ソムノロンスの紅茶
高槻会長は学園の眠り王子らしい。
らしい、というのは彼の眠っている姿を私は見たことがないからだ。
今だって。
「会長、そんなに見ないでください」
「せっかく二人きりになったんだよ。お仕事だけだなんて味気ないじゃない」
「生徒会を何だと思っているんですか。手を動かしてください」
ふかふかと柔らかそうな椅子に腰掛け、会長はかれこれ10分ほど私を見つめている。にこにこと、楽しそうに。
会長の奇怪な行動は今に始まったことではない。私の顔なんて見ても面白くないだろうに、その観察をもはや習慣としている。会長の独特な趣味を否定するつもりはないが、今は作業に専念してもらいたいところだ。
「萌衣ちゃんは真面目だなぁ。そういうところも好きだけど」
「ここにハンコお願いします」
「……はぁい」
このふわふわした会長からの推薦でなぜか書記になって早半年。今では彼の扱いも慣れ、当初感じていた不安はすっかり消えていた。
会長による推薦は寝耳に水だった。それまで一度として関わったことがない相手だからだ。私が記憶している限りで、会長と初めて会ったのは引き継ぎの顔合わせだったと思う。会ったこともない先輩に突如書記として推薦され、当時はひたすらに困惑していた。私は特段目立つ生徒ではないし、会長の目に留まるような出来事もなかったはずなのに。推薦されるされない以前に、存在を認知されていたことがまず驚きだった。
とはいえ、会長のことは一方的に知っていた。調べるまでもなく、高槻千尋は学園でかなり有名な先輩だ。いつでもどこでもどんなときも、ところ構わず眠り呆ける変わり者。ついたあだ名は、眠り王子。そういう病気なのかと一時期は思っていたが、噂によれば生活習慣が悪いだけらしい。ある意味凄い人だ。
そんなぐうたらでも生徒会長になれるなんて、と普通は思うだろう。思わないわけがない。高槻先輩が会長に当選されたと聞いて、半年前の私はこの高校の行く末が不安になった。しかし幸か不幸か、彼はその眠り癖を看過させてしまう実力があった。眠っていても試験は常に満点、入試もトップ通過だったそうだ。その非凡な才能と「王子」たる容姿、さらには柔らかな人柄が彼に人気を与え、生徒会選挙ではあっさりと票を掻っ攫ってしまった。
世の中は不思議だ。というか、残酷だ。ステータスの振り方が間違っている。会長の自己管理能力のなさはもはや呪いといっていい。
ちらりと目線だけを動かせば、その俊才こと会長はぽやぽやと書類を確認している。その眼差しはどこかぼんやりしていて、才能を感じるどころか今にも眠ってしまわないかハラハラしてしまう。今日こそ寝やしないだろうか。……でもよく見ると眠そうな表情も様になるな。
「俺の顔に何かついてる? ずいぶん真剣に見てくれているけど」
「んえっ!? い、いえ、そんなことは……ごめんなさい」
「ああ、謝ってほしいわけじゃないんだ。何か気になるなら話を聞こうと思って」
手を止めているつもりはなかったが、視線があからさまだったようだ。書類から顔を上げ、会長が首を傾げた。今年18にもなる男がやっても可愛くないはずなのに、会長の場合は妙にしっくりくる。気を抜けばうっかり見惚れてしまいそうだ。
「本当に、大丈夫です。お仕事中に申し訳ありません」
仕事しろと言ったのは私なのに、その私が作業の邪魔をしてしまった。恥ずかしさと申し訳なさで顔が火照ってしまいそう。顔を隠し、座ったまま会長へ頭を下げる。今日は私たち以外の役員が予備校やらお稽古やらで欠席が決まっている曜日だ。その分私たちの仕事量も増えているというのに、私ときたら集中力まで切らして何しているんだろう。
「だから、謝らないでってば。萌衣ちゃんは今日いっぱいお仕事してたんだし、もう終わりにしよ。俺が紅茶入れてあげる」
「そんな、会長のお手を煩わせるわけにはいきません。それにまだ――」
「はい、お口チャック。会長命令で今日はおしまい。そもそも休んでる人の分までやるのがおかしいんだ。明日俺がしごいとくから、萌衣ちゃんは紅茶ができるまでいい子にしててね」
慌てて会長を止めようとすれば、反対に椅子に座らせられてしまった。私が動かないのを確認して、会長はいそいそと奥のキッチンへと消えていく。これは仕事をしていた方が叱られてしまいそうだ。諦めて仕方なくただ座り込んだ。今にも歌い出しそうな姿を見つめて、どうして生徒会室にキッチンなんて備えつけてあるんだろう、椅子も無駄に柔らかいし、などとどうでもいいことを考えた。
ピーっとやかんが鳴り、ついに沸いたお湯を会長がポットとカップに注ぎ始める。変わった動作だと眺めていれば、入れ物を事前に温めておくのが美味しい紅茶の第一歩なんだと教えられた。そこまで気にしなくていいのに、会長は変に細かい。
「萌衣ちゃんには特上のものを味わってほしいんだ」
「……それは、ありがとうございます」
「うん」
満足そうに頷かれる。いったいどこまで本気なんだろう。周りに羽でも舞ってそうな会長の雰囲気からは推察できない。
会長はいつも通り緩慢に、けれど丁寧な手つきで缶を開ける。紅茶を入れるだけのことなのに、なぜか本物の「王子」のような優雅さが感じられる。眼差しは真剣そのもので、繊細な指先がカップに触れるシーンは一枚の絵画のようだ。開いた缶から茶葉のかぐわしい香りが辺りを満たす。
「会長は、眠り王子なんですよね」
ふと、疑問が口を突いて出た。ん? と会長が反応する。
「よく呼ばれるあだ名だけど、それがどうかした?」
温まった空のポットに茶葉を入れて、お湯を勢いよく注ぐ。紅茶の正しい入れ方なんて分からないけれど、会長は慣れているのだろう。静かな水の音を聞きながら、私は口を開く。
「会長、あだ名の割には元気ですよね。私、会長の寝顔なんて見たことありませんよ」
元気というか、生徒会では眠らないようだ。今もこうしてキッチンに立っている。
生徒会での会長は、ぼんやりすることはあっても仕事をサボったことはない。適度に休憩を挟みつつではあるが、やるべきことはきちんとこなしている。作業はいたって的確で、後輩である私のこともきちんとフォローしてくれる。就任当初はどんな化け物会長なんだろうと戦々恐々としていたが、関われば関わるほどむしろ惹かれてしまった。
「俺の寝顔が見たいならいつでも見せてあげるよ?」
「いえ、それは別に」
「ひどいよ、萌衣ちゃん! もっと俺に興味持って!」
茶葉を蒸らし終えたらしい会長が茶こしを取り出し、スプーンでひと混ぜする。それを2人分のカップに注ぐと、一つを私に差し出してきた。匂い立つマスカットと揺れる琥珀。茶葉が特別なのか、会長の入れ方がよかったのか。本当に美味しそうだ。
「生徒会で寝ないのは単にもったいないからだよ。萌衣ちゃんといるときはちゃんと起きていようって頑張ってるの」
「授業中に寝る方がもったいないですよ。学費もタダじゃないんですから」
「おぉ、そう来るかぁ……」
腰を下ろして、見るからに苦い顔で会長が笑う。正論を吐いたつもりだったが、いけなかっただろうか。以前ならまだしも今の高槻先輩は生徒会長だ。生徒の良き模範となるべきだろう。むしろ私の前では多少休んでもいいから、他生徒の前ではそれらしく振る舞うとか、頑張りどころを変えるべきだと思う。そういうところも会長の「らしさ」なんだろうけど。
そう思って見上げれば、「いや、いいんだ。そういう鈍感さも悪くない」と返された。意味が分からない。何がいいんだ。まるで意思疎通できている気がしない。会長は怪しげな電波でも受信したのか、何やら一人でぶつぶつ呟いている。その姿からは先ほどの気品など微塵も感じられない。
まあ、いいか。宇宙と交信している会長を放置して紅茶を口に含み、その渋みにほっと息をつく。
ずっと不思議だった。ところ構わず眠る会長が生徒会ではなぜ起きていられるのか。眠り王子なんて、褒めているんだか貶しているんだか分からない二つ名をつけられているのは相当なことだ。
確かに、起きていられるならそれに越したことはない。だけど人は完璧じゃない。本当は無理しているんじゃないか、私だけ警戒されているんじゃないか、なんて考えを巡らすこともあった。それが違うと分かっただけでも満足だ。
「俺ね、萌衣ちゃんといる時間が特別なの」
宇宙との交信は終わったらしい。紅茶を飲み干した会長がふと呟くように告げた。
「萌衣ちゃんだけが、俺の生きる気力だから」
落としていた視線が私に向けられる。まっすぐな眼差しの奥に、ほんのわずかな熱を見た気がした。いきなりどうしたんだろう。なんだか物騒な言い回しだ。
「会長とはそこまで親しい間柄ではないと思うのですが」
「えぇー、俺としてはかなり仲良くなったつもりなんだけどなぁ」
確かに普通の先輩後輩よりはずっと近い関係だが、生きる気力にされるほどではないと思う。というか、重い。家族でもなかなかそんな感情は湧かないだろう。
知らぬ間にそんなヘビー級の感情を持っていたらしい会長は、にこやかに微笑みながら私を見つめている。いつものことなのに、なんだか捕食者に睨まれている気がするのはなぜだろう。
「萌衣ちゃんは知らないだろうけど、俺たちは入学前に一回会ってるんだよ」
「えっ、会長に……?」
こんな特徴的な人に出会ったならさすがに忘れられないはずだが。そう思ったのが顔に出てしまったのか、会長は困ったように眉を下げた。
「あのときの俺は今とずいぶん違ってたからね。覚えてないかな、2年前の冬、展望台で会った男のこと」
「2年前……」
というと、私が中2のときか。確かにあの頃はよく展望台で一人街を見下ろすことを趣味していた。街にありながら、みんなの記憶から消されてしまった小さな展望台。いつもは誰もいなくて、だけど一度だけ変な少年に会ったのを覚えている。
刺すように冷たい冬の日のこと。世間はすっかり受験シーズンで、家族はみんな一つ上の兄に力を注いでいた。もちろん私も兄を応援していたが、必要以上の緊迫感には息が詰まって仕方がなかった。これでは兄も試験以前に精神が悲鳴を上げてしまう。
だから、明るい話題をもたらそうと思った。担任に勧められて書いた論文が表彰され、雑誌に掲載されることになったあの日。担任はもちろん、クラスメイトや数少ない友人、校長からも称賛され、私は有頂天になっていた。帰ったら家族に見せよう、両親に「自慢の娘だ」と認めてもらって、少しでいいから空気を緩ますことができれば。勉強の邪魔はしない。必要以上に驕ったりもしない。ただ少し笑ってくれれば。数分でも、私を見てくれれば。
だけど、その願いは叶わなかった。その日帰宅した家はいつもより空気が重たかった。
――失敗したかもしれない。
兄が小さく呟く。それですべてを悟った。いつものようにできなかった、計算ミスをしたかもしれない、解答欄がずれていたかも。『しれない』という可能性で、兄は落ち込んでいた。励ましの言葉も耳に入れずただ俯き、私は結局さじを投げた。
母は無言で料理を作っており、父は未だ帰ってこない。電灯の明るさだけが部屋を照らし、大好きなシチューの匂いもそそられない。表彰された喜びはとうに消え失せ、きっと告げる機会もないだろう。私では家族に笑顔を与えられなかった。
一人になりたい、な。
ふと思い立ち、用事があるとだけ告げて飛び出した。目指すのはぽつんと佇む小さな展望台。あの展望台の前では、世界には私しかいない。街を見下ろせば、すべてが些末なことになる。そう思って走った。
そして、そこで私は出会ったのだ。
「飛び降りようとした俺を、助けてくれたでしょ」
めったに見ない先客。珍しいこともあるものだと歩みを止めれば、その人は突如手すりから身を乗り出した。さすがにぎょっとして袖を掴めば、学ランに身を包んだ彼はそのとき初めて私の存在に気づいたようだった。虚ろな目で私を振り返ると、淡々と告げる。
『止めないでください。もう僕に生きる価値はありません』
『は!? と、とりあえずここは危険です。もっと奥に来てください』
『えっ、あ……』
手すりに足を掛けようとする彼を引っ張り、半ば無理やり中央へと引き込んだ。初対面の人間相手にすることではないが、みすみす見殺しにしてしまうよりはいいだろう。少年は高い背丈の割に力がなく、ずるずると私の言いなりになっていた。
普段ならもう少し大人の対応ができていたと思う。だがその日の私はむしゃくしゃしていた。家の沈痛な空気にイラついて逃げた場所に、さらに重苦しい雰囲気の男が自殺を試みていたのだ。あなたが立ち直るまでは帰らせないと勝手に宣言し、強制的に話を聞き出した。
そんな私に少年はついに折れ、深刻そうに言ったのは、私にとって本当に小さな、言ってしまえばどうでもいいようなことだった。
――今日は入試だったのに、解けない問題が一つあったんです。
反射的に『はぁ!?』と怒鳴ってしまったのは若気の至りだ。この少年まで兄と似たようなことで悩み、いや、兄以上に些細なことで悲嘆し、命まで捨てようとするのが許せなかった。
『ど、どうして怒るんですか……』
『怒りもしますよ! あなたの命はそんな1問で投げ出せるものなんですか!?』
なおも不思議そうに、そして空虚な眼差しで見つめてくるのが気に食わなくて、思いつくままに言葉をぶつけてしまった気がする。人間だから間違いはあって当然とか、そんなことで悩んでいたら禿げますからね、とか。『両親の期待に応えられなかった』との戯れ言には、あなたは誰のために生きているんだとか、とにかく好き勝手喚いていたと思う。……初対面相手に。
「萌衣ちゃんはあのとき俺に、完璧じゃなくていい、もっと自分を許していいって言ってくれたよね」
会長はさもいい思い出であるように告げるが、私にとってはただの黒歴史だ。
だが悲しいことに、よく覚えている。というより、思い出してしまった。本当になんてことを仕出かしたんだろう。たとえ知人相手でも、あれほど感情を露にすることはなかったのに。あの日の私はどう考えても非常識だった。目の前の少年をどうすれば思い留まらせられるかと必死だったとはいえ、あの言動はなかなかに度が過ぎていた。
「ずっと俺にかかってた『完璧』の呪いを、萌衣ちゃんが解いてくれたんだ」
「……そう、ですか」
本当は今すぐ穴に入って冬眠ならぬ夏眠がしたい。けれどそんなに嬉しそうにされてしまっては、あの黒歴史も私の過去の一つだと認めるしかない。
あの日出会った彼はささくれた棘だった。染めたことのなさそうな黒髪を七三分けにして、青ざめた顔に深い影を落としていた。けれど今の会長からそんな様子は感じられない。
「会長は、ずいぶん変わりましたね。雰囲気もそうですが、その眠り癖はなかなか突飛なイメチェンというか……」
今の会長は言ってしまえば高級羽毛布団だ。見た目はさほど変わっていないものの、まとう空気があまりにも違いすぎる。あの堅物が今では眠り王子として有名なんて、いくらなんでも気づけるわけがない。吹っ切れたのはいいことだが、もう少しまともな気の抜きようがあったんじゃないだろうか。
「あ、眠くなっちゃうのは違うんだ。日課として萌衣ちゃんのフォルダを眺めてるといつの間にか朝になってて、それでね」
「寝てください」
えへへ、と頬を緩ませているが笑い事ではない。そもそも何だ、そのフォルダは。聞かない方が身のためだろうか。尊敬していたはずの会長がもはや恐ろしい怪物に見えてくる。
私が引き気味であることにも気づかず、あるいは気にしていないのか、会長はそのまま言葉を続けた。
「あの日、他人の俺に必死に訴えてくれる君に恋をした。それからずっと忘れられなくて、毎日展望台に向かったのにいなくて。せめて名前だけでも聞いていたらと後悔したよ」
展望台にいなかったのは例の黒歴史を封印しようと思ったからだ。あれ以来、私は一度としてあの展望台に足を運んだことがない。行ってしまったら最後、恥ずかしい過去に身悶えてしまうと思った。いい思い出にできるのは会長だけで……ってあれ、今なんと言った? 『君に恋をした』?
「この学園で君を見かけたとき、運命だと思った。ありったけの感謝を告げて、まずはお友達から始めようと思った。でも俺はかなり変わっちゃってたし、知らない男にいきなり絡まれたら怖がっちゃうと思って――」
「あの、ちょっと待ってください。なんだか会長、私のことが好きみたいに聞こえます」
幻聴を聞いているのだろうか。つらつらと流れ出る言葉に待ったをかける。これで聞き間違いだったら今度こそ穴に入る。黒歴史量産機とは二度とお話ししない。
「だから、そうだって言ってるじゃない。俺は好きでもない子を勝手に盗撮したり、生きる気力にしたりなんてしないよ。それじゃただの頭のおかしい人だよ」
「今の会長もだいぶ頭が沸いていると思いますが……」
あと盗撮は犯罪だ。私の知る穏やかな会長はどこに行ってしまったんだろう。これじゃあ変人の一歩手前……いや、もう変人だったか。
ともあれ、私はどうやら会長に恋愛感情を持たれているらしい。まったく気づかなかった。今までそんな空気になったこともなかったと思う。それなのにどうして突然。暑さで脳をやられたのだろうか。
「ねぇ、萌衣ちゃん」
ふいに会長が席を立った。そしてそのまま私の座る椅子へと歩み寄ってくる。いつも浮かべている笑顔は消え失せ、神妙な顔つきで私を見据える。……なんだか、嫌な予感がする。
「あの、紅茶美味しかったです。ありがとうございました。だから私はこれにて――うわっ」
カバンを持って退散しようとしたら、思いっきり腕を掴まれた。そのままソファへと押し込まれる。前々から思ってはいたが、この生徒会室は無駄なものが多すぎる。柔らかい椅子もおかしいが、ソファなんて絶対に必要ないだろう。
内心で毒づいている間にも、一点の曇りもない美貌が迫ってくる。何という風紀の乱れ。誰か今すぐ生徒会に乱入して会長を補導してはくれないだろうか。
しかし願いむなしく、会長の細い指先が頬に添えられる。
「萌衣ちゃんは、もっと俺を意識してもいいと思うんだ」
「じ、十分、意識してますよ」
「そうかなぁ。萌衣ちゃんってば、俺と二人きりになっても全然動じないし」
ふぅ、と呆れたように会長が息をつく。ただでさえ息がかかりそうな距離なのに、会長がより間近に感じられてくすぐったい。なんだこの桃色の空気は。私に救世主は訪れないのか。
「……キスでもしたら、俺を好きになってくれるかなぁ」
いや、眠り姫じゃあるまいし。王子と呼ばれすぎて脳までメルヘンに染まってしまったか。なんて冷静に突っ込んでいる場合ではない。今の会長は間違いなく頭が沸いている。これでは落ち着いて話すこともできない。
とにかく、今すべきことはこの伏魔殿から逃げ去ることだ。でないと、何か大事なものが失われる気がする。告白の返事など、きちんとした話し合いは後日に回しても問題ないだろう。すべては正気を失っている会長が悪い。私が逃げるのは至極当然の判断だ。そう結論づけ、鮮やかに去ろうとしたが。
「逃がさないよ」
「ひぇっ」
その前に回り込まれてしまった。頭の中でけたたましい警戒音が鳴る。今の会長は危険だ。頭のネジが数本外れている。修理工を呼ぶ必要がある。
「萌衣ちゃんには俺の心を奪った対価を払ってもらわなきゃ、ね」
私は奪ったつもりなんてない、会長が勝手に奪われただけじゃないか。なんて叫びも彼には届かない。外れたネジを締め直す算段はつかず、迫りくる美貌になす術はない。
放課後に似つかわしくない悲鳴が上がるのはその数秒後。
……会長なんて、あと100年眠りについていればよかったんだ。