれない。あるいは、武器を奪われたことに、恐怖を抱いたかもしれない。

 しかし、やはりこの男はソフィアにそんな暇を与えてくれなかった。

「手を貸せ」

「え……」

「こう」

 手に灰の短剣を握らされる。

 そして、ユルはその切っ先を己の心臓に向けた。

「簡単だろ? 助けた代わりに、俺を殺してくれればいい」


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