ラゼルの初仕
朝、まだ薄暗い空の向こうに淡い紫の光に覚める。ベッドの縁に腰掛けてぐっと伸びをする。なんてことはない、のんびりとした穏やかな朝。
時計を見上げれば、寝る前にミレイアさんに言われた「朝食は7時よ」という言葉を思い出す。冬、というこの季節は空に明るみが増す時間が6時を回ってからだ。準備をしてから向かえば朝食の7時にはピッタリの起床時間といえる。
1人与えられた部屋のクローゼットの中には、昨日買ってもらったばかりの服がぎゅっと詰まっていて、見ているだけで嬉しくなる。薄いスカイブルーのワンピースを手に取り袖を通せばまだ真新しい匂いが鼻腔をくすぐった。
柔らかい生地は薄く見えるのに、しっかりと暖かく、このクウェンデでは秋冬には人気の生地なのだとミレイアさんが言っていた。
新しい生活が本当に始まるのだと思うと、くふくふと持ち上がる気持ちに足も浮き足立つ。
思わず鼻歌でも歌いそうな気持ちだ。
案外、不安よりも好奇心が勝つ物だと思うが、これはきっとミレイアさん夫婦のおかげなのだろう。
軽い足取りで向かったリビングには既にミレイアさんとテオさんがいて、既に席に着いていたテオさんは開けた新聞に目を通していた。だが、足音が聞こえたのか、こちらをみた途端ゆったりと目が細められる。
薄く刻まれた皺がさらに濃く深く。ゆったりとした動作で口角が持ち上がる。
「おはよう、ラゼル」
少し低い声が、朝の挨拶と共に私の名前を呼ぶ。
「おはようございます!
テオさん。・・・ミレイアさんもおはようございます」
テオさんに挨拶を返しつつ、台所で今尚、朝食の準備をしてくれているミレイアさんに目を向けるとミレイアさんもまた「おはよう」と返してくれるのであった。
手伝うと言う私の言葉を首を振って否定したミレイアさんは、テキパキと準備を進めていく。
目の前に用意された朝食。
マーガリンのたっぷり塗られた食パンにバジルの乗った目玉焼き、カリッと焼かれたベーコン。そして、昨日と同じコーンスープ。
思わずミレイアさんを振り返れば
「昨日、あんなにも美味しそうな顔で食べてもらっちゃったからまた用意してみたのー」
と、微笑まれてしまった。
嬉しい。思わず頬がさらに緩んでしまう。
「いただきます!」
合わさった声と手を合わせる軽快な音が朝の食卓に響き渡った。
朝食を食べ終われば、ミレイアさんに手を引かれて昨日と同じようにお店に降りる。昨日気がついたが1階がお店。2階が住居スペースとなっているようだった。
お店に降りると、くるりと振り返ったミレイアさんが朝の仕事の説明を始めてくれた。
「朝の準備は、お掃除からよ。
その後に、カウンター内で用意できる物の仕込みをします!
朝は、コーヒーを頼むお客様が多いから、基本的にはコーヒーの豆を焙煎して挽く大切なことよ。後は、この時期だと暖かいお茶の準備もね。後は、軽いデザート類なんかもホールでセッティングするんだけど、こっちの用意はテオがやってくれるわ!
とりあえず、まずはお掃除からよ〜。ピッカピカにしましょうね!がんばるわよー。えいっえいっ、おー!」
「おー?」
グッと拳を突き上げるミレイアさん。動きを真似て一緒に拳を上げてみれば、ニコニコと笑う顔と目があった。
手渡された箒を片手にミレイアさんと隅から隅まで掃けば、次はテーブルと椅子。そして窓を噴き上げる。それが終われば奥から荷物籠を持ち出して、テーブル毎に下に入れていく。歩き回っている時についでとばかりに観葉植物の葉も軽く拭き取っておく。
次にカウンター内に入れば今日のおすすめコーヒーから順に人気のコーヒーの豆を焙煎しては挽いていく。それを1種類1種類キチンと分けて瓶に詰めれば挽いた時間と豆の種類を書いたラベルを貼り付ける。それを棚に順番に並べて置けば、次はエアロプレスとペーパードロップの2種類の機械を取り出してカウンターの内側のテーブルへ。
カップとデザート用のお皿を拭いて綺麗に並べれば視界に入った時計はすでに9:40を回った頃だった。
それだけの時間が既にたっていたことに驚いてしまう。
ふと、横を見ればミレイアさんはお茶の準備を始めていて、慌ててポットの用意をする。
こうして横で見ながら作業をしていればわかるけれど、ミレイアさんは流石手慣れていて何をしていても手早い。
これだけの作業を1人でやってきたのだからミレイアさんにとっては普通なのかもしれないけれど、私にとってはびっくりの連続だ。
「はい、準備お疲れ様。これ飲んでちょうだい」
差し出されたコップにはオレンジ色の飲み物が並々と入っていた。そっと口をつければカランっと氷の擦れる甲高い音と共に口の中にジュースが流れ込んでくる。舌の上に乗った飲み物はオレンジ色の見た目にぴったりのオレンジの味がした。ひんやりと冷たいオレンジのジュースが喉を通るとそこで初めて自分の喉が渇いていたことに気がついた。
「おいしい・・・」
中身をコクコクと仰げば一気に中身は半分にまで減っていた。
はたと。自分の行動に気づいて横を見れば微笑ましそうなミレイアさんと目が合う。
じわじわと頬に熱が集まるのをありあり感じてしまう。人の前で飲み物を一気に仰るという行為。淑女としてあるまじき事だ。
は、恥ずかしすぎて溶けてしまいそう・・・。
思わず押さえ込んだほっぺは熱く。ひんやりと冷えた手が心地よいと感じるほどであった。
「ご、ごちそうさまです・・・」
「お粗末様」
恥ずかしさも連綿に。視線を感じつつ飲み干したコップをミレイアさんに返せばいつものニコニコとした笑顔でコップを受け取られてしまう。何にも触れることはないことが尚更恥ずかしさを加速させてしまう。
ああ。穴があったら入りたいって言うのはこういうことを言うんだ・・・。
冷たい両手が頬の熱をひかせる頃には時間はOpen時間の10分前だった。
「そろそろ時間ね。はい、コレどうぞ」
時計を振り返ったミレイアさんは白い綺麗なエプロンを1つ私に渡した。そのエプロンの下の方にお店の名前が入っているので、お店用のエプロンなんだろう。
エプロンのリボンを結んでいると、ミレイアさんの声に反応したテオさんが厨房からやってきた。
「もうそんな時間か。ミレイア、そしてラゼル。今日も1日よろしく頼むよ」
「うん。頑張るね」
テオさんの挨拶にOpenの準備は整ったとばかりにミレイアさんは入り口の札をcloseより Openへとひっくり返す。
───チリン。と鳴るベルの音。
「いらっしゃいませー」
お店特有のお決まりの言葉を返せば、
さぁ、お仕事の始まりだ!