後編
§5:今。無防備な
僕の家には布団がなく大体はちゃぶ台にかけてあるこたつを布団代わりにして寝ている。そっちの方が楽であるし、こんな所狭しの状態であれば最早布団など邪魔臭いだけの存在に変わりなかった。
夏はコタツを片付け、タオルケットで適当に寝ていればいいわけだし。
しかし、冬にもなるとそうは言っていられない。目を覚ました時にはあまりの寒さに顔面が冷気によって死人みたいに冷えているということはいくらでもあったし、ましてや何かしらの妖に襲われていたりとそういうのがおおかった。
しかし今はそういうことも滅多に起きない。
ふと目を開けると、目の前には暖かそうな八重がすやすやと眠っていた。今にも唇が接触しそうな近さでスウスウ寝息を立てて寝ている彼女と暮らすのを振り返ると二年になる。
八重の頬を撫でるように触れると温いような感じの熱を帯びていた。だがこれは僕だけが感じるものであり、きっと他人から見たら僕が一人何かをしているようにしか見えないのだろう。
心臓がドキドキと高鳴った。頬から火が出そうな勢いで顔を赤くする。
前がはだけ、淫らに胸元を晒している彼女は割と胸が大きかった。
このまま唇を近づけたらきっと気持ちいいのだろうか。年頃の男子を目の前に無防備な彼女は何を考えているのだろうか。
「……はぁ」
今日だけだ。今日だけ、許してあげよう。
そう言い聞かせながら僕は彼女の体にコタツの布団をかけ、僕も背を向けて寝ることにした。
§6:寝物語に一つ、昔話を
そういえば僕がなぜ留年した理由を言っていなかった気がした。
前にも行った通り僕は一度高校を留年している。
主な理由として勉強ができていなかったから。とか出席日数が足りなかったから。とか理由は様々ではあるが、大体の留年をするというのはその理由が建前で、過程がそれぞれ違う。
手嶋も実は留年ギリギリだったりしていたが、進級ができたあたり、僕より世渡り上手なのだろう。
去年の秋ごろだったかなと思う。八重が現れてからは毎日が平穏になった気がする。
平穏になった気がするというのは簡単にそういう意味だ。僕が今まで生きてきた日常が非日常になり、僕が普通の人間として生活できている。
「実は春には私の匂いをたっぷりつけているよの。こう、犬の臭い付けのように」
「するなよ?」
「え?」
「するなよ?」
想像しただけでもゾッとする。美人の八百三十五歳が電柱に排泄する姿なんて。
その想像が連鎖したのか彼女も顔を赤くして両手を全力で振るう。
「いやいやそんなことはしないよの! ハルは私を何者だとおもっているよのさ!」
「妖」
「あー……脳天唐竹割りをその身に叩き込もうとするかの」
野太刀を取り出した時の彼女の顔は般若だった。
もちろん全力で謝罪をした。
簡単に言えば僕の体には狗神の臭いをつけて、他の妖が僕に近寄らないようにしているらしいのだ。つまり、彼女は僕の魔除けのようなものだった。
「でも私の臭いはすぐに剥がれてしまうからの。学校の帰りくらいは気をつけて帰ることだの」
「善処します」
そう言って僕は学校の帰りだけ気をつけて帰ることにしていた。そして彼女は妖に遭遇しない方法などを詳しく教えてくれた。多少帰り道が遠くなってしまうが、それでも妖に会わずに済むのならばそっちの選択肢など選ばないわけがなかった。
「そういえば今日は何か食べたいといっていたな」
学校に行く前に八重は今こたつに入っていた時の事。
「春。今日は何か食べたいのだが」
「何かってなにを?」
じゅるりと口からよだれが垂れてきて赤い瞳を僕に向けてくる。そしてニヤリと笑い、犬特有の鋭い犬歯がチラリと見えると一言言った。
「肉」
思わず吹き出した。
「……犬だなぁ」
そう、彼女は曲がりなりにも犬であり、狗神になってから今まで食事をしたことが両手の指を五回程往復した程度しかないらしく、僕と一緒に過ごし始めてから毎日食べている僕の姿を見ていたら私も食べたいと思ったらしい。
まぁ、確かに僕だけご飯を食べていて八重はじっと僕の姿をみているのはどうも居心地が悪い。
「でも肉か……」
肉といっても、いろんな肉があるわけで。確か犬は味付けが濃いといけないとか、色々あった気がしたが、一応元人間なのだからそこらへんは気にすることじゃないよな。
……まぁ、ソーセージとか食べるかな。と僕はスーパーでソーセージを買って帰ることにした。
「ただいまー」
「んお、おかえりだの」
リビングからトテトテと足音を鳴らしながらお出迎えをしてくると突如止まりクンクンと臭いを嗅いだ。すると彼女の耳がぴんっと上に上がると飛びかかってきた。僕は彼女を受け止められず後ろに倒れた。
「肉! 肉の匂いがする! 春買ってきたの!?」
お尻を右左に振りながら僕に体を密着してきた。顔が火照る。
「わかった!わかったから離れてくれ!」
「好きじゃ! 春! 大好き!」
「肉一つで好き好き言うなー!」
離れてくれるまでに五分もかかった。
「簡単にだけど、はいどうぞ」
小さい冷蔵庫の中にピーマンが入っていたため、そのピーマンとソーセージを刻んで塩胡椒で炒めるという超手抜き料理を出した。
「おぉー! 緑に生える赤! そしてこの綺麗な盛り付け……春は料理が上手だの!」
「よせよ恥ずかしい」
生きて行くには必要な技術だった。インスタントラーメンとかを食べていけばいいのだが、そう考えるとインスタントラーメン三食食べるより、食材を買って調理した方が安上がりなのだと思ったからである。
「……食べないのか?」
「犬でも猫舌での。ある程度冷めないと口の中が火傷するからの」
「……」
「なんだ。犬が猫舌はおかしいのかの? むしろ犬と猫は反対の存在だから犬舌があるから熱いのは平気だと思っていたかの? 残念だが犬と猫は反対の存在ではない上に、そんな俗説を信じる奴がたわけやの」
じーっと湯気が立っている料理をじっと見ている。その光景にクスリと笑った僕は小皿と箸を持ってきて八重に渡した。
「息を吐いて冷やして食べればいいだろう」
「……妙案だな」
いや、普通だよ。人として。
八重が箸を握りいただきますと挨拶をする。
「ふー……ふー……あむ」
一口の大きさで切ったウィンナーを冷やしてから口に入れた八重は全身がビクッと震えた。
「ど、どうした? 辛かったか?」
「うまい」
なんじゃこれは。と涙目で感動をしている彼女はもう一つウィンナーを口に頬張るとバタバタと暴れ、その旨味を堪能していた。
「なんじゃこれは! うますぎるではないかの!」
「いや、近くで買ったスーパーの安いソーセージだし……」
「すぅぱぁとはなんだ! うまいのか!」
「いや食うなよ……スーパーというのは食材とか売ってる……そうだな商店みたいなところ」
「今時の小童は難しい言葉を使うの」
ムムムと悩みながらまた一口ウィンナーを突き刺し口に放り込む。
「こら、ピーマンも食べなさい」
「んえ? ぴいまん?」
「この野菜も食べないと僕がこれしか食べれないでしょうに」
うっ、たしかにそうだの。と耳を折り曲げてピーマンをツンツンと突く。
その姿はまるで子供だ。まるで長く生きた妖のようには全く見えない。
「じゃあピーマンを食べたらウィンナーを食べてもいいぞ」
「本当かの!?」
爛々と光る笑顔を僕に見せると、ピーマンを突き刺し口に入れる。
「……案外悪くないの」
「だろ?」
「むしろこの苦味がちょうどよくういんなーの旨味を引き立てて、また一口一口と入れたくなるではないか。ぴいまんもすごいの!」
一口、また一口と食べていくためにウィンナーとピーマンの炒め物は直ぐに無くなった。腹に入ったものも半分もいってないはずだ。
しかし、僕のお腹は満腹だった。
「うまかった……次も作ってくれるかの?」
「……今度は多めに作るよ」
「ありがとう。春、私は其方のことが好きじゃ」
「どういたしまして」
二人で食べるのも悪くはないと思った。
翌日。僕は学校に向かっていた。
いつもの日常。いつもの時間に僕は人混みに紛れて交差点で待たされていた。僕のいつもの時間は大体ギリギリ遅刻にならない程度の時間だ。ほかの人に迷惑にならないためでもあるが何より同じ学校の生徒に僕がいきなりへんな行動を起こしへんな噂が流れないようにするためだった。
「遅いなぁ」
僕がぼんやりと変わらない赤信号を眺めているとふと鼻腔を何かが通った。それはどんな臭いだったのか覚えていない。ただ懐かしいような気分が悪くなるようなそんな臭いだった。
「……?」
「なんだ?」
「へんな臭い」
それは周りの人たちも気づいたようだ。会社員も、スーツを着ている人も、私服の人も大人も子供も、全て。
僕もその鼻を通る臭いを嗅ぐ。
腐卵の臭い。
背中に痛みが走った。その痛みな針を刺すような痛みは腰のあたりにあったものだ。しかしその痛みは次々奥へ奥へと入っていき、胸の心臓の近くまで迫った。
「……え?」
手を背中に回すとぬるりと水に濡れている。
水ではなかった。
赤く、赤く、そしてどこまでも赤い血だった。
痛みに意識が揺らぐ。思わず膝をつき、大地に体を預けた。その時僕の周りにいた人達は全て僕を見ると、それぞれがそれぞれの反応をしていた。
僕を助けようとする者。叫び逃げ出す者。携帯で救急車を呼ぶ者。
「逃げ……て」
僕は口から溢れる血液と一緒に周りの人に伝えた。
「はい! ……で、間違っていま……!早く来……い!」
耳が聞こえない。視界が白くなっていく。だんだん意識を失っていく中、阿鼻叫喚の声が聞こえたが僕にはもうどうする事もなく、ただその場で生き絶えるまで倒れるしかなかった。
§7:今。
柔らかい感触が顔全体に当たった。顔全体に当たるということは息ができるわけがなく、それこそ最初は天国だったが、次第に地獄へと落ちていく。
思わず空気の確保をしようとして手で空気を遮るものを押した。それはふにゃ。と柔らかく、それでいてみずみずしいものだ。
「……んっ」
そしてその柔らかいものを押し続けていると甘い吐息が頭の方角から聞こえた。僕の荒い息がその柔らかい物の表面にあたりじっとりと濡れていた。
「あっ、……やぁ」
八重が僕の頭を抱えて眠っていた。
背を向けて寝たはずがなぜこうなっているんだと思考を回転させる。
まぁ、大体が八重が起きて僕の体を動かして抱きついて寝た……が正しいのだろう。
しかしそれでは僕に与えられたものは死あるのみだ。
どうにかこの状況を打破しようと考えるが、曲がりなりにもこいつは妖……か弱い少女に見えて比類なき怪力の持ち主。
「八重、あとでステーキでも食べるか?」
「すてぇき!?」
ただし食べ物にはめっぽう弱い。ヘッドロックされていた僕の頭が一気に解放されるとひんやりとした冬の空気に晒された。
「あ、おはよう。ハル」
「おはよう。僕の頭を抱えて寝るものだから死ぬかと思ったよ」
「くふっ、すまんの」
赤い目を片目だけ開けつつ細めて犬耳を手で撫でて寝癖を整えている。
そんな可愛い顔をされて謝られたら何も言えないではないか。
ふと、前のことを思い出した。
「なぁ、僕って一度死にかけてたよな」
「んえ? あー、うん。去年の秋頃だったかの……たしかあの時のことじゃろ?」
そう、腐卵の匂いがして僕が刺されたあの事件。
「実はよくわかってないんだけど、どうなったのか教えてくれる?」
「かまわぬが?」
意外とあっさりだな。
「ところで、ハルよ」
「……ん?」
「先程、其方言っていたな? すてぇき食べるかって」
いつ食えるかの? という顔を僕にしてきた。
「そうだなぁ、とりあえず僕の話の方を先にしてもらっていいかな?」
たしかああなっていたっけと八重が思い出している途中の八重の姿を見ながら僕はふと外を見る。
外は白い雨が降り出していた。
§8:過去の妖。
意識が戻ると僕は病院にいた。
いや、眠っていたようだ。口の周りには酸素マスクが付いていて、右側には点滴袋が見えた。
「……っ」
声が出なかった。どうやって声を出すのか忘れたくらいの感覚に焦った。
とりあえず僕はどうなったのか知りたかった。死んでいるのか。死んでいないのか。
動かず、喋れない状態の僕の居室に看護師が入ってくる。
「あ……」
「あ、目が覚めましたか?」
看護師が僕に聞いてきた。首も固まって動かないようだ。目を一度閉じては開いた。
「待っててね。すぐにドクター呼ぶからね」
「あ、……く」
ナースコールを押すと僕が目を覚ましたことをナースセンターに伝えた看護師が血圧と体温を測り終わった時にドクターが部屋に入ってきた。
「大丈夫かい?」
一回瞬きした。
「君は朝に通り魔に襲われたらしい。背中から刃物が突き刺されたような跡があり、片方の肺が傷ついていたよ。でも手術は成功したから安心して」
「……で…。あ……す」
「今は落ち着いて眠るといい。全身麻酔で体がまだうまく動かないのだろう。明日くらいになれば麻酔も抜けるから」
違うんです。あれは、通り魔じゃない。
思いだすあの臭い。周りの人たちも気づいたくらいの腐卵臭。
あれは、妖だ。
誰でもいい、誰か彼女に伝えてくれ。震える手を必死に伸ばしながら彼女を呼んでくれと頼む。しかしその震える手を握り返したのは看護師だった。
ふと手が止まった。
「……は」
彼女も妖であり、人には見えない。
何もできなかった。いや、できるのは僕だけだった。
絶望しかない。
とにかく麻酔のせいで何もわからない。ぼんやりとしていてなにかを考えてもそれは無意味だった。せっかく目を開けたのにすぐに眠くなった。意識を取り戻すために今はゆっくり微睡みの中に意識を手放すしかできなかった。
目を覚ましたのは夕方だった。
昨日なのかどうなのか。時間がわからない僕を見ていたのは看護師だった。
「目を覚まされましたか?」
「あ、僕は」
声が出た。
「ここに運ばれて四日になりますよ」
「よっか……?」
「君は?」
「つど……いはる」
いくつかの質問に答えると看護師はまたきますね。といって部屋から出た。
体は動いた。右手も、左手も、足も動いた。ただ背中に激痛が走った。
そうか、僕は刺されたんだ。
彼女を思い出す。白い白衣に濃い紫のプリーツスカートに、短い赤い緋袴。カランコロンと鳴らしながら歩くその姿。
「……八重」
そうだ。八重を探さなきゃ。
もう四日になるんだ。八重は僕を待っている。
僕は突然いなくなった、ずっと一緒にいようって言ったのに。
「八重……」
彼女を想い、外を見た。
早く会いたいと思いを馳せるが、身体は動かなかった。痛みが波のように襲いかかり目を強く閉じて引くのを耐えてから枕に頭を預け、深呼吸をする。
違和感が生まれた。
「……何故僕は襲われたんだろうか」
そう、僕は八重の言われた通り妖のいない遠回りの道を選んでいた。その日も八重の匂いをつけて登校したはずだ。それなのに何故妖に襲われたのだろうか。
「匂い」
腐卵の臭いがする妖。妖なのに腐卵の臭いがしない妖なんているのだろうか。いや、いるではないか。
「狙っていたのは僕じゃないとしたら?」
狙っていたのは僕じゃない……?
狙っていたのは僕じゃないなら何を目的で狙っていた……?
狙っていたのは僕じゃないなら誰を狙った……?
「……八重!」
痛みなんかどうでもよかった。右腕に刺さっていた点滴も引き抜く。床に足をつけると背中が痛む。
だが、いかなければならなかった。
呼び止めようとする看護師も全て無視をし、痛む背中を抑えながら鍵がついていない自転車に跨り走った。
§8:私の場合。八百三十五年の孤独
彼は帰ってこなかった。私はむすっとしていた。他でもない彼のせいだ。
布団を机に掛けただけのこたつに足を突っ込みじっとしている。
「遅い」
もうどれほど待たされただろうか。おそらく外の日は四度地に落ちたくらいだろうか。彼のいない部屋は日が昇ってもずっと暗く、空は赤く染まったとしても閑散としていた。
これじゃあ、神社にいた時と全く変わらないじゃないか、と私は机に歯を立てる。
「……お腹空いたなぁ」
八百三十五年だ。八百三十五年もずっと私は一人で過ごしてきたのだ。
あの神社で、暖かな日の光と桜の道を歩み、強い日差しを遮る緑の傘の下で涼み、燃え上がる山火事のような光景に心を打たれ、冷たく静かな雪を眺めてきた。
その素晴らしい世界に、たった一人の世界に慣れていたはずなのに……。
震える肩を両手で抑えた。
「寂しいのぅ」
目の前が涙でいっぱいになる。
ここは嫌だ……ここは寒い。下唇をきゅっと噛み締めた。
「寂しいよ……春」
いつになったら帰ってくるのだ。春や。寂しさで私は死んでしまうがの。
コンコンと扉が叩かれた。
「……」
私は一瞬だけ喜びに染まったが、ハッとしてすぐに元の気持ちに戻る。ふつう彼なら鍵を開けて入ってくるのだ。だから扉を叩く者は決まって彼じゃない。
「なんだの、帰ってきたのかと思ったがの……」
残念なことに今はこの部屋の主人はおらんよ。とやや不機嫌に私は思った。
しかしまたコンコンと扉が叩かれる。
「……」
コンコン。
「何処かに去ね」
言霊を使った。彼には教えてはおらぬが、一応私はこれでも妖なのだ。生者の一人や二人の意識を操作するくらいなら造作も……。
コンコン。
「……くふ、つまりあれは生者ではおらぬの」
嘲笑する。身嗜みを整え、野太刀を手に取る。野太刀の太鼓金と、鍔には革製の下げ緒ではなく、野太刀本体についている紐で封印されている。
コンコン。
「急かすなや」
扉に手をかけ、扉を開くと同時に扉の向こうで起きていた事象を確認した。
濃厚な腐卵の臭い。それは一体の妖が出せるような濃度ではない。だいぶ昔の、妖が練り歩く時の濃度を感じた。
「……」
しかし目の前にいたのは黒髪の小さな男児だった。
首元に白い毛皮がついた赤く分厚い生地の上着。ヨレヨレで被りの服。そして冬なのにもかかわらず半ズボン。そして黒い脹脛まで履いた靴。
「……どなたじゃの? 見たところ妖にしか見えぬが」
何も言わず、ただ俯いたままだった。
「目も見ぬかの。妖が」
「……ねーねー?」
ぞくりと走る。思わず後ろに跳躍し距離をとった。
私が? 退いた?
腐卵の臭いが襲いかかる。まるで煙のように揺れる彼の手には青い炎がもうもうと立っていた。
そして距離をとった私をその目が見つめていた。赤く燃え上がる瞳。切れ長の如何にもいけ好かない目だった。
「……は、九尾かの」
狐の分際でげに誠、いろんなものを騙くらかして食いやがって。
「ねーねー」
「うっとおしぃ……のぅ!」
私は吠え、其奴に向かって野太刀で殴りかかった。
§9:今。
え、そんなことあったの? と僕は唖然としていた。
「知らなかったかの? 其方が家に泊まっている間、私は一人寂しくいたよの」
いや、だって教えてくれなかった、というか僕聞いていなかったし……。
そこでふと、なんとなく理解をした。
「あー……それに関しては本当ごめんなさい」
その時に聞けばよかったのだろう。
じっとこちらを見ていた八重はコタツの下で僕の足を撫でるように彼女の足が動いた。
「いいだの。背中に一つ大きな穴を開けたよの? 仕方ないことよの」
他人事のように、八重は口を閉じた。
僕が淹れたお茶をずずず、と飲んでぷへぇと凍りついた身体が溶ける八重が僕が入院している時の家のことを教えてくれた。
だからあの時家がめちゃくちゃだったのはそれが理由だったのね。
と僕はあはは、と軽く笑った。
「でも、練り歩く妖怪ってなんなんだ?」
「んえ? そりゃあれよの」
こう、雲があって、その上にいろんな妖が歩いているやつよの。とジェスチャーで教えようとする。ふむ。わからない。
「……練り歩く? 百鬼夜行とか、魑魅魍魎のこと?」
「そうじゃが、なんか違うの」
お互いに疑問符が宙をまった。
「まぁ、でも其奴はそれに近かった。まず普通妖を喰らうことを見たことも聞いたこともなかったしの。それに妖同時は基本不干渉で、お互いがお互いを認知する程度のものだったのだが、あれだけは違うたし……」
……其奴とは……。
じっとしていた僕をニヤニヤと笑いながら八重は見ていた。
「……んえ? 嫉妬したのかえ?」
「別に、古傷が痛んだだけ」
赤い瞳が光った。
「ほほーん? どれ、見せてみよ」
「いいよ! 大丈夫だから」
そんなこと言うな。もう夜の営みをする仲ではないかの。いやしてないし、しないし。
僕らは擽り合うように重なった。
§10:過去、僕は走る。
正直な話、手術着一枚で自転車に乗っているのは恥ずかしかった。
四日もずっと寝たきりだったから身体がフラフラだった。
体力も落ち、胃の中もすっからかんの僕で何ができるかわからなかった。
「八重……」
病院から自宅はそこまで遠くはない。実際一度外に出れば帰る道はすぐに分かり、だいたい自転車で十分もしなかった。
自転車を二度も盗み、背中を刺された僕はもう普通の人じゃないだろう。
「着いた……」
僕のアパートに着くと自転車を乗り捨て階段を駆け上がる。
鍵なんかなかった。呼び鈴を押せばすぐに僕だとわかってくれる彼女がいるから。
「八重!」
返事がなかった。
「八重!」
呼び鈴を鳴らし、僕は肩で息を飲み込んだ。
しかし彼女は出てこない。しんと僕の家は静かだった。
鍵はかかっているが強引にあげようとドアノブに手をかける、扉は開いた。
ぞくりとした。ひんやりと冷たいそれはきっとドアノブに孕む冷たさではない。
「……っ!」
凄まじい濃度の腐卵の臭い。その空気は黒い瘴気へと変質しその場を漂っていた。
「……おお、春かの」
「八重……!」
彼女の声だ。僕と暮らしている彼女だ。
黒い瘴気を掻き分けながら僕はその声がする方へと向かった。
「八……」
そこにいた彼女は、八重は、無事ではなかった。
「くふ、しくじったの……」
首元は白い毛皮に野太刀の鞘は焦げ付き、八重の髪は焼かれ、八重の服は右半分が燃え尽き、そして
八重の右半分が黒炭へと化していた。
あまりの事に僕は目を疑い、恐怖し、涙が溢れた。死んでしまう。彼女が。
「八重! ……誰がこんなことを!」
「春、どこに行ってただの。私は、ずっと寂しかったんじゃの」
か弱く啼くようなその声は何時もの八重の声ではない。
弱く、一人の少女だ。駆け寄り触れようとしたが、何に触れていいのかわからない僕はその場で手が宙を舞うくらいだった。
「そんなこと言ってる暇はないだろう! とりあえずここを出よう」
「いいや、春。其方はここから逃げよ」
八重の赤い瞳は僕を見つめた。
「いいか? あの輩は其方が見ていいものじゃあない。今すぐにでもここから逃げるよの」
ぐぐぐ、と犇めく体に鞭打つように八重は起き上がる。野太刀を掴むとそれを杖代わりに立った。
「幸い黒炭になっても骨は動くでの。妖は見た目より頑丈なよの。悲しい事だが……」
「だからといって」
あの模倣の妖をも一撃で倒す彼女をここまで追い込む奴がいる?
「春。早く去ね」
「やだ……」
トン。と足音が聞こえた。
土足で人の家を上り込み、人の同居人に怪我を合わせた奴だ。トントンと次第に音が大きくなっていく。
僕は近くにあったカッターナイフを手にした。
現れたらすぐに刺す。
そう心の中で何度も何度も反芻する。
「春!」
そして姿が現れらと同時に僕はカッターナイフをしっかりと握りそいつに突き刺した。
反応がなかった。
ただ、呆然に壁にぶつかったかのように何も起きなかった。
「……え?」
それは小さい子どもだった。ファーがついた赤いジャンバーに、大人のサイズの黒いシャツ。そして短パンで……。
影がいくつもあった。
「お前……誰だ」
「ねーねー?」
それと同時に僕は一気に外へ飛ばされた。
一瞬のことすぎて何もわからない。ただ、腹部に感じる痛みと、まだ穴が空いている背中の傷が開いたことはわかった。
「たわけ! 手を出すなと言うただの」
僕を抱え、跳躍していた。
「彼奴は妖だ! しかも、九つの尾をもつ狐だよの!」
「いや、違う。あれは妖じゃない」
んえ? と八重が聞く。
「神社に、八重! 神社に降りてくれ!」
僕は彼女に神社に降りることを指示した。
神社に降りると僕は背中の傷を確認した。まだ出血しただけで酷くない。縫った箇所が開いただけだ。対する八重の体は右腕の骨が露わになっていた。見るに耐え難く目を逸らしてしまった。
「妖じゃない。というなら彼奴は何だの!」
八重が僕に問いかける。
「今まで妖を見てきたからわかる。僕はあれを知っている」
「春。何を言って」
「八重、あいつは人間だ」
八重は目を見開いた。
「あいつは僕と同じ、八重達が見える奴なんだ」
全ての謎が合致した気がした。
妖が出ない道なのに、彼が出た理由。僕が狙われた理由。八重が襲われた理由。それらは全て彼が人間であり、僕と同じ臭いがわかり、そして八重が襲われる理由がつながる。
「でも、彼奴からは腐卵の臭いが……」
「退治して食っていたんだ」
そう、妖退治。
八重も妖であり、僕も八重の匂いをつけていた。つまり僕も妖だと間違われた。
「だから僕たちが狙われた」
「なら奴をどうやって」
相手は人。僕が殺せば僕は罪に問われる上に身体的な能力で確実に殺される上に、彼女は妖退治相手なら分が悪い。
勝利の鍵がそこにはなかった。
「だけど、どうにかしなきゃ僕たちはやられるだけだ」
「……」
「考えろ、奴を止める最善の方法」
頭をぐしゃぐしゃと掻きむしりながら考える。
「一つだけ……ある」
八重は顔を下げて僕に言った。その赤い瞳は俯いていた。
「だが、一か八かだの。それが失敗すれば私達が死に、それが何かによっては彼奴が死ぬ話だがの」
「可能性はあるんだろう!」
僕は必死だった。何でもいい可能性があるのなら何だってやる。
それが八重を救う唯一の事なら!
「……言質は得たからの」
頬を染めた八重は優しく微笑んだ。何故だろう。こんな状況で笑う暇なんかないのに。
こほん、と咳払いし、徐に僕に渡したのは彼女が大事に持っていた野太刀だった。
「……これは?」
「私が生前、我が家の蔵から奪った刀だの。名前も知らず、ただ立てかけられていたから私はそれに触れた。すると私が死者に、妖になった時にそれは私の手元にあった奴やの」
ずっしりとしたその重み……おそらく二十キロもあるに違いない、こんな馬鹿でかいものを八重が軽々と振り回していたから軽いものだと思っていた。
「退魔の剣。それは私ら狗神憑きの家系だからそれは当然ではあるがの……銘がわからくての。ずっと考えておったのだが……」
「退魔の剣……巨大な刀」
それに心当たりはあった。しかしなぜそれがそこにあるのか。全く見当がつかない。
「八重、これを使えば……名前が分かれば、奴を倒せるんだな!?」
「う、うーん」
「はっきりしてくれ!」
「ああもう、分かった! 倒せる! 私が保証する!」
やけくそだった。
八重の言葉を聞いた僕はその刀の鞘と柄を持つ。八百三十何年以上の時間を経ても、切れることもなく、磨耗もしておらず、傷一つなくずっと封印されてきた。
「まさかこんなところにこんなものがあるとはな……」
僕はその刀に聞こえるように、囁くように、刀に名前を教えた。
ドスン。と土埃が舞い上がった。綺麗に並べられていた石畳はその衝撃で浮き上がると積み木のように崩れて落ちた。
「……」
「やっと見つけたって感じだな」
「……」
僕は神社の石造りの階段で、その一部始終を見ていた。
赤いジャンバーをきた妖退治は僕を見据える。赤い瞳が僕を針のように貫いた。
「なぁ、お前って八重と何か関係あったりするのか?」
「……」
だんまりだった。
「僕は和平交渉をするためにここにいる。もしよければ手を引いてもらえないだろうか。彼女は曲がりなりにもこの神社の狛犬として八百三十二年も守ってきた。それをどうか許してやってくれないだろうか」
「……」
だんまりだった。
「交渉決裂って事でいいのか……」
「……ねーねー」
彼はそう呟いた。僕に聞こえるように、僕にわかるように。
腐卵の臭いがたちまち周囲を覆う。その痛烈な臭いに僕は顔を顰めた。
「……」
「ねぇねぇ……どこ?」
目を見開いた。
僕の目の前に膝があった。
距離にして二十メートル。男子が懸命に距離を詰めても四秒はかかる距離をものの一瞬で詰め寄った。
とてもかわせるような距離ではない。
ドン。と鈍い音が響いた。
「其方、殺すべき相手が違うよの?」
頬に吸い込まれるべき膝は、八重が左手で遮っていた。赤い瞳が交差する。その気迫は妖と妖退治だからこそなのか。
「さっきの借りじゃ」
そう言って野太刀の鞘を少年の脇腹にめり込ませた。若木がしなり折れる音が耳にまで届いた。
「容赦ないね。八重」
「まぁ、私も右腕を消し炭にされたしの。あいこやて」
宙を舞い、飛んで言った少年は態勢を立て直し綺麗に着地する。
「ねーねー」
言霊のように、彼の影から虫が生み出されると僕たちに向かって襲いかかった。その虫は尾に毒を有し飛翔するが、明らかに僕の知っている大きさじゃなかった。
「いょっと」
軽い口調で八重が野太刀でたたき伏せる。舞を踊るように野太刀を巧みに動かしで次々と落としていく。落ちた虫は黒い霧となって霧散した。
「ふふん。今日は調子が良くての」
彼の表情が歪んだ。
両手から青い炎が湧き出てくる。まるで鬼火のように燃え上がると両手を前に突き出すと、青い炎が僕たちにめがけて発射された。
「来たぞ!」
「……うぬ」
八重は野太刀を鞘を左手に柄を右手に構えた。
「目覚めんかい、祢々切丸!」
キンっと、抜ける音がした。
白銀の光が、夜の闇を切り裂くように輝いた。
青い炎は僕たちを襲いかかる。普通なら地獄のような炎に僕らは舐め尽くされて骨になるはずだった。
しかし、野太刀がまるで紙を切るように、川の流れに棒を突き刺すように炎を切り裂いた。
ざわりと背筋が凍った。炎を切り捨てた。
「うまくいったの」
「いや、本当名前があっててよかった」
引き抜かれた刀身。綺麗な波紋、錆一つなく、刃こぼれ一つない巨大な刀が八重の手にあった。
祢々切丸……かつて昔、祢々と呼ぶ妖怪を一人でに抜け、切り倒したと言われる退魔の刀。
「……!」
恐れたような表情を妖退治は見せていた。
「どうやらお前はこの刀が苦手らしいな」
それもそうだ。妖を殺め、妖を喰らい、妖を物とした人間ならこの刀に斬られればどうなるかくらいすぐにわかるだろう。
僕は八重の肩に手を添えた。
「……八重」
「うぬ」
後ずさる妖退治。
その姿に八重は祢々切丸を右肩に引っ掛け、両手で持つと、体を前に倒す。
「行け!」
一気に最高速度へとなった。ひねりもなく、一歩も踏み変えず、一度も止まることをせず、一片の曲がりもしなかった。
愚直で真っ直ぐな軌道。
「……!」
影からさまざまな姿の妖が生まれ、意思を持って八重へと襲いかかる。
その魑魅魍魎の山のような妖に、八重は梃子の原理で横一文字を引いた。
全てが真っ二つに引き裂かれる。全てが刀の元に斬り伏せられる。
速度が落ちず、ただただ目標へと走りなくその姿はまさしく犬だった。
「……ふっ!」
そして彼女は息を吐くように、刀が彼の体を左脇から切り裂いた。
「……」
八重はただ切り捨てられたその妖退治を見ていた。祢々切丸の退魔の力によって妖自体に存在する修復能力も阻害されたのか、妖退治は息もまともに出来ずにただ死へと落ちる時間を過ごしていた。
「こんな幼い小童が、妖退治になるとはな……世も末だの」
悲しそうな顔をして八重は彼を見ていた。
「……ねーねー」
それは呼びかけるような声だった。八重の瞳を見て愛おしむように呼びかけるその声に八重はただ見つめるだけだった。
「其方に安らぎが来ることを」
祢々切丸を鞘に収めると、妖退治の体は塵になり跡形もなく消え去った。
その光景をただ眺めることしかできなかった僕は彼女を見るしかできなかった。
「……終わったよの」
「あぁ……」
力が抜け尻餅をついた。背中の傷が完全に開いた。血も足りない上に、まだ麻酔が残っている状態で手術着と来たものだ。
「大丈夫かの」
「……正直、よくないかもな」
寒い。体が氷のように冷たく感じる。だんだん薄くなっていく意識の中、じっとこちらを見ている八重がいた。
「多分、僕は死ぬ……と思う」
「だの」
短く彼女は答えた。
「なんか短い日々だったけど……すっごい充実した日々だと思ったんだ。ずっと一人で生きていたから……八重と出会ってから楽しかった」
「うぬ」
「未練もない……」
このまま僕は死に、何もなくなるのだろう。天国もなく、地獄もなく、未練もなくなった僕のいく先はきっと無なのだろう。意識もずっと深い闇の中に落ちていって、睡眠のように何もなく、ただその時間を過ぎていくのだろう。
そんなことを思いながら、僕は意識をまた落としていく。
あぁでも、できることなら……八重に愛してるっていってやりたい。と心の底から思った。
§11:今。
擽りあって勝利を手にしたのは僕だった。
右手で握りこぶしを作り、天井に突き上げていた僕の隣には前をはだけさせて、色々際どい八重が顔を赤く染めてとても色っぽい息を上げていた。
「はぁ、はぁ、本当にハルは手加減をせぬの」
「残念だがこの勝負に負けたら男の恥だと思っている」
格が違うのだよ。格が。と僕は自慢げに言うとむぅっと八重の頬を膨らんだ。
「しっかしあれから色んなことがあったよの」
「まぁね。僕は死にかけ、八重は僕にずっと寄り添っていたし……」
結果的に、その後病院に連れ戻された。
実は僕は病院を抜け出したために看護師が警察に連絡をし、捜索依頼をしたのだとか。警察が色々と創作していると、突如神社にて爆発事故が起きたので、それの状況を見にいくと、そこには僕が横になっていたとのことだ。
その後僕は意識がない状態で病院に連れ戻され、厳重に治療を受けた。体幹ベルトをつけられ、まるで精神病のような扱いを受けていた。
「いやぁ、あれは本当滑稽だったの」
その一部始終をずっと八重が見ていたなんて言えばたまったものではない。
なんせ、僕は死ぬかもしれない。短い日々だったけど幸せだったとか辞世の句を述べていたのに、病院ではピンピンしており、さらに拘束具をつけられていたのだから恥ずかしいことこの上なかった。
「思い出させるな。僕は本当に死ぬかと思っていたんだぞ? 実際あのあと僕の体はズタボロで全治一ヶ月。そしてテストなんか受けれず、先生の免除もあって個別テスト受けたが、どこかの狗神さんが僕の邪魔ばかりをしてきた結果赤点の連続。留年になったんだし」
「くふっ、くふふ、あっはっはっは!」
ゲラゲラと笑い足をばたつかせる彼女に僕はムカついた。
「だけど、そのかわり色々と調べることができたわけだし……いいんだけど」
「んえ? 何かわかったことあったかの?」
「まぁね」
僕がカバンの中からノートを取り出すと対する八重は横になった。
「なにかの、私は文字はあんまり読みたくはあらんの」
「あくまで僕の考えだ。あの妖、いや妖退治の目的だよ」
八重の耳がピクッと動いた。
赤胡麻色の髪が動き僕のへと近づくと、ノートを覗き込んだ。
「まぁ、簡単いうと。奴は殺されたかった……死にたかったから。というのが現時点しっかりくるんだ」
妖退治の目的、それは戦いに敗れ死ぬこと。しかしそれは矛盾をしているようだった。
「おかしくあらぬかの。なぜ妖退治の彼奴が私達へ殺されに来たかの」
疑問だった。だからこそ僕は考えに考えぬき、本を読み漁ったのだ。
「生者は死者へとなった時、未練を残していれば地縛霊となる、そして生者を手をかければ地縛霊は妖へと落ちてしまう。それは本物の妖であれ、模倣した妖であれ一緒なのだろう?」
「うぬ、あながち間違ってはおらぬの」
「そこで思った。もし、妖の未練が成就されたなら成仏するのではないかと」
「馬鹿馬鹿しい」
不機嫌な顔をして八重に一蹴された。不機嫌な顔をした彼女は横になると目を合わせようとせず背中を見せた。
「いいかの? 人の未練とはそう簡単に叶うものではない。子どもが欲しかった。のほか、想い人が振り向いてくれるように。とかそれぞれがそれぞれの願いがあるよの。それを問い詰めて、妖の未練を暴こうとしたのならそれは妖に、死者に、ハル達生者の冒涜だの」
「だからこそ、その妖退治は殺されたかったんだと思う。生きることも死ぬこともできない。奴の願い……それが死ぬことだった」
そう、彼は人間でもあり、妖でもあり、人間でもなく、妖でもなかった。
「それはまさしく、八重のような存在ではないか?」
「……」
「最後に産まれたのが八重といったよな。それは本当に最後に産まれたのが八重なのか?」
もし、あの妖退治は偶然僕たちを襲ったのではなく、存在を知っていたのであれば……。
「やめてくれないかの。これ以上は私も辛い」
「……知っていたのか」
赤胡麻色の髪しか見差ない彼女の肩は揺れていた。
「知られたくなかった。何もかも知らずに、私が斬り伏せておけば幸せだったのに、今でも聞こえるだの……姉姉って」
「……姉弟だったのか」
赤胡麻色の髪を優しく撫でた。僕にはそれしかできなかった。
「九尾……といっていたな。九尾……いわゆる狐憑きとは東日本でよく出てくる話だ。そして狗神憑きも、西日本でよく出てくる話……。つまり狐憑きと、狗神憑きは兄弟だ」
「彼奴は、本当に馬鹿だの。自分では死ねないから、わざわざ祢々切丸をもっている私に殺されようとは」
妖退治も、存在は妖で間違いはない。妖を殺すなら、浄化するなら退魔の力を持つ刀しかない。
「殺した私の気持ちも知らなんだの」
「八重……」
「彼奴の名前、おそらくないと思うがの」
「……そうだな」
こちらを見た八重。その姿に僕は愛おしいと思った。
しかし、僕はそれを八重に伝えることはできなかった。
なぜならば八重も妖であり、妖である以上未練があるからだ。その未練が偶然僕が彼女の未練を解消させる言葉であるならば……。
彼女はこの世を去ってしまう。
「……八重」
「んえ?」
「九重。八重の次の、弟の名前」
九重には九尾の意味もあったはずだし、ちょうどいいのではないか。と僕は思った。
「くふ、ハルは相変わらず素敵じゃの」
優しく微笑み、僕の隣で体を預ける八重。まるで自分がこれからどうなるのかわかっているかのようだった。
「大丈夫。私はハルの側にいるからの」
僕は優しく彼女の肩を抱き寄せるしかできなかった。
最後まで見ていただきありがとうございました。
八重の桜が咲く頃にてこれにて完結しました。
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