0144話 震える手
再び支部長の執務室で、依頼の申請手続きを進める。その顔、食べ物が目の前で消えてしまった時の、シトラスと同じだぞ。なんでこの世の終わりみたいな目になるんだ。ペンを持つ手も震えてるじゃないか。
「本当にいいのか? タクト・コーサカ。公賓クラスの要人護衛だと、最低でも百万からになる。無料で引き受けて変な前例を作られるのも困るぞ」
「報酬は金以外で手を打ったから大丈夫だ。それから、こちらの方針に一切口を挟まない、それも条件にした」
「くれぐれもアインパエを刺激するのだけは、やめてくれよ。その辺の野盗みたいなことをすると、秘密警察が海を渡ってくるからな」
支部長の言葉を聞き、ベルガモットの手がビクリと跳ねた。サインを書き損じたら、書類の作り直しになる。変に脅すのは、やめて欲しいものだ。
そもそも体なんか要求せんわ。二人とも上人だからな。仮に獣人種だったとしても、モフりまくるくらいで勘弁してやる。
それはそれとして、マツリカの立ち居振る舞いが騎士っぽいから、鎧を着せて〝くっ殺〟をやらせてみたいという願望は、秘密にしておこう……
「わっ……わっ、妾とて、皇族の端くれ。拷問を受けても口を割ったりせんのじゃ。お主の色欲にも絶対に負けぬ」
「バカなことを言ってないで、書類を完成させろ。これから引っ越しするんだからな」
こんな少女が拷問の可能性を考えねばならないとか、アインパエは本当に修羅の国すぎだろ。秘密主義もここまで酷いと、行き過ぎだと言わざるをえん。今の皇帝で少しでも変わると良いんだが……
「どこで保護するつもりなんだ?」
「セイボリーさんから、西区の高級住宅街にある家を借りた」
「なるほど、あそこか。ギルドから警備隊に伝えておこう」
「警備隊は身辺警護できないって規則が痛いよな」
「彼らが守るのは、あくまでも街の治安だから諦めろ」
俺も今日まで、これほど厳格に棲み分けされてるなんて知らなかった。よくよく考えれば日本の警察もそうだ。誰かが危険にさらされている状態でも、巡回強化や一時保護くらいが関の山。つきっきりで護衛してくれることはない。
元の世界にあったようなセキュリティーポリスとか、シークレットサービスが存在しない以上、自分たちで何とかするのが基本になる。
「まあ、その為の冒険者や私兵ってことか……」
「とにかくお前がいてくれて、本当に助かったよ。これまでアインパエの使節は、必ず護衛隊を連れてきていた。まさか単独で訪問してくるなど、国の方でも想定してなかったんだ」
連絡の行き違いもあったし、そんな想定は無理というもの。なにせアインパエと取引のあるセイボリーさんにも、国の現状が伝わってないくらいだ。新しい体制になって、相当混乱してるんだろう。
秘密警察は政権交代の事後処理に追われ、従人部隊は国外へ出せない決まりがあるらしい。皇帝の護衛や皇后の護衛は動かせないとしても、皇嗣の護衛くらい付けてくれても良かったのに。
しかし、どうしてマツリカ一人だけでいいと、言い張ったのか。色々と事情はありそうだが、国家機密に類することらしく、教えてもらえなかった。
「こうして依頼が成立した以上、俺は自分にできることをするだけ。それ以外のことは、ギルドと警備隊で頑張ってくれ」
「アンキモ家でやる園遊会には、こっちの人材も派遣しておく。それまでのことは頼んだぞ」
「秘密は厳守してくれるらしいからな。今まで知らなかった世界を、目いっぱい体験させてやるさ」
「ベルガモット様に不貞を働いたら、命がないと思え」
「……あるじ様になにかしたら、斬る」
「おいおい、本当に大丈夫なのかよ」
一つだけ大きなハードルはあるが、まあ大丈夫だろ。くっころ騎士がいくら睨んだところで、可愛いものだ。
……って、いかんいかん。騎士ではなかったな、マツリカは。
持っているギフト次第で変わるとはいえ、生半可なレベルではミントにすら勝てん。それに俺だって易々とやられるつもりはない。歯向かってきたら手足を縛って、熱々の白根を口に突っ込んでやる。
◇◆◇
冒険者ギルドを出て、滞在中の家へ向かう。それにしても、園遊会はアンキモ家でやるのか。タウポートンの一角を牛耳ってる大地主だけあり、広大な庭を持っているから選ばれたんだろう。ジギタリスのやつに見つかったら、またなにか言われそうだ。
「妾の貞操は風前の灯なのじゃ」
「ベルガモット様の操は、私が必ずお守りします」
「お前ら、いい加減にしろ。俺は未成年に手を出す鬼畜じゃない」
「すまんのじゃ、マツリカ。妾が不甲斐ないばかりに……」
「いえ、いいのです。私の犠牲でベルガモット様が、野獣の手から逃れられるなら……」
わざとやってるのか、コイツラ。借金の額が大きすぎて、思考が明後日の方向に振り切れてやがる。俺は野獣になる、どこかの先輩じゃないぞ。
「人通りの多い場所で、バカなことばかり言ってるんじゃない。ちょっと寄り道するから、はぐれないように付いてこいよ」
「どこに行くのじゃ?」
「食料品を買い足しにいく。なにせ今日から二人も食い扶持が増えるんだ。いまのままだと量が足りん」
「うぅっ……すまんのじゃ」
「気にするな、これも必要経費だ。生活に不可欠な身の回り品や、消耗品で足りない物があれば、遠慮なく言えよ。快適に暮らすための必需品は、いくらでも買ってやる」
「タクトは太っ腹なのじゃ」
二人が滞在中は、なるべく家を空けたくない。そして買い物に付き合わせるのもリスクがある。ある程度引き込もれるよう、食材を多めに買い込んでおく。
「……あるじ様、ヒゲナガ買って」
「おお、いいぞ。今度はヒゲナガ入りの餃子とか、長菜と一緒にクリーム煮を作ってやるからな」
「……うれしい、楽しみ」
家に引きこもるなら、時間のかかるカレーを作ってみるか。そうと決まれば貝類も買っておかねば。アインパエの人間からどんな評価を得られるのか、ちょっと楽しみだ。
献立を組み立てながら、店を何件か回る。
さて、そろそろ目障りだし、今のうちに排除しておこう。
「(シナモン。そこのガラスに、後ろの家が写ってるだろ)」
「(……うん)」
「(屋根の上に従人がいるの、わかるか?)」
「(……港で見たのと、違う)」
「(目立たないよう、屋根の色と同じ黒い毛色をした従人に、見張らせてるのかもしれん)」
港で見た二等級の猫種と違い、俺たちを尾行してるのは一等級の黒い狼種だ。前回と同じやつが使役しているのか、それとも別の勢力なのかはわからん。しかしさっきから視界の端に、四ビットの数字がチラチラ見えて、鬱陶しい事この上ない。
「(……あるじ様、どうする?)」
「(この石をぶつけてやれ。とりあえず相手を撒いて、シトラスたちと合流する)」
道端で拾った小石を渡すと、シナモンが振り向きざまに放り投げる。さすがスキル補正のかかった投擲だ。かなりの距離があるにも関わらず、屋根から半分だけ出ている頭に命中。ケモミミの中に小石が飛び込んだら、たまらなく不快だろ。短く悲鳴を上げて屋根の後ろに消えてしまった。もしかすると落ちたかもしれんが、確認のために戦力を分散させる余裕はない。
「二人とも少し走るぞ。遅れないよう付いてこい」
「うっ……うむ。わかったのじゃ」
「あれだけ離れた場所に命中させるとは……」
建物の隙間から路地に入り、シトラスたちの待つ借家へ急ぐ。新しい家に着いたら、二人からもっと詳しいことを聞き出さねば。ここまで執拗に追われるんだ、相手を知らないと対処が後手後手になってしまう。
おでん芸は南極条約違反。
次回は「0145話 引っ越し」です。
玄関を開けた主人公の胸に飛び込んでくるジャスミン。服飾職人の力作を披露したあと、ついつい悪ノリをしてしまう……