0169話 マツリカの妹
タクトたちと別れたマツリカは、街のメインストリートを足早に進む。妹のクミンは元気だろうか。アインパエの政情が不安定になってから会いに行けなかったので、寂しい思いをしているかもしれない。ご飯はちゃんと食べてる? お姉ちゃんに出来ることはなんでも言って。
そんなことが次々頭に浮かぶたび、歩く速度が上がっていく。そして表通りから路地に入ると、一気に駆け出した。
向かう先は郊外にある、小さな保養所。妹のクミンは生まれつき体が弱く、ちょっとしたことで熱を出したり、咳が止まらなくなってしまう。そんな娘の体をなんとか治してやろうと両親は無理をし、やがて命を落としてしまった。姉のマツリカはクミンを保養所へ預け、稼ぎのいい仕事を求めてアインパエへ渡る。そして必死に努力した甲斐があり、官職である皇族の側付きに任命されたのだ。
形だけの手続きを急いで終わらせ、奥にある小さな扉の前に立つ。マツリカは一度深呼吸をしてから、ドアをそっとノックする。
『入っていいですよ』
ゆっくり扉を開けると、ベッドに横たわる華奢な少女と目が合う。するとその顔が、一気にほころんだ。
髪はマツリカより明るいサンディブラウン。少し硬い髪質のマツリカとは違い、ふんわり柔らかな髪が背中まで伸びている。以前よりやつれてしまったが、母親譲りの優しい顔をみた瞬間、マツリカの口から安堵のため息が漏れた。
「あっ、お姉ちゃん!」
「寝たままでもいいよ」
「ううん、今日はちょっと調子がいいの。それにお姉ちゃんの顔をみたら、元気が出てきちゃった」
マツリカの手を借りながら、クミンはベッドの上で上半身を起こす。父親と同じカーディナルレッドの瞳に見つめられ、マツリカはなにかを見透かされているような気持ちになってしまう。そんな自分を悟られないよう、クミンの細い肩をそっと抱きしめた。
「寂しくなかった? ずっと帰れなくてごめんね」
「みんな優しくしてくれるから、私は大丈夫。お姉ちゃんの方こそ、お仕事大変だったんでしょ?」
「もうじき仕事の方も落ち着くと思う。だから今度は、ちゃんとお休みをもらって来るから」
「あー、お仕事サボるなんて、いけないんだー」
「ち、ちがうから。ちゃんと断ってから来てるもん」
子供っぽい話し方になってしまった姉を見て、クミンがクスクスと笑い声を上げる。両親が死んでしまってから、治療費を稼ぐために姉は働きはじめた。大人たちと一緒に仕事をしていくうち、話し方も変わってしまう。そんな姉の姿を見るたび、クミンは心はチクチクと痛む。
だけど病気がちでひ弱な体じゃ、姉の手助けなんて出来ない。あの頃の自分は、毎日ごめんなさいしか言えなかった。そんな姿を見るのが辛かったのか、今の自分と歳が変わらない頃、姉からアインパエで仕事を探すと告げられる。
昔のことを思い浮かべながら、クミンは姉の様子をうかがう。アインパエに行ってからすごく楽しそうで、責任ある仕事を任されて充実してると言っていた。だけど今日の姉はなにかおかしい。焦っているような、怖がっているような……
それを聞いたところで、正直には答えてくれないだろうと、クミンは別の話題を口にする。
「でも手紙よりずいぶん早く着いたよね。ちょっとびっくりしたけど、すごく嬉しい」
「あっ、うん。一緒に仕事をすることになった人が優秀で、スケジュールを一気に短縮してくれたの」
「へー。お姉ちゃんがそう言うくらいだから、すごい人なんだね。私も会ってみたいな」
「ダッ、ダメ! クミンみたいな可愛い子を見たら、絶対に変なことする。いまだってお嬢様や、女従人たちに……」
「ふーん、男の人なんだ。もしかしてお姉ちゃんも、その人のことを?」
「ない、ない、無いったら。そもそもお姉ちゃんは、男の人に興味なんてありません」
「まあ、そういう事にしておいてあげますか」
「少し見ない間に可愛い妹がませちゃって、お姉ちゃん悲しい」
「私だって、もう十四歳だもーん」
そんなことを言いながら、二人で笑いあう。十歳年の離れたこの二人は、本当に仲が良かった。お互いに支え合ってきたから、両親がいない悲しみにも耐えられたのだ。それは離れて暮らすようになっても変わらない。むしろ絆は強くなっている。
そこでマツリカは、お土産があることを思い出す。
「すごく珍しい果物をもらったんだけど、いま食べられそう?」
「うん。少しだけなら平気」
手さげカバンからバナナを取り出し、教えられた方法で皮を剥く。中から現れた白い果実に、クミンの目は釘付けだ。そんな妹の姿を見て、まだまだ子供だなと思うマツリカだった。そして皮を半分くらいまで剥き、クミンにバナナを差し出す。
「甘くて美味しいから食べてみて」
「ほんとだ、これ美味しい! それにすごく食べやすいよ」
「クミンに喜んでもらえてよかった。まだまだあるから、遠慮しないでね」
「これ、どこで売ってるの?」
「えっと……実はどこにも売ってないんだ。詳しい場所は言えないけど、一緒に仕事してる人がいないと、手に入らないの」
「ふーん、やっぱりその人って凄いね。もしかして、どこかのお金持ち?」
「あちこち旅してる、ただの冒険者だよ。悪人みたいな目つきをしてて、雇い主にもまったく敬意を払わない、礼儀知らずな人だけどね。睨まれるとすごく怖いから、絶対に近づいちゃダメ」
口ではタクトの悪態をつきつつ、心の奥でマツリカはそっと感謝する。小さなパンすら残すほど食の細いクミンが、美味しい美味しいと言いつつ、バナナを一本食べきってしまったのだから……
そのまま世間話をしていると、クミンの頬が紅潮し始め、首筋にもうっすら汗が滲み出す。
「熱が出てきたみたいだから、横になりなさい」
「ちょっとはしゃぎすぎちゃったかも。ごめんねお姉ちゃん、せっかく会いに来てくれたのに」
「そんなこと気にしなくて大丈夫。しばらく街にいるから、いつでも会いに来られるよ」
「……コホッ、コホッ。うれしいよ……お姉ちゃん」
サイドテーブルに置いてある薬を飲ませ、クミンの頭を優しく撫でる。しばらく苦しそうにしていたが、やがて静かな寝息が聞こえてきた。それを確認したマツリカは、そっと部屋から出て職員たちの詰め所へ向かう。
担当者に妹の様子や薬の使用を伝え、入所費用や治療費が入った大きなコインケースを渡す。
「以前お伝えした転所の件ですが、どうなさいますか?」
「申し訳ありません。まとまったお金を用意できないので、もう少しお願いできないでしょうか」
「そうですか……」
職員は目を伏せながら、小さくため息をつく。
「あの、クミンの病状はどうなんでしょう?」
「正直、あまり良くありません。発熱や咳きこむことが以前よりも増え、食事の量や睡眠時間は減っています。このままでは、いつまでクミンさんの体が持つか。やはり早急にマハラガタカへ行って治療を試みるか、聖女様のご祈祷を受けるしかないと……」
「お金は必ず工面します。ですからもう少しだけクミンのこと、診てやって下さい」
病気の妹を連れてマハラガタカまで行く費用、それにギフト持ちの調薬師に薬を作ってもらうのは、かなり出費がかさむ。ましてや聖女の祈祷ともなると、マツリカの年収をつぎ込んでも足りない。
マツリカは何度も職員に頭を下げ、重い足取りで保養所を後にした。
◇◆◇
人通りの少ない裏道を、目立たないように歩く。向かう先にあるのは、路地の奥にある小さな家。金属でできた扉を一定のリズムで叩くと、中から返事が聞こえてきた。
椅子の上でふんぞり返っているのは、仕立ての良い服を着て太い葉巻タバコを吸う三十代の男。漂う煙に顔をしかめながら、マツリカが室内へ入る。
「どういうことザンス。なんでお前がここにいるザンス」
「私にもわかりません。気がついた時にはワカイネトコにいました」
「まったく、何がどうなってるザンス。裏の連中に依頼を出しても、ことごとく断られるザンスよ。下等な上人の分際で高貴な血筋に逆らうとは、ヨロズヤーオの貧賤どもは躾がなってないザンス!」
男はマツリカに向かって、苛立たしげに煙を吐く。
これまでタクトたちに撃退された者たちや、冒険者ギルドを通じて様々な噂が流されていた。こっそり近づいても必ず発見され、待ち伏せすれば背後から襲われてしまう。しかも捕まったら最後。手足を引きちぎられるような激痛や、自分の意志とは無関係に動く体。さらに火あぶりや氷漬けといった、恐怖を植え付けられる。
外傷が一切ないため、その異質性がいやが上にも際立ち、関わりたくない相手として認識されつつあった。そんな依頼を受けるのは、情報収集もできない雑魚か、危機感の足りない向こう見ずくらいだ。
「護衛についた流星ランクは、計り知れない力を持っています。もう姫殿下を狙うのは、おやめください」
「それを調べて我輩に報告するのが、お前の仕事ザンス。なんのために情報料を支払ってると思ってるザンス」
「申し訳ありません、コルツフット様。しかし……」
「言い訳は聞きたくないザンス。獣姫を使って、我輩が皇帝に返り咲くザンスよ。お前は大人しく従っていればいいザンス。金が必要ザンショ?」
失脚させられた前皇帝の息子、コルツフット・ブリックスは机の上に大きな袋を置く。その中には南方大陸で使われている硬貨が詰まっていた。
「そもそもギルドへ流す情報を操作して、孤立させるはずだったザンスよね? なんであっさり代わりが見つかるザンス」
「それは……運が良かったとしか」
「まったく……そんなイレギュラーを排除できないなんて、使えないザンスね」
穴だらけの計画を立てておいて何を今さら、マツリカはその言葉をグッと飲み込む。園遊会は大成功に終わり、アンキモ家から全面支援を確約された。そしてゴナンクでも非難されるどころか、歓待を受けている。もうこの男に返り咲く芽はない。たとえ金のためとはいえ、これ以上協力するのはやめたほうが良いのではないか。
そんな考えがマツリカの頭をよぎっていく。
「そうザンス! お前がさらってくればいいザンスよ。学園について油断している今なら、簡単に捕まえられるザンショ?」
「私は情報を提供するだけ、その約束だったではありませんか! もうこれ以上姫殿下の信頼を裏切るような真似、したくありません」
「金のために主人を売ったのは、どこのどいつザンス。妹を助けたくないザンスか?」
「くっ……」
保養所の職員が浮かべていた表情を見ただけでわかる、このままではもう先が長くないと。マツリカに残された道は、主人を裏切ってでも金を手に入れるしか無い。
「わかりました。しかし、もうこれっきりにして下さい」
正直なところ成功率は低い、マツリカもそれは重々承知の上だ。悪意に敏感なコハクの目を欺くことは難しいし、周囲を固めている従人の能力はまだまだ未知数。それに毎日タクトと一緒に寝ていることが、誘拐の難易度を上げている。
もちろんコルツフットはそんなことを知らないため、必ず成功すると確信していた。そして生意気にも協力を拒もうとしたマツリカに、ある餌を見せてやろうと思いつく。
「これがなにか、わかるザンスか?」
「飲み薬……でしょうか」
「これは皇家に伝わる秘薬ザンス。あらゆる怪我や病気を治し、失った手足ですら取り戻せる、皇家の宝ザンスよ。もし成功すれば、これを褒美にしてやってもいいザンス」
「ほっ、本当ですか!?」
――食いついた。
態度が急変したマツリカを見て、コルツフットは醜悪な笑みを浮かべる。テーブルに置かれたビンを凝視しているマツリカは、その表情に気づかない。
「成功率を上げるため、これもお前にやるザンス」
「それは?」
テーブルの上から秘薬を下げたコルツフットが、代わりに黒い丸薬を取り出す。
「強壮丸といって、一時的に身体能力が上がる薬ザンス。学園のセキュリティー程度なら、難なく突破できるザンスよ。これを使って、必ず獣姫を連れてくるザンス」
「わかりました」
決意のこもった目で席を立ち、マツリカは足早に部屋をあとにする。その後姿を見送ったコルツフットがボソッと呟く。
「言い忘れていたザンスが、それを飲むと理性が失われるザンス。……まあ聞こえてないザンショね」
席を立ったコルツフットは棚から新しい葉巻を取り出し、先端部分を魔法で切り落とす。
「素直に我輩のモノになっておけば良いものを、まったくバカな女ザンス」
マツリカが皇居で働き出した頃から、コルツフットは彼女に目をつけていた。なんとか自分の専属にしようとしたり、妾としてそばに置こうとしたが、ことごとく失敗している。そんなやり取りの中で、マツリカはうっかり漏らしてしまう。自分には病気の妹がいるから、付き合うことはできないと……
「あんな劇薬を使ったら、壊れてしまうかもしれないザンスね。まあその時はその時ザンス。体だけでも使ってやるザンショ」
椅子に座ったコルツフットは、火のついた葉巻をくゆらせながら、大きく息を吐く。
そして秘薬に目がくらみ、冷静な判断力を失ったマツリカは逸る気持ちを抑えきれず、校門へつく直前に薬を飲んでしまうのであった。