8
当のアーノルドは、胸のチーフを取り出して手を拭くフリをして、例のメモを覗き見た。
「そういえば父上」
「どうした」
「どうにも、これらのグラスは磨き足らないと思うのですよ。せっかくの御客人に、そんな粗相はもってのほか。是非予備のグラスに変えて頂きたい」
「何?」
案の定怪訝そうな顔をする国王。
それが伝染するように、他の来賓がヒソヒソと話し始める。
「また王子のわけの分からないワガママか」
「変わっている」
「何も汚れていないじゃない」
「やはり弟君の方が王位に・・・・・・」
しかしここで王妃が手を叩いた。
「アーノルドがそう言うならそうしましょう!給仕長、お願いね」
「かしこまりました」
王妃の図らいで事は進んだが、リックは腸が煮えくり返える思いだった。
どうしようか、ここに居る全員の脳天カチ割ってやりたい。
いっそこのままワイングラスを取り替えないでおこうか。
(・・・・・・・・・・・・。・・・・・・いや、王子は大事にならないように、自分を犠牲にした。その犠牲を俺が無駄にしてはならない)
リックは深呼吸をした。
けれども胸の苦しみはあまり晴れなかった。
唯一の救いは、先程より準備に対する人目が多く、誰も毒を仕込む余裕は無かったというところだ。
無事乾杯が終わって、晩餐会が始まった。
「そこのあなた、ワインを」
開始すぐにワインを飲み干したのはエレノアだった。
アーノルドの側で控えていたリックをわざわざ指名した。
慌てて近寄り、「はい、王女様」と恭しくワインを注いだ。
人々の話し声て騒がしい食事の中、エレノアはそっとリックに耳打ちした。
「今すぐ医務室に行って下さい。私がハンカチを洗ってくるよう、頼んだことにしておきますから」
渡されたハンカチをリックは握り締めた。
「ありがとうございます、エレノア王女様」
心からの感謝を込めて。
***
晩餐会も終わり、人々は自らの住まいへと帰っていった。
エレノアとカリーナは城に部屋を用意されており、エレノアはそっと庭に抜け出した。
ストラントと違ってアリドネの夜は少し暑気がする。
月は無かったが、星が綺麗で夜は輝いていた。
待ち合わせ場所に、彼はすでに到着しており、待ちぼうけをくらわせてしまっていた。
エレノアに気付いた彼は微笑を浮かべた。
「夜に逢い引きとは、私達も風流だね」
「あなたが私を好いていたら、そんな話も出来たでしょう。・・・・・・あなたの付き人の彼、悲しそうでしたよ」
「優しい子なんだ。後遺症が残らなくてよかった」
その言葉に心からの安堵を感じた。
幸い仕込まれていたのは毒物ではなく、ただの刺激物だった。
暗殺というよりも、王子の出席するパーティーに混乱を招くのが目的だったらしい。
それもこれも、すでに犯人を捕らえて自供させたから分かったのだが。
「やはり犯人は、弟君の派閥ですか」
「ああ。まだやり方は可愛い方だ」
「皆の前で吊し上げればよかったのに」
「その方が手間が増えるだろう」
「そうですね。でもあの付き人の彼を悲しませたのは、紛れもなくあなたです。
あなたは何も悪くなかった。
でもあの場に混乱を生じさせるよりも、自分の世間体を犠牲にすることを選択するから、あなたは変人などと誤解されるのですよ」
今までだってそうだ。
彼はいつも自分の犠牲は一切かえりみなかった。
誰も彼の真意を図ろうとしない。
目の曇った貴族達。
「それは慣れっこだ。そう仕向けているのだから」
「その割には、あの少年の前では『素のあなた』でいらっしゃる」
「不思議なもので、彼には私の仮面が通じないんだ」
困ったような、嬉しそうな声にも聞こえた。
「あなたに友ができてよかったと思います」
エレノアの言葉に、アーノルドは少し置いて、
「私は、そう認めるわけにはいかない」
そう言った。
それはとても悲痛な、消え入るような声だ。
友と認めれば迷惑をかけると思っている。
実際そうなのだろう。
アーノルドの友人、脅すには最高の材料となり得る。
「だからこそ、私が代わりに認めたのですよ」
いつまでも悲しい運命を背負う人だと、エレノアは見えない月を探した。