加太を越える
壁のベルがけたたましく鳴り響いた。
小さめの固い木の机と椅子、そして電話機。部屋の隅の書類棚には、立派な表紙の手順書が収まっている。出入り口の脇の赤白の手旗と正面の大書された時刻表が殺風景な部屋で存在を主張していた。
今の季節に不要なダルマストーブは、部屋の真ん中にしっかりネジで固定されている。わずか四畳半ほどの部屋が私の仕事部屋だ。
ぬるくなった茶で口を湿らせた後、窓の外に目を凝らした。そろそろ仕事の時間だ。
くすんだガラス窓の向こう、幾重にも重なる緑の山々の狭間に淡い煙がたなびいている。私は監視台から身を乗り出し、目を糸のように細めた。
前方の山すそを回りこんで、真っ黒な機関車が躍り出る。ほとんど同時に、煙が塊となって吹き上がる。一瞬たりとも途切れない蒸気が道床を包みこみ、前照燈火が儚げな光を放っていた。
煙をふかしあげ、D51が真っ直ぐ近づいてくる。私はトンネル脇に設けられた監視小屋からそれを確認すると、手元にある幕の巻き上げボタンに右手を添えた。自然とその手に力がこもる。
幕の引き下ろしはタイミングが命だ。列車の最後尾がトンネルに入った瞬間に幕を閉じなければ、排煙がトンネル内に充満してしまう。列車の最後尾にぶつけるように引き下ろすのが理想なのだ。
小屋のすぐそばを汽車が通過した。
同時に、監視台が黒煙に包まれる。今回も機関車は先頭の一輌だけで、後ろに補機を繋いでいなかった。
三年も隧道番を勤めていると手馴れたもので、私はタイミングを誤ることなく隧道幕を閉じた。ほとんど時間をおかずに、幕が下りたことを示す赤ランプが点った。
汽車はトンネルを抜けるときに必ず汽笛を鳴らす。もう幕を上げていいぞという合図だ。
「……そうか」
語りかける相手などいないのに、私は気付かないうちに呟いていた。いつの間にか、独り言がくせになったとみえる。ふとそれに気付いて照れ笑いをうかべた私は、幕の巻上げボタンを押した。
ここには巻き上げモーターの唸りが響いてこないが、上がりきったらランプが緑に切り替わる。それに、隧道の入り口から煤煙が立ち上るからよくわかるし、監視台を一段降りて目視で確認することが規則で決まっていた。
きちんと幕が上がればもう用事はない。あの騒々しいベルが鳴るまで、好きなことをして待機していればいい。
これが隧道番である私の仕事だ。汽車が無事に行ってしまえば、堅い椅子に腰かけて本を読んだり、飯を食ったり、あるいは時計とにらめっこをしたりして、次の列車を待つのだ。
山奥の小さな小屋で、一人ぽつねんと汽車を待つだけの日々。私はそんな時間が嫌いではなかった。
確かに孤独ではあった。が、寂しいとは思わなかった。静かな、優しい孤独だ。
ここには私にとっての小さな再会がいくつもあった。とは言え、再会したと思っているのは私だけだと思うが。
行く人、帰る人。運転士、車掌、そしてデゴイチ。
毎日、私は彼らとの再会を繰り返す。それが孤独の中に見出した、柔らかな楽しみだ。
私は想像するのだ。彼らが過ごしたであろう時を、乗客の表情を。
幕を閉じる度に思う。またあなたたちと会える日を楽しみにしている、と。
上司から手渡された紙切れ一枚で、私の次の異動先は決定してしまっていた。
「関西本線加太隧道番」
それが私の新たな仕事だ。名前くらいは聞いたことがあったが、具体的に何をする役職なのかは知らない。ただ、私の異動先を知った同僚は皆一様に哀れむような目で私を見た。
憧れの国鉄職員になり、もう何年が経つだろうか。五十を過ぎた私はあらかた駅員としての仕事はやりつくしていたように思う。今いる小さな駅の駅員として、国鉄職員の仕事を終えるのだと漠然と想像していただけに、突然の辞令に驚きを隠せなかったのもまた事実だった。
「人気のない山の中で、ひたすらデゴイチが来るのを待つだけの仕事ですよ。トンネル側の監視小屋で一人寂しく暮らすんですわ。あんな辺鄙なところ、誰も行きたがりやしません」
「汽車がトンネルに入った瞬間に、入り口の幕をおろすんですわ。すると、列車の通過した後ろが真空状態になります。ほしたらな、その真空のところに煤煙が流れ込むんですわ。そうせんとあんた、トンネルん中の煙が機関車にまとわりつくんですわ。運転台て、パアパアですやろ、何人も窒息してるっちゅうことですわ」
全国に数多くある急勾配。しかし、急勾配の隧道というのは珍しい。この加太隧道は、全国でも珍しいところだという。
私はほうほう、と頷きながら話を聞いた。何年も働いていて、隧道番や隧道幕のことをまるで知らなかったことには恥じ入ったが、同僚はそんな私の心中にはお構いなしだ。かえってそれが有難かった。
「けどもやさ、なんでいきなりそないな仕事、回ってきたんやろうなぁ……」
同僚は皆、首を傾げた。だが、何となくだが、なぜ私に白羽の矢が立ったのか、分かった気がした。
定年間際ということもあるが、私が孤独な老人だったからだろう。
妻には病で先立たれ、二人の子供もすでに独立している。息子は地元の商社に就職し、娘は小料理屋の料理人と結婚した。私は職場の駅近くに狭い部屋を借り、そこから毎日通っているのだ。
そんな私は、山の中で一人隧道番をするのにはもってこいの人間だったのだ。
昔は手動で巻き上げていた幕も電化され、私のような非力な者でも難なく幕の上げ下ろしができるようになっているという。さして出世したわけでもなく、平々凡々な日常を過ごしていた私が選ばれるのも、道理のような気がした。
「なんやったら、今度の休みに見に行ってみはったらどないですか。亀山の方に知り合いおるんで、連絡つけときますさかい」
私は同僚の厚意を素直に受け取り、見学がてら、そのトンネルを見に行こうと決めた。
快晴、とまではいかないものの、日差しは心地よい。時折、ちぎれ飛ぶ雲が日を隠し、足元に影がさしたが、その肌寒さもまた、これから訪れようとしている春の陽気を一層際立たせるようで、思わず顔が綻んだ。
「お話は伺ってます。どうぞ乗ってください」
亀山駅で停車しているデゴイチに、私は乗り込んだ。
蒸気機関車は人間が作り出した人工物の中で、最も生き物に近い構造をしていると耳にしたことがある。本当にその通りだ、と私は思った。
力強く、生命の叫びのように蒸気をふかす姿は活力にあふれ、石炭を腹の中で燃やしながら進んでいく姿を見るにつけ、血が通った獣を見ている心地がしていた。そして今、その体内で私は、心臓の脈動のごとき振動を感じている。なんとも不思議な心地だ。
出発時刻になった。
デゴイチは助走をつける走者のようにゆっくりと一歩を踏み出した。
この関西線本は単線だ。本線と立派な肩書きがついてはいても、たった一本のレールしかない。
通行票を肩にかけた助役が、私にも敬礼で送ってくれた。ちらほらと見送り客が私の眼下を通り過ぎて行く。
私は窓を開け、ほんの少し顔を出してみた。煙の匂いと青臭い田畑のにおいが混じり合い、なくしかけていた若かりし頃の冒険心がくすぐられた。短い行程とはいえ、やはり旅はいい。それに、駅務ばかりを渡り歩いた私にとって、機関車に便乗する機会など初めてのことだ。
便乗者の私が景色に見とれている間も、機関助手は投炭作業に没頭していた。
狭い作業場所に足を踏ん張り、汗をポタポタ垂らして石炭を投入したかとおもえば、圧力ゲージと睨み合わせでボイラーに水を注入する。そのとたん、ゲージの針がじわじわと下がっていった。
わずか一メートルほどしかない軌道幅だ。列車の速度が上がると右に左に鼻先を躍らせるものだから、素人の私などは立っているだけで精一杯だ。
それでも、黒い大きな生き物はぐんぐんと速度を増していった。景色が丁度いい具合に流れていく。
この汽車は亀山を発ち、加茂へと向かう。その途中、加太駅と拓植駅の間に加太トンネルはある。
関市と亀山市の間にある峠が加太越。神君伊賀越えの逸話が残っている場所で、どうも徳川家康が本能寺の変で窮地に陥った際、この峠を越えていったという。のどやかな畑と山の稜線を臨みつつ、このあたりを日本の名将が駆けて行ったのかと思いを巡らせた。
加太駅に到着し、待ち受けていた助役にタブレットを渡す。そこでまた別のタブレットを受け取るまで、少し待たされた。
しばしの停車後、再び汽車は走り始めた。この沿線の駅のホームはとても長い。横目に見える駅舎はこじんまりとしたもので、どこか哀愁が漂っていて、見知らぬ土地にやってきたのだという思いをより一層強くさせた。
しばらくして、二十五パーミル勾配の直線区間に差し掛かった。
坂がゆるい間は息継ぎを感じさせないように駆け上がったのに、勾配がきつくなると極端に間延びしてしまう。
ボッ、ボッ、ボッ……、と一息ごとに気合いを籠めている。まるで機関車が歯軋りしているように聞こえた。
線路の両脇には田畑、名もない白い花が風にそよいでいる。涼しげな風景とは裏腹に、デゴイチは必死だ。ともすれば空転してしまう動輪に砂を吹き付け、これ以上ないくらい濃い煙を盛大に吐きながら、必死に登る。
大きな弧を描くカーブを曲がる。ぐぐぐ、と体もカーブにつられ傾く感覚がした。釜の中で燃え盛る劫火は、懸命に湯を沸かし続けている。勢い余って圧力が危険値に達した。汽車は安全弁を吹かせながら、限度いっぱいの圧力を整える。
一・五キロほど行ったところだろうか、スイッチバック式の中在家信号場に到着した。勾配を上がりながら、本線から退避線に乗り入れて停車した。
機関助手がタブレットを持って線路に下り、本線に備え付けられた横木にそれを引っ掛けた。そして何歩も後ずさりしてそのまま立ちつくす。汗で濡れた助手の背中にシャツが張り付き、じっとりとその身に纏わりついていた。
やがて、本線を上り列車が通過していった。
線路近くに延びた曲がり棒に自分たちが持ってきたタブレットを掛け、横木のぶら下げたものを器用に掬い取って行く。彼らのルーチンを見届けながら、その流れるような動作に私はほぅと息を吐いた。普通の乗客であれば、こんなところに見向きもしないのであろう。が、彼らの仕事と自身の今までやってきた仕事が遠い地で交差している気がして、何とも言えぬ心地になる。
対向列車の運転手が手を振った。単なる指さし呼称だったのだろうが、私に合図をしてくれている風にも思え、私も彼に手を振り返した。
助手がタブレットを機関士に渡すと、機関士は、そこにあいた穴を指差して声をあげた。
「通票、さんかく」
「つうひょう、さんかくぅ」
運転士の言ったことを鸚鵡返しに助手が言う。
「後退するぅ。後部確認!」
「後退するぅ。……後部オーライ」
後退の意志を伝えられた助手は、デッキで大きく身をのり出した。ともすればデッキから落ちそうなほどだ。
「後部オーライ……、発車」
後退開始の汽笛とともに、ブレーキが緩む音がした。
列車は、待避線をずいぶん退がって停止した。長めの汽笛を引きながら、汽車は発車の合図をした。
出発する時は、いくらか下りになっている坂を利用して加速し、一気に本線へと躍り出るのだ。
信号番が線路を切り替える。合図を見て、運転手が汽車を発進させる。加減弁を手前に引き付けて速度をつける。
ババババ、と勢い余って空転しながらも、列車はみるまに速度を上げた。運転士は、忙しくリーバーをぐるぐる廻して速度を上げるのに必死だ。
本線に戻ったデゴイチは、更なる勾配が始まったことと、山肌にそってうねった路線に閉口していることだろう。まだまだ一仕事待っている。立ち止まっている暇などないのだ。
加太トンネルが見えてきた。普通のトンネルと違うのは、入り口に鳥居のような門を備えていることだ。煉瓦と石で造られたこのトンネルの全長は九二九・六メートルと長い。刻み込まれた「加太」の力強い文字が、遠目からでもよく分かった。
木々の茂った山中にぽっかりと空いたその穴の向こうは何も見えない。私はこれから山に喰われてしまうのではないかという恐怖さえ感じた。
しかし、窓枠にそっと触れると、そんな恐怖の念はすっかり消え失せてしまった。私は彼に守られている。共に旅をしている同志なのだと安堵する。
トンネルの入口、門の上に幕のついた建物が付随している。これが隧道幕だ。トンネル脇ににある監視小屋から、隧道番が顔を覗かせた。
白旗をゆっくり振りながら片手を上げて挨拶をしている。運転士と隧道番、立場は違えども、乗客の安全を守っていることについて、連帯感があるのだろう。
いよいよトンネルに突入する。排煙が車内に入ってこないよう、私は窓を固く閉じた。できれば窓を開けたまま、隧道幕が降りる瞬間を見たかったが、そういうわけにもいかない。
汽車は一声大きく唸ると、長いトンネルへと突入した。
気圧の変化のためか、窓はガタリと大きな音を立て、震えた。
うっかりしていたのだが、運転台の後部は扉などない。しかし、うすくたなびく程度にしか煤煙は運転台に入ってこなかった。
黒い窓に、頬杖をついた自分の老けた顔が映り込む。後方へ流れ行く煙は見えなかった。
こんな時、よく過去の記憶がまざまざと蘇る。走馬灯、ではないが、いつまでも続くような漆黒に時間の感覚が麻痺してしまうのかもしれない。
一人になってからの私は、淡々と業務をこなすだけの人間になってしまっていた。朝起き、出勤し、切符を切り、交代の時間になれば帰宅する。そしてまた朝を待つ。空っぽの会釈で茫然と乗客たちを見送った。旅の無事を祈るでもなく、安全な汽車の運行を願うわけでもない。からくり人形のように同じ動作を繰り返すことに慣れてしまっていたのかもしれない。
久しぶりに汽車に乗り、その息吹を感じ、私の中の何かが変わっていくのを腹の底から感じていた。
ああ、私は生きているのだ。この汽車も、行き交う人々も、みんなみんな。
出会い、別れ、そしてまた出会う。中には再び相見える人々もいるだろうし、もう二度と会うことのない人もいるだろう。
一つ一つの出会いを、なんと疎かにしてきたことだろうか。無意識とはいえ、自身の孤独を理由に縁から目を背けていたのかもしれない。
あの日、私はここで、このトンネルで、昔の私にもう一度出会った。過ぎ去りし日の心を思い出した瞬間だった。
すれ違うだけの出会いだったとしても、かけがえのないものなのだ。それは昔、駅員になりたいと夢見ていた私が持っていた思いだった。
もうすぐトンネルを抜けるだろう。私は、私と再会した加太で、鉄道職員の人生を終えよう、そう決意したのだった。
昭和四十七年九月三十日
今日、私は隧道番としての役目を終えた。蒸気機関車は次々とその運行本数を減らしていき、ついにこの加太を通るデゴイチも最後の一便を残すのみとなった。
デゴイチが消えてしまえば、隧道幕を操作する私の仕事もなくなる。この後はどうしようか、特に考えていない。言ってしまえば、どうにだってなる。何だってできるような気さえするのだ。
山鳥のさえずりが聞こえる。木々の葉ずれの音が聞こえる。そして、自分の息遣いが聞こえる。
騒々しい人間の営みさえ、自然は興味なさそうに呑みこんで素知らぬ貌をする。
小さく隧道を抜けた合図が鳴ったのに、山鳥の啼く声にかき消されてしまった。
この小屋であの咆哮を聞くのも、これが最後なのだと思うと、目頭が熱くなった。
力強いディーゼル車は、鋼鉄の馬が喘いで登った坂を軽快に駆け上がる。隧道の突入する一瞬、入り口に鉄骨で組まれた櫓があることに気付く乗客などあるまい。
長さが千メートルに満たないトンネルだが、漏れる灯りで照らされるのは真っ黒に煤けた石積み。
窓ガラスに映りこんだ私は、それとは対照的に真っ白な頭になっている。そして、誰にともなく呟いていた。
「あぁ……またいつか」
人知れぬ再会を日々積み重ね、私はこうして最後の日を迎える。
彼らと再び見える日は来るだろうか。いや……いつかきっとどこかで、知らぬ内にすれ違うかもしれない。そうであればいい、私は思った。