前半
§1:今。僕の同居人は
紅葉のシーズンが終わり、つい先程初雪観測というニュースが流れた。
冬の風はまるでかまいたちのように冷たく鋭く僕の耳に当たり暖気を奪っていくようにすり抜けていく。
通りの信号は赤で、車は青になるのを今か今かと並んで待っている。マフラーからは排気ガスがもうもうと立ち上っていた。
「集、じゃあまたなー」
「あ、あぁ」
僕、集春は高校一年生ではあるが今年で十七になり、訳あって高校を一年留年している。
同じ学年の友人が横断歩道を渡り振り返ると手を振ってきた。僕も手を振り彼を見送ったあと、上を向かってため息をついた。吐き出した白い息がふわふわと浮かぶとだんだん薄くなっていき消えていった。
ひどく卵の腐ったような匂いがした。
「……何か用?」
僕が一言用件を聞くように口にする。僕の周りには誰もいないはず。いや、いたとしても車に乗っている人くらいか。
ずずっ、と何かを引きずる音が僕の目の前にあるガードレールの影から聞こえた。
「あのぅ、私の足を知りません……か?」
「悪いけど僕は君の足を知らない」
影から這い出るように出てきたのは泥に塗れたような髪をもつ女性だった。
ちらりと横を見ると情報提供の募集の看板と、その足元に献花が五つ置かれていた。
「でも足がないと……私帰れない」
「君はもう死んでいるんだ。君は成仏した方がいい。これ以上他者の足を引っ張って事故を引き起こすのをやめろ」
全身が現れた。彼女は這いずりながら僕の元へ向かってくる。その両足がなかった。その足から黒いヘドロが湧き出ているようだ。
「君は事故にあって足をなくした。君の足はもうないんだ」
「いや……いヤ、イやいやいヤイヤイやイヤイヤ! 私の足は、あるもの……まだあるもの、目の前に」
これはダメだ、もう妖に落ちかけている。と直感する。
一度引き返し、僕は距離を取ろうとするが、動かない。
ぐじゅりと泥に足を掴まれていた。思わず尻餅をつく。
「あぁ、私の……足」
ぞくりとし、変なところに足を突っ込んだ。と苦虫を噛んだ表情をする。
ぐいっと車道へと引っ張られ絶体絶命の状況に陥った。とっさに近くの道路表示に掴んだが引っ張る力は衰えることなく僕を道路に引き込もうとしている。
ヘドロにまみれた女が俺を見た。その目は黒く光がない。
「ねぇ、この足、私に……ちょうだい?」
「悪いけど、私のハルに触れないでくれる?」
それは一瞬の出来事だった。這いつくばっていた妖は横からの衝撃に吹っ飛ぶ。コンクリートブロックの壁にぶつかった妖は潰されたヘドロのように散り散りになる。
目の前に立っていたのは袂の袖口を赤い刺繍を施されている白衣の上に千早を着ており、濃い紫色のプリーツスカートの上に短い丈の緋袴を履いている。腰には金色の装飾をあしらった革紐を下げ緒代わりにして野太刀を横に携えていた。長いハイソックスも濃い紫色で太ももには赤いしめ縄の様なソックスガーターが付いている、鼻緒が赤く、黒塗りの下駄を履いており、蹴りを綺麗に振り抜いた後の格好をしていた。
そして瞳が燃えるように紅く、髪は赤胡麻色先端に行けば黒で、腰あたりまで伸ばしており、極め付けは頭頂部に犬耳が。
僕を一瞥すると、黒い下駄をコロンと鳴らす。すると僕の足についていた泥が水の様に溶けて道路に引っ張られる力がなくなった。
「イ、……狗神……!」
散り散りになっていたヘドロが寄せ集まりさっきの妖の姿を形作り彼女をにらんだ。
「足がない妖が生者の足を奪うのは御法度。さらに私のハルに触れた罰」
まるで鈴の様なコロコロとした声音。しかしその奥に秘めた感情は敵意だ。
右手で野太刀を掴むと鞘をつけたまま引き抜き、構えると犬歯をわざとらしく見せつけた。
「万死に値するわ」
「あ、ああぁぁぁあぁあぁぁ!」
ヘドロが襲いかかる。それを綺麗な身のこなしでさばいていく。人の動きではない。電光石火の様に動き野太刀でヘドロを叩き伏せていき、野太刀の攻撃範囲に一気に詰めると。
「っせい!」
脳天にめがけて上段の構えから野太刀の一撃を喰らわせた。
それと同時に妖は焼けるような音が響いた後、消滅する。
卵の腐ったように匂いが無くなり、ホッと一息ついた。野太刀を腰に携え直す彼女を視線が交わると僕はにへらと笑った。
「……ありがとう」
「ありがとう、じゃないでしょ!」
僕の頭にめがけて手刀を繰り出した。ごすんといい音がして目の前がチカチカと光る。思わず目を閉じて頭を抑えた。
「何度言えばわかるの! 私が一緒の時にのみしか死者と話しちゃいけないっていったでしょ!」
「ご、ごめん。視線を感じたから人間かなと思って」
「腐卵の匂いがしたら妖だって知ってるでしょうに!」
ガミガミいう犬耳の娘を尻目に立ち上がりズボンについた土を払っていると、後ろから抱きしめられる。ふにゅっと胸が背中に当たった。
「ハルは油断しすぎ、優しさは妖にとっては甘いお菓子でしかないんだから……」
「ごめん……八重」
ん。といって離れると、僕の腕に絡みついてきた。
そしてニコニコと笑顔を見せてくる。年相応の明るい笑顔だ。
「じゃあ今日のご飯は鶏肉を所望する!」
「……胸肉でもいいでしょうか?」
「構わんぞ!」
彼女は八重、僕の同居人で……
ーーー狗神の憑き物の妖だ。
§2:集春の場合
僕は他の人とは違う何かを持っている。と小さい頃に思い知らされた。
それに気づいたのは六つの頃だろうか。
バスに母親と乗っていた時、バスの先頭にある椅子に座る女性がいた。その女性は白いぼさぼさの髪で顔は見えていない。後ろ姿だから全然気にならなかったが、違和感があったのだ。
その違和感はおそらく恐怖だったのだろう。
普通の子どもが感じる怖さではない。何か他のもっとおぞましいものだった。鼻を通る腐卵の匂い。その臭いは今でもどこかで感じる。
風に煽られるように髪が捲き上る。
そのぼさぼさの髪は後頭部ではなく、顔だった。目がなく目があるべきところは黒く空虚だ。
それ以来、僕の周りにはそういうものがいるのだと実感する。
時には何もしないで温かい目で僕をみている者もいれば、襲いかかろうとしてくる者もいた。
その度に両親に迷惑をかけたのを覚えている。
先に限界を迎えたのは母親だった。
「なんであの子は私たちみたいに普通じゃないの!?」
ヒステリックに叫び散らされたその声は今まで聞いたことのない声だった。
「学校では一人で過ごしていて授業中逃げ出したり、何もないところで話したりとしているのよ!? あの子は普通じゃないのよ!」
落ち着けよ。と父親が宥めようとしたが母親はそんなこともできるわけがなく……。
物陰に隠れていた僕は謝ろうとしていた。もう何も言わないから。普通の子でいるからって言おうとした。
しかしそれは叶うこともできず、母親は僕を見る、それは子どもを見る目ではない、畏怖に近いものだった。
僕の目の前で言い放たれる。
「お前なんか産まなきゃよかった!!」
その時僕には守ってくれる家族なんていないと理解した。
その日から家族は崩壊した。家族だった父親が俺を連れていったのは児童施設だった。たくさん子どもが遊んでいてとても楽しそうだった。
きっと新しい学校なんだろう。
きっと僕みたいな子でも行けるところなんだろう。そう思っていた。
「ここでお母さんが元に戻るまで待っててくれないか? すぐに迎えにくるから」
「うん。わかった」
そしてその姿を児童施設の職員と見送った。まるで逃げるように歩く父親の背中を……。
今となっては素直すぎた僕が呪いたくなる。
父親が僕を児童施設においていった後、二度と帰ってくることはなかった。
それ以降僕は身寄りもなく、ただ一人、高校に行くまでその施設にいた。
その施設でも僕は人に気味悪がられ、妖に追いかけ回される日々を過ごした。職員からもあの子は頭がおかしい子と呼ばれ、夜な夜な幽霊に首を絞められたり、手を引っ張られて跡が残ったりとしており、自傷癖がある子だと思われていた。
最初こそは違うと言っていたがそれが変わることもなく、いつしか僕は何も言わずにただ過ごす日々を送ることになっていた。
高校に入学した時にはもう妖と話すこともなくなり存在すらしないと自分に言い聞かせていた。
しかしそんなことをしても妖は僕を、僕の周りを不幸にしてきた。
だからいつも一人だった。
そんな時に僕はとある妖に出会った。
それは僕が十六の時、体育の授業中だった。外でサッカーをやっており、僕はボールを受け取る時だった。
校舎の影から百足のような多足類だが、足は人の手だったり足だったり不気味な存在で身体中に目が付いていた妖が現れた。ボコボコと風船のように膨れ上がっていくとグラウンドへと歩いてきたのだ。
「……っ」
思わず喉を鳴らした。これまでこれほどに大きくこれほどに凶悪な姿をしている妖を見たことがない。
すんすんと空気を吸って口が現れると恍惚な吐息を漏らし声を漏らした。
「オィシソヴな……にぉいガすル」
ぞくりと悪寒が漂った。きっとこいつは人を食ってると僕の身体が警鐘を鳴らした。
「おーい、集?」
先生が僕を呼ぶ、しかしその声が遠い。思わず僕は立ち竦み、息がしにくくなった。腐卵臭がそこらじゅうで感じ、吐き気を催した。
「集、どうした。体調悪いのか? 顔が真っ青だぞ?」
クラスメイトが僕に声をかけてくる。それに反応した僕に合わせて百足はピクリと反応した。
「あ、いや、違うんだ、なんでもない……」
フラフラとしながら妖がそこにいた。すんすんとニオイを嗅ぎながら獲物を探すように。
「オィシソヴなにぉいガ……お前カ?」
「? なんだ、この匂い……卵の腐った……」
「っ!」
思わず逃げ出した。全速力で、走り出した。ここじゃまずい。どこか逃げなきゃ。
僕の名前を呼ぶクラスメイトを全て無視した。校門の近くの駐輪場へ走ると鍵がかかってない自転車に乗り込み走り出す。全体重を自転車に込める。
その姿を見た妖は俺を見つけた。
「ク、クククク、喰わセロ!」
走ってきた。百足のように器用に走ってくるその恐怖に逃げなきゃと拍車をかけた。
でもどこに?
今まで頼る場所がなく、これまでこんな巨大な妖にあったことがない。
全速力で走り抜ける。とにかく安全な場所に行きたいそう願った場所が小さい山の上にある神社だった。
「ミィつケタ!」
襲いかかる豪風。全速力で走っていた自転車から僕は飛び降りた。下手くそな飛び降り方で僕の体はコンクリートでヤスリ掛けされる。
右手で甲から二の腕まで全てが擦過傷で傷だらけになっている。額も切ったようで血を流し、血が目に入った。
自転車は豪風をまとったムカデの攻撃によって車体があらぬ方向へと折れ曲がっていた。
身体中にある目がぼくを見ていた。口からよだれがバタバタと落ちている。百足の足が方向を変えるように動き僕へと向けた。
「オイしゾぅ……食わセテ、クイタイクイタイ」
右手をかばいながら僕は神社の階段を上るが、百足の方が足が速いのは明瞭だった。
すぐに捕まり、身動きが取れない。みしみしと骨が軋んだ。肺が潰れて空気が入らない。
「は、……なせ!」
「クルシイ? クイタイ。タベタイ……クイタイ」
食べることだけに感情があらわになっているその百足はよだれを垂らしている。
「っ!」
自由な左腕でとっさに近くにあった土を掴み、百足の目にめがけて投げつけると、叫び散らし身悶えた。
複数の声が混じり合って叫び散らす百足をから解放された僕は咳き込みながら神社へと這いずりながら階段を上る。
しかし肋骨が押しつぶされていたからか呼吸がうまくできない。
「だ、れか……」
誰にも言えないこと。それはずっと一人で抱え込んでいた。誰にも言えないから、誰も信じてくれないからずっと一人でやってきた。
まだ死にたくない。と僕は思った。
「だれか……」
ドスンと、足音が聞こえた。後ろには百足がいる。
それでも、階段を上る。
「助けて」
神社からコロンと下駄が鳴る音が聞こえた。
ふと視線を神社へと向けた。すると鳥居から人が飛び降りてきた勢いで百足に思い切りかかと落としを繰り出していた。その衝撃は倒れている僕でもわかる。地面が揺れたのだ。
「アァァァ!?」
百足が叫び散らし、ミミズのように暴れる。
そして僕と百足の間に割って入るようにその人は百足の前に立ちはだかった。
「乳も飲まずに死に絶えた赤子か。妖になった以上救いはないけど……」
「あの、貴方は」
僕の言葉に彼女がピクリと固まり、そしてくるりとこちらを見た彼女は頭に生えている犬耳をヒクヒクと動かしていた。
そして驚いた顔をして僕を見ている。
「其方は私が視えてるの?」
「食ワせロォォォぉぉオ!」
襲いかかる百足に彼女は燃えるような赤い瞳を細めると、腰に携えていた野太刀を鞘も抜かずに手にし、逆手で抜いた勢いで右下から左上に振り上げた。地面が抉るように走った野太刀は百足の顎を思い切り撃ち抜く。まるで鉄球を木で殴りつけたかのような聞くにも耐えない音が響き、百足の四つ目の胴関節まで真上に浮き上がる。
「ギッ、グ!?」
そして真上に切り上げた野太刀を逆手から元に戻し、野太刀をそのままに彼女は左へと回転し始める。その回転に引き込まれるように野太刀が左へ回り始め、そして一瞬にして最高速に達した。
「よいっしょお!」
その掛け声とともに百足の胴体に思い切り野太刀を叩き込んだ彼女はさらに止まることなく振り抜いた。
めぎっと甲殻が砕ける音が響きそこから肉が焼ける音が響くと百足は黒い霧のように粉々になり霧散した。
「手荒な真似をしたけど、今度はちゃんと生まれてくることよの」
そう言って彼女は野太刀を腰に垂れ下がっている下げ緒にくくり付けた。
その光景を見ていた僕は彼女の後ろ姿を見ていた。赤胡麻の髪が先端に行けば黒い。犬耳を有した巫女服姿の少女が僕の身長ほどの刀を振り回す。風に揺らている袂をパンパンと彼女は砂埃を払っていた。
「す、すごい」
「……で、其方はなんなのさ。それに、その怪我痛くないかの」
それが彼女、八重との初めての出会いだった。
あの後学校に戻ると先生のお怒りを受け、反省文を三枚書く羽目になった。
「反省文を書く前に一度、保健室に行って怪我の治療をしてきなさい」
そう言われて僕は背中を丸めながら保健室に入る。
「あ! 集、どこ行ってたんだよ! ていうかなんだ、その怪我!」
「あぁ、ちょっと転んだんだ」
保健室には僕を待ち構えていたかの様にクラスメイトの手嶋がいた。手嶋は高校に入学してからの知り合いで、集の次が手嶋という名前の順番が偶然連続していた程度の仲である。
はぐらかす様に僕が言うと手嶋がそっか。とやや視線を切るようにした。
僕の状態を見た保健室の先生は特に慌てることもなく、僕にマキロンを吹きかけながらガーゼで拭いていく。
「思いっきり転んだのね」
「えぇ、自転車を漕いでいたら缶の上に乗り上げてしまって受け身が取れず……」
「集ってどんくさいなー。オレだったらこう、華麗に受け身をとっていたぜ!」
「手嶋くん。こんな時間までここにいていいの?」
予鈴もうなってるわよ。と保健の先生が言うと手嶋は頭に両手を乗せて、にししと笑った。
「大丈夫! オレ保健委員だから、怪我人を連れて教室に戻るのも仕事なんだ」
「ただ単にサボりたいだけなんじゃ?」
「そう言うお前もその可能性が高いだろ?」
そう言われてしまえばそうなのだろう。
実際僕は一度高校から逃げ出している。
本当はお化けに襲われたから逃げ出したんだ。
なんてことを言えたら僕はどうなるのだろうか。やっと手に入れた平穏を壊してしまうのが怖い僕がいた。
「はい、額の方は結構深く切れていたからガーゼ付けておくわ。痕、残っちゃうかも……」
「いえ、大丈夫です。何から何まですいません」
「いいのよ、困った時はいつでも相談してね」
「いえ、はい。大丈夫です」
そう言って保健室の先生は僕を見送った。手嶋と一緒に廊下を歩いている。
「お前さ、本当気をつけろよー?」
「? どうして」
「変な奴に絡まれると面倒なことが起きるからだ」
「……確かにそうだな」
確かにお化けが多すぎて僕の頭は処理できない。でも手嶋のいう変な奴とはこの学校にいる不良とかのそのことを言っているのだろう。
コロンと下駄の音が聞こえた気がした。
「……?」
「おい、集。どうした?」
ふと音が鳴り響いた方、僕が向かう教室の真反対の下駄箱の方を見た。
非常口の曇りガラスが陽に照らされて廊下が海の水面のようにキラキラと反射していてよく見えなかった。
しかし、そこにいるのは紛れもなく巫女の服を着た少女だった。
「あ、見つけた!」
「……っ!」
その声ですぐに誰か理解をした。
僕に向かって見つけた。というのを僕は慌てて手嶋を見て、言い訳を考えた。
「ち、違うんだ、これは!」
「集どうしたんだよ。下駄箱の方なんか見て、誰か来たのか?」
あぁ、そういうことか。と僕は確信をした。
「其方、これ忘れていたよ。ほら、なんで喋らないのさ!」
そう言って隣で頬をぷっくりと膨らませ、僕を上目遣いで睨んでいる彼女は両手でアクリルキーホルダーが付いている鍵を持っていた。
おそらくこれも手嶋は見えていないのだろう。
つまりこの巫女服の少女は人間ではない何かなのだと理解した。
§3:今。僕の家にて
「ごっはんー。ごっはんー。きょーうはやーすものむーねにっくだー」
アパートの一室。地区うん十年と言えるくらいのボロアパートの二〇一号室に僕と八重が住んでいた。二〇一号室の部屋は玄関からリビングまでの短い廊下に古い水洗トイレとガスコンロが置いてある場所があってリビングには僕の勉強机になる丸いちゃぶ台と、壁には本棚を並べて、いろんな本が置いていた。その本は全て僕が買い漁った『怪談』や『妖』が記されている本だ。
その小さいリビングから今日のご飯に対する批判かつ、楽しみに待っているという即席の歌を歌っている八重の声が聞きながら僕は料理を作っていた。
「あとはまぁ、インスタントの味噌汁でいいか」
そう呟きながら作ったものを持っていく。
部屋に入るとぱぁっと笑顔を振りまく八重がご飯ご飯と優先度を僕からご飯へと変わる姿を見て嘆息するばかりだ。
「今日はキュウリが古かったし、棒棒鶏な」
「やったー! ばんばんじぃ好き!」
まだ食べちゃダメだぞ。と僕が忠告して廊下に戻り、小皿を二つ持ってくると、棒棒鶏を目の前によだれを垂らしている八重がいた。
律儀に食べずに待っている姿にクスリと僕は笑った。
「はい、小皿。これに乗せて食べてね」
「うん。まだ!?」
「じゃあ食べようかな。味噌汁は?」
「飲む! 具は豆腐で!」
八重はネギの具材の味噌汁を飲まないからきまって豆腐の味噌汁しか飲まない。実は僕も豆腐の味噌汁が好きなのだが、八重がそれしか飲まないというのを知ってからずっとわかめか、ネギのかやくの味噌汁しか飲んでいない。油揚げの味噌汁は飲まないのかと聞いたことがある。すると八重は嫌そうな顔をして。
「私は狐憑きではあらんよ? なに、ハルは騙くらかしの女狐の方が良かったの?」
と悲しそうに話したのでそれ以来、あさげは買わないこととなった。
予め沸かして置いたポットのお湯を注ぎインスタントの味噌汁を混ぜて溶かしたものを八重に渡すと、あちっち! と言いながら机に起きすんすんと匂いを嗅ぐ。するとふへぇ。と幸せそうな顔をして頬をだらしなく伸ばしていた。
「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす」
二人だけの食事をとるようになってから一年ほどになる。
§4:僕の場合
学校に現れた彼女八重はその後昼放課まで僕の後ろに纏わり憑き、チラチラと黒板にチョークで文字を書く先生を見ながら僕が書いているノートを見比べていた。
ちらりとあたりを見回すが誰もが板書に集中していて誰も彼女を気にもしていない。いや、誰も彼女に気づいていない。
ペンでノートの端に文字を書いた。
はい。なら一回、いいえなら二回。肩を突いて。
肩を一回突かれた。それを確認した後、僕は続けて文字を書く。
貴方は人間?
二回。
貴方はお化け?
二回。
僕をどうするつもりだ。食べるのか。
二回。
つまり、彼女は彼女が持っているアクリルキーホルダーの鍵を僕に渡したいためだけに僕の後ろについているのか。
それを理解し、またノートに書いた。
鍵はありがとう。受け取ったら帰ってくれる?
二回。
ため息しか出なかった。
昼放課になり、僕は立ち上がるとすぐに教室を出た。クラスメイト達は僕に興味を持たずワイワイしていたために何事もなく出れた。
とにかく人のいない所を。そう思いながら行き着いたのは部室棟だった。授業が終わり部活が終わるまでの時間は誰もいないためだ。
部室棟に着くと後ろを付いてきていた彼女に声をかける。
「鍵はありがとう」
「うん。これどうぞ」
そう言って渡してきたのは僕が盗んで走った自転車の鍵だ。だがあれは確か百足によって真っ二つに折れていたはずだが。
「僕が乗っていた自転車って」
「原っぱに投げ捨てられていたよの。真っ二つに」
ですよねぇ。と僕は胸のあたりをひやっとさせる。勝手に乗って勝手に壊された人は泣くだろう。
「君は何者なんだ?」
「私は八重。あそこの神社に住み着いていた狛犬兼狗神の妖よの」
そう言って下駄をコロンと鳴らしながらくるりと回る。
「似合うでしょ」
「正直可愛いと思う」
ニッコリと嬉しそうに笑う。
それより、妖ってなに? 全く知らない言葉が出たんだけど。
「妖って……」
差し支えなければ教えていただきたいのだが、八重が僕の意図を汲み取ったのか。おほんと咳払いをすると真面目な顔をした。
「私達は生者から死者になるとき未練を残したままだと、幽霊となる。そこら場にいる……いや、其方達の言葉で言う地縛霊だの」
「まぁ、一応は」
心霊写真とかでよくあるあれだろう。
「その地縛霊の未練が強ければ強いほどその意思は強い。しかし、その内意思は揺れるのだ。私だけなぜ、と言う劣等感を抱き、そして人に手をかけてしまう。その時点で地縛霊としての役割を捨て、死者は妖となるのよ」
「つまり妖って人間なのか?」
「そうじゃよ?」
「君は……?」
「私も妖だよ。ただ、妖というにはちと違っての」
「?」
「私は本物なのだよ。彼等妖という存在は私達妖の複製にしか過ぎぬ。いや、そう言ってしまえばまるで私も妖だということになるかの?」
んー。と小指を立てて考えている姿をじっと見ていた。先程の話を聞いているものを噛み砕いて予想して口にしてみる。
「つまり、史実に載っている妖怪とかが八重さん達で、僕を襲いに来るのがその妖怪を模倣した地縛霊ってことですか?」
「そうそう! 頭が冴えてるの!」
いいものを見つけたらしく嬉しそうな顔をする彼女に僕は顔を赤くした。
「だが、史実の妖も人と変わりはしない。鬼も人であり、河童も人であり、全ての妖は人間から生まれている」
「八重さんも……」
「私のことを聞きたいかの?」
彼女が妖と言うならば、彼女も妖と言うならばそれはきっとひどい未練なのだろう。
と言うことは僕もきっと死ねば、彼女たちと同じ……。
「……いいえ、僕もきっと死ねば八重さんみたいに妖になるのかなって」
それは皮肉だった。
「小童」
びゅう、と首元に風を感じた。あまりのことすぎて僕ば見ることができなかった。
首元には野太刀がある。あの膂力で繰り出された野太刀は鞘に収まっていても氷のように冷たい切っ先のように感じた。
ぞくりと心から恐怖を覚えた。
「次、死者を羨むことを言うならば……その首へし折る」
「……ごめん」
「いいよの」
殺意を解き、野太刀を首元から引き戻す。それを腰に括り付けるのを確認してから、深く安堵の息を吐いた。
「ただ、僕は生きている人に気味悪がられ、両親にも捨てられた。ずっと一人なんだ。一人で死ねば何もなく幸せに行けると思っていたんだけど……」
親にも捨てられ、周りの人間から気味悪がられた僕に救いはないのだろうか。
両手をぎゅっと握りしめた。
「私と同じの」
僕は彼女を見た。どこか悲しそうな顔を向けている。ふと僕の視線を感じた彼女は首を横に振るといつもの表情に戻った。
「其方、私と暮らすかの?」
「……へ?」
「独り身なのであろう? なら私も独り身だ。なぁに夜の営みは出来ずとも手伝う事は出来るぞ! 」
「いや、いやいやいやいやいやいや! 大丈夫ですから! 一人で大丈夫」
「其方は一人が寂しいと言った」
僕は固まった。
彼女の唇は薄くピンク色だ。健康な唇の中には犬のような鋭い牙がちらついた。
「私も、一人は……いやだの。一人でいるよりは二人でいた方がきっと楽しいだのぅ」
「……」
人間ではない彼女は僕を受け入れてくれた。手を伸ばせば僕は一人じゃなくなる。しかしそれを受け入れたと言うことは僕は日常に戻れなくなる。
手を伸ばせず、僕は乾いた口を開閉して何も言えずにいた。
「其方はどうするだの?」
「僕は……」
予鈴が鳴り響いた。あと五分で昼放課が終わる音だ。時間が動いたように気がした。
僕は校舎をみた。校舎が僕を呼び止めたようにも感じる。
「……今日の帰り、神社に来るんじゃの。来なくても私はそこで幾らでも其方を待っているの」
むしろ私はそこ以外行く場所がないからのと言い、カランコロンと鳴らしながら八重はその場から消える。
「……っ!」
何も言えずただ選択出来ずに佇んだ僕を心から呪った。
教室に戻ると、クラスメイトはワイワイ話をしていた。色んな人達が塊になっていてまるで菌のコロニーを見ているかのようだった。
ただ、それは僕がたった一人の場合であり、それを羨ましいと思った上での卑屈である。
ため息をついて昼放課の時の彼女との話を反芻する。
一人がさみしいなら私と一緒に暮らそう。
まるで悪魔のような誘い方だと思った。人でも、妖でも誘い方は同じではあるが、意味が違うだろう。いや、意味は一緒であるか。ニュアンスが違うのだろう。
ぼんやりとしていると手嶋が近寄ってきた。
「集どこ行ってたんだ?」
「あぁ、ちょっと……図書室で反省文書いてた」
「勉強ではないけど休むときは休まないと書くミスが増えるぞ」
ごもっともで。と僕はおもった。反省文に期限はなかったわけだし。急ぐ必要はなかった。
その日の授業は何事もなく終わった。後ろには肩を突く妖もいなかったし勉強に集中できたと思う。ただ、ずっと彼女の言葉が付きまとっていた。
一緒に暮らそう。
小さい頃に捨てられて身寄りもなくただお化けから逃げ回る日々。高校にもなってまた起きたその事で僕は悩んでいた。
妖と暮らすことは妖を認知することになる。しかし無視をし続けても奴らは僕を狙って来るだろう。
そんな板挟みの中、僕は一人悩んでいた。
「集」
「ん?」
授業が終わり、僕は疲れた顔で校門から出ようとしていた所を手嶋に呼び止めた。
「やっぱお前何か悩んでいるだろう」
「……そうか?」
たしかに悩んではいる。自転車のこともあるし、一緒に暮らそうと言ってくる美人がいるが、その彼女は人間じゃ認識できないお化けだというのも悩みのタネだ。
だが一人ずっと抱えていても意味はないと自問自答した僕はふと口にした。
「手嶋は僕が一人暮らしだって知ってたっけ」
「いや? 初耳だが」
「……そうか」
「それが何かあったのか?」
緊張がその場を凍らせた。
「一緒に暮らそうという人が現れた。だけど、僕はその人を全然知らないし、ずっと一人で暮らしてきたから一緒に暮らした時にどうしたらいいのかわからないんだ」
「ふむ」
手嶋が相槌を打つ。
「暮らせばいいと思うけど、先程のこともあるし、その人に迷惑をかけてしまうかもしれないと思うと、僕は一緒に暮らさない方がいいのではと思ってるんだ」
「それはおかしくないか?」
手嶋が僕の意見を否定した。
「その人は集のことを思って一緒に暮らしたいって言っているんだろう? なら別に悩む必要ないじゃないか」
むしろ何処に悩む必要があるんだ。という言葉を発した。
「ずっと一人で生きてきたというのは違うと思うぞ? 必ずしも人間っていうのは何かしらの力を受けて生きている。一人でやったとしても必ず誰かの力を使ってやっているんだ」
「……手嶋はすごいな」
そんなこと考えたこともなかった。そうだ。僕も僕が生まれたのは一人ではなく、あの会いに来ない両親によって生まれたんだ。
「僕が少しネガティブだったんだな」
「そうだ。お前は根暗だからな」
「そのデリカシーのなさは見直せないけど」
なにを! と手嶋が怒るのと同時に僕は全速力で逃げた。
そうだよな。彼女は僕を受け入れようとしていたんだ。なら僕も一歩歩み出さないといつまでも並行線だ。
神社の階段は夕日に照らされ幻想的な空気を漂わせていた。紅葉はシーズンがまだ到来していないといっていたが、それでもまだ赤みが映えており、それは燃え盛る炎のようだった。
ここの地域では紅葉の時期と花見の時期が有名な場所であり、秋と春には屋台を繰り出しているのだが、最近はそこまで活気がなく閑散としていることが多くなった。しかしそれでもなお有名な場所だと言われるのは、おそらくその彼女のおかげなのだろう。
その坂は住人から【八重坂】と呼ばれ親しまれている。
その八重坂を登っていくと夕日に照らされて橙色に輝く鳥居がある。それを潜ると名も知らない小さな神社がぽつんと構えていた。
「たしかこの神社に八重さんがいるんだっけ……」
「いるがの?」
わっと、素っ頓狂な声を出した。
鳥居の上で足を振りながら眺めている八重がいた。プリーツスカートの中がひらりひらりと見えるが、それを見るにはもう少し視力が必要の様だった。
「ちゃんと来たの。答えを持って来たのかい?」
くつくつと笑うその姿に少し僕はホッとした。
何故だろう。あの寂しそうな顔をしていなかったからか? それとも、変わらない表情だったからか? 当然僕自身にはわからないことだった。
「まず、それより鳥居の上に座ってて罰当たりじゃないですかね」
流石の狛犬でもそんなことをしたら神様に怒られかねないか不安になる。
そんな不安も気にせず八重はよっと掛け声をかけてふわりと着地をした。
「ふふん。私はこれでも狛犬の身分。八百三十二年もここにいればー……最早私が神のようなものよ」
「えぇ」
なんだその疑いの目は、と上目遣いで反抗してくるその仕草は可愛く、思わずときめいてしまった。
「……というか八百三十二年?」
「そうじゃの。私は今年で八百三十五歳になるの」
おおう、人智を超えた存在でおらっしゃることで……。
少し歩こうかの。と促され隣に並んで歩いた。神社にはベンチのような長椅子もないために、神社の本殿に入る階段に腰をかける。石は氷とまではいかないが芯まで冷えており座ると臀部の熱を奪われていく。
「といっても私が人間でいたのは三つの時までじゃの……そうだ、ここはひとつ、昔話でも聞かせようかの。其方の答えもその後に聞けば変わるかもしれぬからの」
犬耳が少し伏せていた。
「私が生まれたのは今から八百三十五年前、平安の末期だった。私が生まれた家系は平安時代では生粋の狗神憑きの家系だった。私が本物の妖といったのはそれが理由だの。しかし末期にもなると妖も封印されたり、食われたり、数を減らしていきいつしか狗神憑きの家系も廃業が多くなって来たよの。そしてその末期に産み落とされたのが私、八重だ」
時代に乗り遅れ、時代に見放され、時代に捨てられた存在。それが彼女。
「犬神憑きも廃業になったとしても私達は問題がいくつもあった。一つは【人間として普通の生活ができない】という事と、もう一つは【人間としてかけ離れた存在】だったという事だ。私はその中でも狗神の要素を強く受け継いだ部類で、その結果がこの犬耳よ」
ひくひくと犬耳を動かした。
「私が三つの時に妖はほぼいなくなったために、父上はこの神社に私を連れて来た。すると父上はこういったのだ。【お前はこの時代に生まれるべき存在ではなかった。ここで死に、生き絶え、土に戻り、神に仕えよ】。それはここで死ね。といっているのとなんら変わりはなかった」
だからここで彼女は死を選んだ。彼女はどんな未練を残して死んだのだろうか。心を握りしめるように痛んだ。
「私はよくわからず人として死んだのだ。だから未練なんてなく、そのままいなくなるはずだった。しかし狗神である私がそれを許さなかったのだ。だから何もないその神社、私が死んだここでずっと過ごしていたのだ。春の桜が舞い散る時も、夏の蝉が泣き喚く時も、秋の紅葉が赤く燃え上がる時も、冬の白き花が咲く時も、ずっと自分が朽ちるまでぼんやりと……」
そこで現れたのが其方だ。と僕を見た。
「私を視た者は其方が初めてだの。そんな機会は私は不意にしたくない。だからどうか、どうか私をそばにいさせてくれ……!」
一人はもう嫌だ。ずっと孤独の時間を過ごすのはもう嫌だ。
「だが、其方は私を受け入れなかった。いや受け入れようとしなかった。だから私は私の全てを話した。どうだ、これが私の全てだ。これを其方に話して私は……気分が晴れる」
「一つ訂正させてくれ」
なにかや。と彼女は僕を見た。立ち上がるとズボンについている砂を払うと座っている八重の前に立った。
「僕はまだ一度も返事をしていない。つまりまだ受け入れるとも、受け入れないとも、一緒に暮らす暮らさないも言ってはいない」
「だがあの沈黙は断る意味だろう?」
「僕は……!」
その後の言葉を言うのが怖かった。
何故か? それは人間に向かって言う言葉ではないからだ。
しかし目の前にいる彼女は人ではない。
「僕も……一人は嫌だ。一人で生きて行くのはもう悲しいんだ」
「……」
「だから僕も言わせてくれ。一緒に暮らさないか? 僕が死ぬまででいい。いやほんの少しの時間でもいい。だから……」
多分僕は必死な顔をしていたのだろうか。心の中は焦っていた。
「……くふっ」
彼女は笑った。しかし炎のように燃える赤い眼からは雨にも似た小さく美しい涙が流れている。それを彼女は袂を指で支えながら拭うが、溢れ出る涙は尽きることはない。
「嬉しい」
「僕は恥ずかしい」
十六でこんなこと言うなんて今までなかった。しかも好きを通り越して、孤独を味合わない為に、一緒に暮らそうなんて。
とても愚かなことだった。
僕は手を伸ばし、彼女の前に差し出した。彼女もその手をぎゅっと掴むと立ち上がる。
「八重だ」
「……?」
リンと鈴の様に響く優しい声が僕に名前を教える。もう一度、確認の様に。
「八重さん……なんて他人行儀にすぎないかの? だから八重でいいよの」
「集、集春だ。春でいい」
「うぬ、よろしく頼むぞ。集」
「春でいい」
そうして僕は八重と一緒に暮らすことになったのだった。