最終話 Over the rainbow
季節は巡り、また春が来ました。
桜も少しずつ散り始めてはいますが、まだまだ色鮮やかな時期です。
どんなに時が流れても毎年この季節は初々しい制服姿の少年少女が、美帆さんの家の前の道を通っていきます。
美帆さんが朝食の支度をしているとリビングから垣根越しに自転車通学の白いヘルメットが見えます。
憲太もそんな子供たちの一人でした。
中学進学に合わせて買ってもらった自転車は小柄な憲太にはまだ少しだけ大きいようです。
美帆さんも憲太に見せてもらった時も止まる時に足がしっかり地面に届かなくて、ちょっとふらふらしていました。
そんな様子でしたから、新しい自転車に憲太が慣れるまでは美帆さんは見ていて危なっかしくてちょっと心配でした。
とはいえそれを口に出すと憲太をスネさせてしまうために言いませんでしたけれどね。
四月の第二週の最初の日曜日。
美帆さんはいつも以上に早起きすると、早めに昼食を済ませていつかの花火の日と同じように近くの神社で待ち合わせに向かいました。
春らしい白いブラウスとベージュのジャケット、そして薄いピンク色の花が刺繍されているジーンズ姿が美帆さんらしい清潔感を感じさせてくれます。
ハラハラと散りだした桜の花びらがとても素敵な春の朝でした。
「おはよー!」
美帆さんは近づいてくる自転車を運転する小さな恋人に少し大きな声で手を振りながらあいさつをしました。
大好きな女性にそう声をかけられ、憲太もついはにかむ様に暖かな気持ちになります。
とはいえシャイな憲太は美帆さんが近くに来るまで声を出しません。
まだ肌寒い4月の朝はまだほとんど人気もないので、人目を憚る必要もありませんけれどね。
素っ気ない幼い恋人の態度でしたけれど、それでも美帆さんはちっとも不満ではありませんでした。
自転車を運転しながらも美帆さんの姿を確認していた憲太はずっと美帆さんに近づくまでの間ずっとキラキラと微笑みながら見つめてくれましたからね。
「それじゃあ行こうか?」
「えぇ。…でも、本当に大丈夫?けっこう遠いみたいだけれど…」
「大丈夫だよ。自転車にももう慣れたし。ほら、後ろ乗って」
美帆さんの気遣いにも、まるで自分の力を疑われたような気になった憲太はちょっとぶっきらぼうな言い方をしてしまいます。
憲太がそういう無愛想な話し方をする時は大抵子供扱いされたような思いを抱いた時です。純真な少年のプライドを傷つけてしまったと美帆さんも反省します。
(いけない。ちょっと傷つけちゃったかも)
美帆さんは憲太の機嫌を直そうと、気を取り直して努めて明るくして自転車の後ろに跨って腰掛けました。
「じゃあ…よろしくお願いね」
そこには事前に憲太が用意してくれたクッション代わりの座布団が巻きつけてあります。
当面は大丈夫かもしれませんけれど、長い時間乗っていては多分お尻が痛くなってしまうでしょう。
それは美帆さんも想像できましたが、もう約束した事ですからね。
美帆さんが座るのを待ってから憲太もサドルに腰掛けると、美帆さんは声をかけました。
「道は大丈夫?」
「一応ネットで地図をプリントアウトしておいたけど、国道に出たら後は真っ直ぐだよ」
話しながら足でペダルをまさぐるように確かめる憲太。
慣れた口ぶりとは違ってまだ自転車が自分の脚になるほどには慣れていないようです。
美帆さんはそう思いましたけれど、口には出さない事にしました。
「それじゃあそろそろ出発するね?」
そう言うと憲太は立ちあがって漕ぎだします。
一瞬自転車が左右にゆらめくように揺れました。
ちょっと慌てて美帆さんは両手で憲太の腰のベルトを引っ張らないように掴みました。
小さな弟を後ろに乗せてあちこちに出かけてきた憲太にとっては後ろから掴まれるのも慣れたものです。
いくら小柄でもお兄ちゃんですからね。
自転車は揺らぎながらも前に進もうとする推進力ゆえに倒れずにそのまま加速を始めます。
とはいえ、やっぱり美帆さんはちょっと憲太よりも大きくて、体重も(身長の関係上仕方ないのですが…)運転手の憲太よりも重いためあんまり思うような加速は出来ません。
それでも憲太は懸命に漕ぎ続けます。
美帆さんはあんまり立ちあがられると掴みにくいため、このままだとちょっと大変かなぁ、と思っているとようやくスピードが乗ってきたのか憲太はようやくサドルに座ってくれました。
ちょっとほっとした美帆さんはそこで憲太の小さな背中にもたれるように密着しました。
まだミルクのような石鹸の匂いのする小さな背中です。
肌寒い春の風を頬に受けても、憲太の暖かさをもらうようで冷え症の美帆さんはまるで寒さを感じませんでした。
そのまま寄り添うように憲太の背中にぴったりとくっついてしまいます。
憲太も背中に美帆さんの身体の柔らかさと暖かさを感じながら、小さな自尊心と幼いながらも立派な責任感を小さな胸いっぱいに感じていました。
うららかな春の風を受けながら、ふと美帆さんはあの雪の日の事を思い出しました。
初めて二人だけで過ごしたあの夜。
ぎゅっと抱き合って溶け合ったあの夜の事です。
二人はあれから何度も抱き合う様になっていましたが、何度も美帆さんに幸せと充実感を感じさせてくれます。
今はまだ、この日のデートのように終始美帆さんがリードしていますけれどね。
どちらにしても美帆さんにとって、目下の人生で最大の楽しみは憲太と過ごす休日の一時です。
それは、たとえいくつになっても、女性なら変わらない事なのでしょう。
自転車はゆるゆるとした速度のまま小春日和の町を走り抜けます。
普段ならこんなにゆっくりした速度で自転車を走らせる事はありません。
しかし(当然ですけれど…)大人の女性である美帆さんと憲太の小さな弟とではワケが違います。
当然ペダルを漕ぐ重さもいつもとはずいぶん違います。(それはもちろん美帆さんには決して言えない事でしたけれど…)。
本格的に疲れが来る前にペースを掴んでゆっくりでも確実にばてないように進むしかありません。
走り出してすぐに愛しの恋人の重さを悟った憲太は静かにそう決心していたのでした。
太陽が昇り始めると国道を走り続ける自転車のすぐ右側には眩しい光が溢れていました。
真っ白にも見えるくらいに薄らとした青の海が広がっています。
「わぁ…綺麗ね」
眼前に広がる海に美帆さんは声を上げました。
とはいえもう1時間以上も自転車を漕ぎ続けている憲太にはそんな言葉もちょっと遠くで聞こえる思いだったでしょうけれどね。
憲太の着ているTシャツの背中がうっすらと汗ばんでいることからも、もちろん美帆さんだって彼の疲れは分かっています。
それでもこの海の美しさから受けた思いを二人で共有したかったから、思わず声を上げたのでした。
「ん~…潮の匂いがするわね」
「うん、もうすぐそこだから」
「海に入れるかしら?ちょっと足だけでも…」
「まだ寒いから…足を浸けるだけでも、多分まだ早いと思うよ」
「そう…なら浜辺でデートだけね」
あえてデートという言葉を使ってみた美帆さんでしたけれど、憲太はまだそんな単語についドキッとしてしまうほど初心です。
それでも美帆さんが満足そうに悪戯っぽく微笑むと憲太の疲れも緩やかに癒されるようでした。
風はますます潮の匂いを濃くしていきます。
運転手の憲太はかなり疲れてきてしまっているようですので、もしかしたら帰りはバスに自転車を積んで帰ってきた方が良いのかもしれません。
そう美帆さんは思いましたけれど、もしそれを言ったら憲太はきっと意地でも美帆さんを後ろに乗せて自転車を漕いで帰り道を行こうとするだろうと思いました。
憲太は美帆さんと結ばれてからというものの、憲太は元来の素直さとは別にそうした子供っぽい意地のような芯の強さを見せるようになってきていましたからね。
そうした芯の強さを憲太が見せ始めた事は美帆さんにとっては微笑ましく、時に少しだけ寂しく、それでいてちょっとだけ頼もしくも感じます。
だからこそ憲太は10キロも離れた海まで美帆さんを自転車に乗せて連れて行くなんてデートを口にしたのでしょうし、美帆さんもOKしたのでしょう。
美帆さんにとってはそうした憲太の思いが重荷にならないかとも思いますけれど、どうしようもないほど嬉しさもこみ上げてくる事も確かなのです。
ですから憲太が疲れてしまっている事は分かっているけれど、運転を替わろうかとかバスに乗ろうよなんて憲太が怪我でもしない限り言わないようにしようと美帆さんは決めていました。
時間はたくさんあるのです。
疲れたら休んで、またゆっくり走りだせばいいんです。
少しずつ波音がより近づくごとに大きくなるよう聞こえてきます。
その音に勇気づけられるように憲太はペダルを漕ぐ力に強さが戻りました。
小柄で内気な少年には似合わない力強さを見せだした憲太に美帆さんはちょっと意外に思いましたけれど、やがて自らの身体を小さな背中に預けました。
海の匂いを帯びた爽やかな春風が美帆さんの長い髪をさらさらとそよがせると、二人は一つに溶け合ったように身を寄せ合います。
目的地に近付いた自転車は滑る様に走って行きます。
近づいてきた海はキラキラと午前中の太陽の光を波間に反射して光っていました。
砂浜に人影は見当たりませんでしたけれど、ずっと遠くにゆっくりと小さな船が動いています。
目の前に映る世界は確かに動いているのに、一瞬一瞬がまるで映画のフィルムのようにあるいは絵画のように見えるほど美しく切り取られた風景です。
何もかも煌めくように見えるけれど、二人はちっともそれが不思議に思ったりはしません。
恋をしていると世界はこんなにも美しいのです。
その事を美帆さんはそのことをずいぶん久しぶりに思い出しましたし、憲太は生まれて初めて知りました。
年の差は二人の経験の差を如実に表しますが、今の二人にそれはあんまり関係のないことです。
今、二人は同じ風景を見ながら、同じように潮風を頬に受け、同じ事を感じていましたからね。
美帆さんは鼻をこすりつけるように小柄な少年に押し付けると全身で憲太の背中の暖かさと力強さを胸一杯に感じます。
少し勢いを取り戻した自転車を風に舞う桜の花びらが祝福するように包み込みました。
完
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