05
「……暑いですね」
火山が近いせいか、わたし達が訪れた洞窟は床や壁の穴から熱気が吹き出していて、まるでサウナのような状態だった。
通路が狭いこともあって空気が篭もりやすいのだろう。踏み込んで間もなく体中から汗が溢れてくる。
「これじゃ、ラビのこと探す前にお風呂入らないと」
「魔物の巣だぞ。油断すんなよ、お前ら」
依頼の内容は、パイロウルフと呼ばれる火山帯で群れを為して生息するウルフ種が里に降りて村に被害を及ぼすようになったため、これを討伐して欲しいとのことだった。
同種は平地で暮らす他の種よりも大型で凶暴かつ知性も高く、名前の通り炎に耐性があり火属性魔法はほとんど効かないと思ったほうがいいと教えられた。
カーナは氷属性の魔法も使えるからその点は問題ない。
気になるのは、坑道に巣食ってしまったはずの狼を、当初から一向に見かけないことだった。
それから、しばらく奥へ進んだ頃。
「隠れて待ち伏せでもしてるのでしょうか?」
「それにしちゃ気配が無さ過ぎるような……」
「待て、静かに」
先頭を行く先輩剣士さんがわたし達を制止する。
通路の先は開けていて、明々とした光が漏れていた。
まるで火でも燃えているようにゆらゆらと岩陰が動く。
「……っ!」
慎重に先へと進んだわたしは、息を呑む。
開けた空間を照らしていたのは、壁から生えた燃え盛る火柱だった。
空間の暑さは格段に上昇していたが、問題はそれだけではない。
天井や地面にべったりとこびりつくどす黒い液体。
それらが蒸発して、嗅いだことのない悪臭が鼻を刺した。
おそらくそれらの発生源だろう無造作に転がる人間大の肉塊からは少し明るい色の臓腑がはみ出している。
「……パイロウルフだ」
「えっ?」
「この毛皮の色、奴らのものだ。1匹や2匹じゃない。誰かがこいつらを殺してここに捨てたんだ」
狼、これが。
犬種の域を超えた大きさに戦慄を覚えたが、それより気になったのは、これを倒したものがいるということだ。
「他の冒険者がすでに倒してしまったということでしょうか?」
わたしが聞くと、先輩剣士さんは神妙な面持ちで首を振った。
「……違う、このやられ方は。まずい」
ここまで戦闘の1つもないのに、何故かひどく憔悴した様子で彼はつぶやいた。
「今すぐ戻るぞ。ここはもうすぐえらいことになる」
「そんなこと言われても、これで依頼達成になるのかよ」
「命のほうがやばいってんだよ。ほら、行くぞ」
「そんな、理由もわからないのに!」
――馬鹿、死にたいの――。
言葉が届く前に、先輩剣士さんの姿が掻き消えた。
物凄い勢いで横に飛ばされたのだと理解できたのは瞬きを1つか2つした後だった。
そのままの速度で壁に叩きつけられ……彼はそれきり動かなくなる。
「……ぁ」
ぴちゃぴちゃと赤い滴が垂れている。
首が奇妙な方向に曲がって、四肢を投げ出したみたいに、壁にべったり張り付いている。
回復、しなくちゃ。
だけど体が動かない。
彼を吹き飛ばしたものは、わたしのすぐそばにいた。
ぜぇぜぇという呼吸の音は誰のものだろう。
これだけ熱気に満ちた空間は、吹き出る汗で背筋が凍り付くほどの世界に変わっていた。
ゆっくりとわたしは、隣に立つものに目配せする。
「……ひっ」
身長は、軽く倍はあるだろう。
毛皮をつるんと剥いてしまったような、猿に近い生き物だった。
落ちくぼんだ眼窩に剥き出しの歯。のっぺりとした鼻梁。
人と同じく2本の脚でしっかりと立つそれは、血糊のついた長い腕を舌でなめ回しながら、おもむろにこちらを見下ろした。
「アレッサぁ――――!」
ヴィクト君が剣を振り上げ走る。
カーナが杖を振りかざす。
熱気がふわりと蠢いたかと思うと、わたしの胴体めがけて風が薙ぐ。
直後に金属音が響き、それが魔物の一撃をヴィクト君がかろうじて止めたのだと知ったのは、数瞬後のことだった。
「ゴホッ! ……くそ!」
態勢をよろめかせながらも、ヴィクト君は剣を振るった。
だけど、巨体ににつかぬ俊敏さで魔物はあっさり距離を取ると、次の瞬間立ちはだかるヴィクト君を飛び越えてわたし達の前に着地する。
「なっ……!」
突き出される2本の腕。
とても反応できる速度ではなかった。
呆然とするわたしは、杖を構えることもできず立ち尽くす。
そして腕はわたしのことなど放って、後ろにいるはずのカーナに吸い込まれていった。
ぐちゅん――
こふっ、という水気を含んだ声。
「……ぇ」
振り返ったわたしが見たのは、肩と脇腹に魔物の腕が突き刺さったカーナの無残な姿だった。
「か、カーナ……! い、いや……っ!」
「離れろ!」
ヴィクト君がこちらに駆け出し、魔物を斬りつける。
人ひとりが刺さっているせいか、今度は動きが鈍い。
魔物は応戦するものの、腕を斬りつけられて1度大きく後退する。
その勢いで腕が抜けると、カーナは少し離れた地面に放り出された。
「アレッサ、逃げろ!」
「え……え……?」
わたしの前に立って剣を構えるヴィクト君が叫ぶ。
逃げるなんてそんな、カーナはぐったりしたままだ。
一刻も早く回復してあげなければ手後れになる。
「いいから逃げろ! カーナを連れて追いつくから!」
直後、魔物が吠える。
牛、狼、猫、虫、あらゆる生き物の鳴き声が混じったような、人が心底から心底から嫌悪を催す咆哮だった。
そこに込められている感情はひとつだけ、憤怒だ。
呼応するように火柱が噴き出して全てを灼き焦がすが如く魔炎のフィールドが生成される。
やがて怒りは憎悪と共に魔物を包んで、ヴィクト君を一心に見据えた。
「あ……あ……」
恐い。
かつてない恐怖が身を包む。
――せめて、援護、しなきゃ。
でも、体が動いてくれない。口がもつれて詠唱ができない。
「早く行け――ッガ!」
言葉が止められる。
高速で伸びた腕がヴィクト君を体ごと捉え、壁に叩きつける。
「あ……あ……」
脚が、動かない。
――どうすればいいの?
ヴィクト君を信じて逃げればいいの?
それとも留まって神聖魔法で援護すればいいの?
でも、早く助けないとカーナが。
「どうしよう……だれか、だれか……!」
誰か、教えて。
その時。
今までぐったりとしていたカーナが上体を起こすと、杖に込められた魔法を放った。
――《フローズンフィート》。
魔法陣を打ち出し対象の区域を凍らせる中級魔術。
狙ったのは魔物の足元。魔力を帯びた凍気が熱気をものともせずその膝下を固定する。
「カーナ!」
「――――!」
わたしが叫ぶと、彼女は蒼白な表情をこちらに向けて、声にならない声を放った。
にげて。
彼女は決められないわたしに向けて、そう口を動かした。
逃げて? そんな、2人はどうするの?
見捨てるなんてできないよ。
わたしが、何とかしなくちゃ。
そう決意して、それでもとっくに戦意を失っていたわたしは、身動きひとつできなくて。
――お願いだから。
「っ!!」
悲壮にまみれた2人の顔を見て、わたしは出口に走り出した。
見捨てた。
2人の思いを無駄にしたくなかった。
助かりたかった、一緒にいたかった、助けたい、死にたくなかった。
ずっと一緒に、生きてきた、幼なじみを見捨てて、わたしは。
怖くなって、逃げた。
☆★☆★
ほとんど一方通行の坑道を、わたしはひた走った。
それからしばらくして。
「はっ……はっ……! ……っ! あぐっ!」
死に物狂いの2人を置いて死に物狂いで走り続けたわたしは、道に埋まった小石に足を取られて、地べたに体を投げ出した。
杖が地べたを転がる。
受け身に失敗した手のひらが痛い。
「……助けを、呼んでこなきゃ」
少しでも早く他の冒険者さんを呼んで救援にきてもらう。
時間はない、きっとまだ2人とも戦っている。
早くここを出て、町へ帰って。
何言ってるの。
ラクシャまでは1日かかるのよ、手遅れに決まってるじゃない。
じゃあ、どうしたらいいの?
やっぱり助けに戻るの?
そんな度胸も無いのに。
……わたしは、どうすればいいの?
誰か、教えて。
「………………アレッサちゃん?」
聞き覚えのある声が、耳に入った。