0187話 取り戻した笑顔
報告会議を終わらせたあと、アンゼリカは腹心の一人を部屋に呼ぶ。文官をやっている男は、手渡された報告書をパラパラとめくる。そこに書き込まれた注意書きや、補足まで目を通したあと、確認するような視線をアンゼリカへ向けた。
「ちょっと信じられにゃいでしょ?」
「最悪、不平等条約を突きつけられることも覚悟していたでごわすが、対等どころかこちらに有利な条件まで提示されているでごわすな。しかも多額の賠償金まで……」
「明日くらいにはブリックス派の耳にも入るはずにゃ。条約締結に必要なものを、直ちに提出するにゃ。今日中に御璽を押印してしまえば、なかったことには出来なくなるにゃ」
「承知したでごわす。それにしてもベルガモット皇女殿下が、ここまで外交に長けていたとは、驚いたでごわす。これなら次代も安泰でごわすな」
「それが成果のほとんどは、ベルちゃんの守護者が出したようなものにゃんだよ……」
タウポートンで絶大な影響力があるアンキモ家へ貸しを作り、そのおこぼれに預かろうと多くの名家がタクトの主人であるベルガモットへ殺到。ゴナンクでは闇ルートが壊滅したことにより、正規品の需要が一気に増加。大口取引の希望が増えており、新たな経済連携協定を政府に依頼した。
その結果マッセリカウモ中央議会が動き、為替レート是正のために公金投入を決定。新紙幣への切り替えがスムーズに進むよう、市場介入や財政支援をしてくれる。
なにせ商業国家が協力してくれるのだ。市場の混乱は最小限に抑えられるだろう。財政的に厳しいアインパエとしては、預金封鎖などの強硬手段に出なくてすむ。
「こんな成果を手土産に、なにを要求されたでごわすか?」
「それがねー、すごく欲がない子にゃの。にゃんか彼が大切にしてる子を手元に置くため、ベルちゃんが協力したらしいにゃ。それでほとんどチャラにゃんだって」
「国一つと天秤にかけられる存在でごわすか。その者を国賓として、帝国へ招待したらいかがでごわす?」
「政情が安定したら連れてくるとか言ってたから、盛大にもてなしてあげるにゃ」
今の話に尾ひれが付き、ニームがアインパエの救世主として、市井に伝わってしまうのだが、この時は誰もそれを予想していなかった。
そして文官は去っていき、部屋にはアンゼリカとサフランだけになる。タクトたちを露草の館へ案内している隠密のフランキンセンスは、まだ戻ってこない。
「馬鹿息子の方はどうにゃってるの?」
「夕方までには縛鎖の枷を解呪できると、報告を受けてるゲソ」
「アレを躊躇なく使えるなんて、やっぱりタッくんはカラミンサ様の血を引いてるにゃー」
「上皇后様といえば……血液の代わりに炎が流れている、そんなことを言われていた気がスルメ」
なぜサフランは人前で寡黙を貫いているのか。その理由は〝イカす剣士は無口が似合う〟というこだわりである。唯一の例外はアンゼリカを始めとした、ごく一部の者だけなのだ。
猫とは相性の悪い喋り方だが、二人の仲はとても良い。
「地方出身のサフランは詳しく知らにゃいと思うけど、カラミンサ様は身内にはすごく優しい反面、敵対する者には容赦ない人にゃの。家族団らんを邪魔した襲撃犯が炎のムチで折檻されたとか、寝所へ忍び込んできた不届き者の股間が黒焦げになったとか、絶対に逆らっちゃいけない人にゃ。その辺りをお祖父様が気に入っちゃったから、側室として迎え入れたんだけどね」
「青い髪の悪魔とか、ネズミは嫌だとうわ言のように繰り返していたとの報告、納得できるゲソ」
「やっぱりタッくんを敵に回すのは危険だにゃぁ。いったい何をやらかしたんだろう……」
「しかし皇室の恥部が知られずにすんだゲソ。とてもイカす判断だったかと」
上がってきた報告書に目を通した限り、コルツフットが誰かにそそのかされていたのは確実である。吹き込まれた内容によっては、国家の信頼がゆらぎかねない。
もし冒険者ギルドやダエモン教と敵対するような事態に陥っていたら……
アンゼリカは思わず身震いする。
「下手すると穀潰し一人の首で収まらにゃいからね。無茶な要求を突きつけられたら、アイツラに口実を与えることになってしまったにゃ」
「これ以上この国を疲弊させる訳にはいかないゲソ」
頭の痛い問題が積み増しされなくて本当に良かった。二人はそんな事を考えながら、報告書を読み進めていく。すると特秘事項と銘打ったページに記載されていた、マツリカによる襲撃事件のあらまし。
それを見たサフランが、自分の胸元に手を差し込む。そこからニュルっと出てきたのは、木製の小さなまな板だ。
「弟子の不始末は師匠の責任、けじめを付けさせていただくゲソ」
「いつも言ってるでしょ。事あるたびに指を詰めようとするのは、やめるにゃ!」
「では介錯をお願いするゲソ」
サフランは再び胸元に手を差し込み、鞘に収められた湾曲刀をアンゼリカへ差し出す。
「ハラキリも無しにゃぁー!!」
「しかしそれでは部下たちに示しがつかないゲソ。これを首にぶら下げて、今から都内を……」
「市中引き回しの上打ち首獄門にゃんて、とっくの昔に廃止されてるにゃ。サフランは時代劇に影響されすぎにゃ。そんにゃことをしたら、劇場の出入り禁止を言い渡すよ」
「私に死ねと言うおつもりゲソ!?」
脱線しつつも報告書を読み進めていると、部屋にノックの音が響く。入ってきたのはタクトたちを露草の館へ送り届けてきたフランキンセンスだ。
「ただいま戻ったでござる」
「ご苦労さまにゃ。それでタッくんたちの様子は、どうだったかにゃ?」
「やたら拙者に〝ニンニン〟という言葉を勧めてくるので、困ったでござる。キレ者なのか、お調子者なのか、性根の読みにくい男でござる。あのような者を皇居内に置くのは、危険ではござらんか?」
「ベルちゃんがあれだけ懐いてるし、マツリカも認めた子だからね。報告はそっちにも回ってるでしょ?」
「船員として派遣した同僚が、やたら愚痴っていたでござるよ」
「しかもメドーセージ先生のお墨付きだよ、心配することは無いんじゃにゃいかな。性格はともかく、戦力的には……だよね?」
「確かに、その点だけで言えば間違いないでござるな。有翼種の従人は外堀の向こうで監視していた間者に気づいていたし、猫種の従人が石を投げて追い払ったでござるよ。ニンともかんとも、恐ろしい能力でござった」
「にゅふふふふふ。口調、おかしくなってるにゃ」
「……はっ!? しまったでござる!!」
大切な娘を海外へ派遣し、ずっと元気のなかったアンゼリカが、久しぶりの笑顔を浮かべる。それを見たサフランとフランキンセンスは、そっと胸をなでおろすのであった。
◇◆◇
白羽院を出たベルガモットは、露草の館へ行くタクトたちと別れ、マツリカとともに青の御所へと向かう。屋敷の奥にある自室を目指していたとき、ベルガモットの耳に長女の涙声が届く。
「ヒック……もう豆ばっかりは嫌なの。私もクッキーとかケーキ……食べたいの。お母様やサフランばっかり甘いものを食べて、ずるいの」
きっとサフランがカステラを作っている場面に、遭遇してしまったんだろう。はちみつの甘い匂いにつられ、厨房を覗いてしまったに違いない。いつもなら姉にかける言葉が見つからず、その場から立ち去ってしまっていた。
しかし今日の自分には、タクトから預かった秘密兵器がある。試食したお菓子の味を思い浮かべながら、腰にあるマジックバッグへ手を伸ばす。
「ただいまなのじゃ、ナスタチウム姉上殿」
ベルガモットが開いていた扉の外から声をかけると、机に突っ伏していた女性の肩がピクリと動く。涙で濡れていた顔を服の袖でゴシゴシとこすり、笑顔を浮かべながら立ち上がる。
「おかえりなの、ベルちゃん! お腹壊したりしてない? 外国って怖くなかった? お姉ちゃんずっと心配してたの」
真っ白の髪を揺らしながら、ナスタチウムがパタパタと駆け寄ってきた。小麦アレルギーを発症していることもあり、ナスタチウムの発育はあまり良くない。背丈もベルガモットと二センチ違いの、身長百五十センチだ。
少し背伸びしたナスタチウムが、ベルガモットの体をギュッと抱き寄せる。そして愛おしそうに頭や背中を撫でていく。
「くすぐったいのじゃ、姉上殿」
「久しぶりに会えたんだもん、もうちょっとだけ我慢するの」
目一杯お姉さん感を出そうと頑張るナスタチウムだが、同年代の少女がじゃれ合っているようにしか見えない。そんな二人の姿にマツリカがほっこりしていると、水色の髪をした女性が部屋を覗き込む。
「【お帰りなさい】【元気そうで良かった】」
「ご心配をおかけして申し訳ございません、ラムズイヤー様。こうして無事に戻ってくることができました」
失語症のラムズイヤーは、定型文の書かれたコミュニケーション用ノートを、常に持ち歩いている。それをめくりながら、今の気持ちをマツリカに伝えていく。二人がそうして会話をしていると、ナスタチウムから開放されたベルガモットが、ラムズイヤーの胸に飛び込んだ。
「ただいまなのじゃ、ラムズイヤー姉上殿」
「【お帰りなさい】【ベルちゃん】【疲れてない?】」
「船の中ではのんびりできたから、元気モリモリなのじゃ!」
「外国の話、いっぱい聞かせてほしいの。二人とも、こっちに来て座るの」
「姉上殿たちにお土産があるのじゃ。それを食べながら話すのじゃ」
ベルガモットの言葉を聞き、マツリカはお茶の準備に取りかかる。南方大陸から持ち込んだ茶葉を使い、教えられた手順通りにポットへ熱湯を注ぐ。出来上がった紅茶を温めておいたカップに入れ、三人の前へ並べた。
そしてベルガモットはマジックバッグから、ガラスでできた小鉢をいくつも取り出す。上新粉で作った団子には、きな粉と黒蜜がかけられており、甘い匂いが部屋に広がる。そして赤藻で作ったフルーツゼリーが、光を反射してキラキラ輝く。
「これ、私にも食べられるお菓子なの?」
「こっちはジョウシンコという材料で作った団子に、炒った豆の粉とクロミツをかけておるのじゃ。もう一つは、海で採れる海藻と果物で作ったゼリーなのじゃ。小麦を使っておらぬから、ナスタチウム姉上殿でも大丈夫なはずなのじゃ」
「【すごくきれい】」
「申し訳ないが、今回は少しだけにしてほしいのじゃ。もし体調が悪くならなかったら、好きなだけ食べられるようにするのじゃ」
「うぅっ……豆を使ったものは、遠慮したい気分なの」
「キナコはただのトッピングなのじゃ。味にはほとんど影響せぬゆえ、食べてみてほしいのじゃ」
グイグイ勧めてくるベルガモットの熱意に負け、ナスタチウムは恐る恐る団子を口に運ぶ。そして小さな口を開け、端っこを少しだけかじる。
「……っ!? なんか不思議な味がするの! 甘くてモチモチしてて、豆の粉が全然気にならないの」
「【美味しい】」
「そうじゃろ、そうじゃろ。タクトの作るお菓子は、サフランと同じくらい絶品なのじゃ」
初めて口にする和菓子の味に、ナスタチウムは驚きを隠せない。団子の不思議な食感と、黒蜜の濃厚な甘み。それは普段口にできる飴や、パサパサした砂糖菓子とは全く別物だ。もっと食べたいと体は要求するが、用意されているのは一粒だけ。
すがるような視線をベルガモットに向けても、追加のお菓子が出てくることはなかった。仕方なくフルーツゼリーに手を伸ばし、その美味しさに再び感動する。
プルンとした舌触りの透明な部分を噛み切ると、シロップ漬けにされた果物のジューシーな果汁が溢れ出す。おやつやデザートで出されるものとは、別次元の甘さだ。それを知ってしまったら、もう止まれない。無言でフルーツゼリーを食べきってしまう。
「これを作ってくれた人、ベルちゃんが連れてきてくれたの?」
「タクトは妾の守護者なのじゃ。もしナスタチウム姉上殿の体調が悪くならなければ、豆や肉以外の朝食も作ってくれる予定なのじゃぞ」
「ホントなの!?」
「(書き書き)【ベルちゃん、すごい人と契約したんだね】」
皇居からあまり出ないこともあり、二人の姉はガーディアンを任命していなかった。研究室にこもっている長男と、部屋から出てこない次男も同様だ。一番下の妹が、自分たちより早くガーディアンを決めたことに驚きつつ、どんな人物なんだろうと思いを馳せる。こんな美味しいお菓子を作れるのだから、サフランみたいな人だろうかと……
こうして三人は、会えなかった時間を埋めていく。
――…‥・‥…―――…‥・‥…――
薄暗い部屋で、一人の男が書類をめくる。光源はテーブルの上におかれた、小さなランプだけ。
「せっかくのお膳立てを全て台無しにするとは、親子揃って役立たずでおじゃる」
男の手元にあるのは、情報統制が解除された後に、次々上がってきた報告書。そこに記載されているのは、皇族による支配を崩したい男にとって、都合の悪いことばかりだ。
しかし焦りは禁物。今の支配体制に問題があると、帝国民たちに解らせなければならない。だから愚帝としてブリックス家を祭り上げ、権威を大きく失墜させることに成功した。しかしあと一歩というところでクーデターが起きてしまう。
「この程度で朕の計画を阻止しようなど、甘すぎるでおじゃるよ。次こそ皇室の権威を貶めてやるでおじゃる」
男はそう決意するとランプの明かりを消し、部屋から出ていった。
黒幕登場!
果たしてその正体とは?
次回は視点を戻し「0188話 まずは温泉」をお送りします。