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世界はこんなにも  作者: 禁母夢
6/7

第六話 愛の力

憲太と美帆さんの住む町にも冬がやってきました。

例年あんまり雪なんて降らないのですが、この年ばかりは異常気象の影響でしょうか?

12月から何度も道路にうっすらと積もるくらいに降っています。

今夜もそんな一夜になりそうでした。


その日美帆さんは珍しく勤め先で残業する事になりました。

エアコンの送り込む乾いた空気のオフィスのことです。

空調が効いているため、寒くはありませんが油断をするとすぐに喉を痛めてしまいそうです。

美帆さんはふとキーボードを叩く指を止めると、ビルの向こうの暗い空を見上げました。

今日は朝からパソコンに向かっていますから、少し肩や首に疲れを感じてはいます。

けれど、美帆さんの頭に浮かんでくるのはそれとまた別のあることでした。

いえ、このところずっとそうなのです。

ずっと美帆さんの頭の中を支配しているもの。


仕事の手を休めたまま、そのままふと考え込んでしまったのでしょうか。

美帆さんはぼんやりとキーボードの横に肘をついて、頬を両掌で押さえていました。

モニターの中ではさっきまで打ちかけていた意味をなさない文章が点滅しています。

「あすいがおあとtrmghぁr…憲太…たけrがおそえあご…憲太…」

美帆さんは自分が打ったその文字列を見るともなしにモニターを見つめています。

その口は半開きで、目もどこかうつろで美帆さんらしくないちょっとだらしのない表情なんです。

美帆さんの様子を心配したのでしょうか。

隣で仕事をしていた同僚が美帆さんに声をかけます。

しかし、そんな同僚の呼びかけも右から左に通り過ぎるようで何も頭には残りませんでした。

思い浮かべるのは近所に住む一人の少年の事。

そう、憲太の事でした。

どうしても憲太の事を考え始めると、何も手に付かなくなってしまいます。


ここのところ、ずっとそうでした。

二人でお出かけ出来ないものの、想いは一向に冷める気配がありません。

こんな想い、自分の年と相手の年を考えたら成り立つわけないのに。

そう自分で冷や水をかけても、何度も何度も火種は甦ってくるのです。

そして火種が甦るたびに自分の想いを再確認させられ、少しずつもっと強くて大きな炎になっていくのでした。


「ねぇ、少し休みません?…だいぶ疲れてきてないですか?」

少し大きめに声をかけてきた隣に座る同僚の言葉で美帆さんは急に我に返りました。

そこで初めて美帆さんははっとした様子で同僚を見ると、ずいぶん心配そうに見つめていました。

美帆さんよりもちょっと年上のキャリアウーマンの奥村さんです。

数分間ぼんやりしていたため、美帆さんは一瞬後ろめたい思いを感じましたが、奥村さんはそれには気付かない様子でした。

慌てて美帆さんも取り繕うように言葉を返します。

「えっ?…え、えぇ。そうですね。ちょっと疲れているのかも…」


時計は既に九時を回っています。

契約社員とはいえ、依頼があればある程度まで残業はやります。

昨日に美帆さんの勤め先でトラブルがあったとのことでしたので、今日はずっと朝から根を詰めて作業を続けています。

基本的に元気な美帆さんでしたけれどさすがに頭がボウッとしてくるほどでした。


「ごめんなさいね。こんな日もあるって思っていても、あなたまで手伝ってもらっちゃって」

奥村さんは本当に申し訳なさそうに声をかけてきます。

男女に関係なくそうした気遣いが出来るかどうかで、管理職の器が知れてくるものですよね。

「ううん、いいんですよ。たまにはこんなこともありますよね」

たしかに日中は他の契約社員の人もいました。

でも、主婦の人はやっぱり家庭があります。

ですから、契約社員で独身かつ(これは他の契約社員の方には内緒ですが…)もっとも有能な美帆さんに夜までの残業が依頼されたのでした。

「あ、このあとみんなで打ち上げに飲みに行くんだけど…たまにはご一緒にどうですか?」

「飲みに…ですか?」


ふと考えます。

いつもなら契約社員である自分はそうした輪の中に加わるようなことはありません。

見えない薄い膜のような壁があるためで、下手に交わって契約社員の仲間の中でどう見られるか気にしていたからです。

でも今日は朝からずっと頑張ってきました。

それにたまには家に帰って一人で食事するよりはずうっと良さそうな気もします。

「えぇ。こんな遅くまで頑張ってもらっているし、こんな日こそみんなで…と思って」

そういって奥村さんは微笑みました。

仕事には厳しい方ですが、こうした気遣いも出来るため美帆さんにとっても尊敬出来る女性なのです。


やがて終わりも少しずつ見え始めてきた頃、最後の休憩を取ろうといって連れだって給湯室に向かった時の事です。

その時美帆さんの携帯が鳴りました。

確認するまでもなく、憲太からのメールです。

美帆さんの携帯は仕事用に持っているようなものですから、普段携帯にくる着信といえば迷惑メールか憲太からだけなのです。

一瞬笑みがこぼれそうになるのを堪えながら、美帆さんは携帯を取り出しました。

(まだ仕事終わらないの?)

憲太には珍しく、一行だけのショートメールでした。

短いメールなだけに寂しい思いをさせてしまったかと思い、ちょっとだけ心が痛みます。

もちろん短くてもやっと憲太からメールが来たという嬉しい気持ちも一緒に生まれた事も確かでしたけれどね。

(ごめんね。仕事はもうすぐ終わるけれど今日は仕事の仲間達と飲みに行って帰りはだいぶ遅くなりそうだから、先に寝てね)

それだけ送信すると、一緒に休憩しに来た奥村さんの顔を見て言いました。

「それじゃあ…たまにはご馳走になりますね」


会社を出ると時間はもう10時半を回っていました。

雪がうっすらと積もっているくらいですから、頬もヒリヒリと痛むほど冷えてきます。

美帆さんはバッグから携帯を取り出すと、着信を確かめました。

着信はさきほど憲太から来たのが最後です。

つまり、給湯室で確認してから来ていないということです。

追伸がなかったことにちょっとだけ美帆さんはがっかりしましたが、先に寝たのならそれはそれで心配をかけずに済むので、安心です。

とはいえ。

それでも、憲太の事がどうしても気になってしまいました。

憲太は今頃どうしているのでしょうか?

布団の中で美帆さんの夢でも見てくれているのでしょうか?


(え?)

美帆さんは一瞬見間違いかと思いました。

時刻は既に11時近くになっていますからね。

辺りにはこれからまた飲みに行こうとするスーツの集団や既にいい気分になっている人達も見受けられます。

ビジネス街から歓楽街までの間なら見慣れた風景ですよね。

しかし、ちょっとだけ見えた人影。

それはそんな街ではあまりに場違いなほど、小柄な子供のそれです。

遠目でしたけれど、その小さな影はキョロキョロと辺りを見回して不安げにも見えましたし、誰かを探しているようにも見えました。

小さな影はそのまま遠くの角を曲がって入っていきます。

ちょっとだけ立ち止まったまま、思考する美帆さん。

少し見えただけでしたが、たしかに見覚えがあるような人影でした。

それもとても大切な人の。

けれど…今こんな時間にこんなところにいるはずがありません。

冷静に考えればそう思います。

でも…もしも。

もしもそうだったら。


急に立ち止まってどこか遠くを見つめたままの美帆さんを会社の同僚達はちょっと不審に思って遠巻きに見ていました。

それから急に振り返った美帆さんに同僚達はビクッと反応します。

「ごめんなさい。今日は急用が出来てしまって…これで失礼しますね」

突然の美帆さんの言葉に奥村さんはただならぬ迫力を感じてちょっと引いてしまいます。

「えっ?どうしたの?急用って今から…?」

その奥村さんの言葉を聞き終わる前に美帆さんは駆けだしていました。

7cmあるヒールがちょっと高い仕事用のブーツがカツカツと気忙しく音をたてます。

そのまま脇目も降らずに真っ直ぐ、小さな人影が曲がって行った角へ向かいました。


曲がった先はこの歓楽街地区のメインストリートでした。

当然週末の夜ですから通りには無数の人混みが溢れています。

通りの奥に向かっていくにぎやかな学生達。

こちらに向かってくる赤ら顔のサラリーマン達。

ガードレースに腰掛けて話し込んでいる若者達。

街路樹にもたれかかって携帯をいじっているお姉さん。

ティッシュを配っているサンタ姿のお兄さん。

看板を持って呼び込みをしているおじさん。

誰かと携帯を使って大声で話しながら歩いている若い女の子。

しかし。

(いない…)

もう美帆さんの頭から見間違いや、人間違いの可能性はすっかり消えています。

あれは間違いなく憲太なのです。

一瞬の違和感はすぐに疑念となり、今や確信となって美帆さんを突き動かします。

美帆さんは辺りを見渡しながら人波をかき分けるように走っていきます。

こんなに必死に走ったのはもう何年ぶりの事でしょう?


どこまでも走って行ってもそれらしい姿は見えません。

焦りは焦りを呼んで、携帯を使うという考えさえ浮かびません。

空からはちらちらと雪が舞っていますが、頭に血が上った美帆さんの頭を冷やすにはちょっと量が足りないところですね。


(憲太…憲太…!…憲太…っ!)


まだまだ子供だと思っていたはずでした。

おとなしくて素直で今時らしくない礼儀正しい子で、すごく優しい憲太。

照れたような表情、ふと遠くを見つめる表情、まっすぐ自分を見つめてくれる表情。

彼の瞳には年には似合わないほどの慈愛を感じられます。

口先だけでない本当に心優しい性根が伝わってくる憲太のつぶらな瞳。

ですから憲太に見つめられると、美帆さんはどうしようもないほど心が舞い上がってしまいます。

その瞳に見つめられるだけで美帆さんは遠い不幸な過去からも、心の傷からも、救い出されるのです。

それが美帆さんの大好きな憲太なのです。

そうなのでした。

いつしか美帆さんにとって憲太は大好きな存在になっていたのです…!


懸命に走り続けましたが、目当ての人影を見つける前に通りの終わりにまで来てしまいました。

メインストリートを抜けるといつしか周囲は薄暗く、怪しげなネオンがけばけばしい雰囲気を漂わせています。

(馬鹿馬鹿馬鹿っ…こんな時間にどこをほっつき歩いているの?)

そこまでずっと走ってきて息を切らした美帆さんはやがて呼吸を整えるためにゆっくりと歩き出しました。

胸を押さえて息を整えながらも通り過ぎる路地をのぞき込み、息が整ったらすぐにでもまた走りだそうと早歩きを続けます。

周囲にはさきほどのような華やいだ街並ではなく、うらぶれた雰囲気さえ漂っています。

もしこんなところにいるのならすぐにでも連れて帰らないと…。


「ねぇねぇ」

背中に若い男の声に声かけられました。

探し求めている少年を思い浮かべて反射的に美帆さんは振り替えります。

しかし、一瞬の期待はすぐに裏切られました。

そこにいたのは憲太ではありませんでした。

まだ少年といっても過言ではないくらい若い痩せた男の子でしたが、その瞳にあんまり年相応の健全さがありません。

頬がこけていてそれなりに顔立ちも整っていて格好良いと言えなくもないのですが、なんとなくカラスのようなひねたように笑う口元がネオンに照らされて不気味です。

おまけにどことなく不健康そうで、顔色もちょっと良く見えません。

「お姉さん何してんの?良かったら遊ばない?」


…沈黙。

面倒に関わりたくなかった美帆さんはこういう時のセオリーくらいは身に付いています。

こういうときは一切言葉で応じてはいけないのです。

言葉は会話を呼び、会話は付け入るすきを与えてしまいます。

黙ったまま立ち去ろうとすると、男は思ったより素早く目の前に回りこんできました。

「…なに無視してんだよ」

さっきちょっと怪しい雰囲気を漂わせていた彼はもう正体を現そうとしています。

美帆さんは胸の奥が重ったるくなるような不吉な予感がします。

なおも黙ったままその脇を歩き続けようとするとついに腕を掴まれてしまいました。

「無視すんなって…。むかつくな、おい」

一瞬身を堅くする美帆さん。

いくら気丈に振舞っているつもりでも、さすがに男性と力比べは出来ません。

不安と恐れが急激に膨らんでくるのを感じながら、それでも弱気を見せずに震えないように大きな声を出そうとした時です。


ふいに近づいてきた小さな足音に美帆さんと男が振り返ります。

大人ではない事がその人影の大きさから窺えますが、向こうの車のヘッドライトが逆光になって正体は分かりません。

小さな人影は走りながらイチローばりにステップを踏みながら思い切り振りかぶりました。次の瞬間男の鼻頭には硬くて熱い物が顔にめり込むくらいに直撃します。

それは地面に落ちるとカンッと高い音を立てて、転がっていきます。

至近距離からの中身入りコーヒー缶のレーザービームでした。

(本来なら憲太は横浜ベイスターズファンであるべきでしょう。けれど今どきの少年の憲太にとって日本のプロ野球より日本人メジャーリーガーの方がずっと馴染みがありますからね)

男はあまりの激痛に低く唸ってうずくまります。

立ちあがるにはあまりに強烈すぎる痛みと衝撃でした。

そのままうずくまる男の脇を小さな影が駆け抜けて近寄ってきました。


(憲太!)

美帆さんはその影の正体にすぐに気付きます。

二人はお互いの正体を見極めると言葉を発する前に手を取り合って駆けだしました。

相変わらず男はあまりの痛みに後を追う力も出なかったのか鼻を押さえてうずくまったままです。

そのまま振り返らずに二人は夜の街を走り続け駅まで辿りつくと、タクシーで住んでいる町まで帰りつきました。


車中で聞いた話では憲太は両親に内緒(当然と言えば当然ですけどね)で窓から出てきたといいます。

ですから町に帰ってから二人で一緒に憲太の家の様子を窺いましたが、ひっそりと静まり返っていました。

どうやら憲太が外出した事に両親は気付かなかったようです。

それを確認してほっとした二人はとりあえずそのまま美帆さんの家に向かいました。


美帆さんの家は誰もいないから、いつも以上にひっそりと静まり返って見えました。

近づいてきた足音がよく知っている二人であることを見抜いていた番犬のコージ(寝込んでいた春から間もなく元気になったのです)が激しくしっぽを振りながら鼻を鳴らして喜んでくれました。

しかし、時間も時間だったので美帆さんはコージにシーっと静かにする様に言い聞かせました。

もっと喜びたかったのですが御主人に窘められては仕方がないので、コージは首をすくめます。

その様子がちょっと可哀想だったので憲太は通り過ぎる時そっとコージの頭を撫でてやりました。

ずいぶん遅くまで一匹で留守を守ったにしてはちょっと寂しい褒められ方でした。

本当なら抱きついて鼻を擦りつけたりして、情熱的に留守番の務めを労って欲しいところです。

しかし彼なりに自分の務めを果たしたつもりのコージはご主人の帰宅にようやく安心すると犬小屋に入り、毛布に潜り込んで安らかな眠りについたのでした。


もう夜も遅いため、あまり音をたてないように二人はシャワーを浴びました(別々にですよ!)。

それから美帆さんはパジャマに着替えて長い髪を乾かしながらリビングに行くと、憲太はまだホットミルクのカップを手にぼんやりしていました。

やはり子供にはあまりに刺激的すぎる体験だったのでしょう。


「どうしてあんなところにいたの?」

美帆さんは向かい合うようにソファに座ると、出来る限り優しく声をかけました。

家に帰ってからずっと憲太は目を伏せて、一言も発してくれません。

「…大丈夫だから。お母さんには言わないから…ね?」

そして美帆さんは両手で憲太の手を包み込むようにしました。

憲太は手から伝わってくる美帆さんの手の温かさから、彼女の優しさまで伝わってくるようだと思いました。


「…今日だいぶ遅くなりそうって言ったから。」

「…え?」

「珍しく今日はだいぶ遅くなりそうって言ったから…飲みに行って帰りが女性一人じゃ危ないし…って……」

そこで初めて美帆さんは愕然としてしまいました。

あいた口が塞がらないとはこの事でしょうか。

それは憲太に呆れているのではありません。

自分の迂闊さにです。

今日はたしかに急なトラブルのために、予定を変更して残業して会社で仕事をすることになりました。

でもそれはあくまで子供の憲太には関係のないことです。

残業すればたしかに夕方一緒に二人で帰れるチャンスは無くなりますけど、それは言っても仕方のない事であって…。

でも。

好きな女性の帰りが遅くなると言うなら、やっぱり心配するのが普通の男です。

しかも飲みに行くなんて言われたら、その仲間に男がいるんじゃないかといらない事まで考えてしまうでしょう。

出来る事なら好きな女性には自分がいないところにお酒を飲みに行って欲しくはないのが本音です。

ですからたとえ少年でも、つい家を出て彼女の仕事が終わりそうな時間に会社の近くまで迎えに行ったのです。

それはたとえ美帆さんが大人で、憲太が子供であっても関係のないことなのですよ。

ただ憲太は美帆さんが勤めている会社の場所をはっきりとは知らなかったから、迷ってしまっただけで…。


「…私を心配して迎えに来てくれたの?」

美帆さんの問い掛けに憲太は答えませんでした。

けれどそれはきっと迎えに行ってしまった照れと道に迷ってしまったことへの恥ずかしさからでしょう。

何も言わない憲太の様子を見て、その真意を悟った美帆さんは自分でも気付かない内に涙が溢れてきました。

その感情を説明する事はきっと誰にも出来ない事でしょう。


こんな美帆さんの気持ちは間違っていると他の人は言うかもしれません。

大の大人が本気で自分の子供みたいな年の異性に恋をするなんて、と。

そんな事は本当に馬鹿げた思い込みだと言って笑われてしまうかもしれません。

多くの人は憲太くらいの年頃の子供には恋愛経験なんてないのだから、美帆さんがただ子供をたぶらかしただけだとも言うでしょう。

あるいは美帆さんは夫を亡くしてしまって心を病んでいるとか、小児愛好者だとか、ひょっとしたら犯罪者と呼ばれてしまうかもしれません。

残酷なことかもしれませんけれど、それが現実というものだということは美帆さんも分かっています。


でもね。

でもですよ。

ひょっとしたら、ですけどね。

やっぱり…二人の方が正しいかもしれないでしょう?

もしかしたら世界が間違っていて、二人の方が正しいかもしれないじゃないですか。

そう思いませんか?


美帆さんは自分が不思議でした。

憲太の言葉を聞いて、驚くと同時にどうしようもないほどの熱い思いが湧きおこってきたのです。

そんな気持ちになったのはひょっとしたら生まれて初めてかもしれません。

いつしか、美帆さんは憲太を強く抱きしめていました。

いえ、抱きしめたいしそれと同じくらい抱きしめられたいと願っていたのです。

それは憲太もまったく同じ気持ちでした。

ですから二人はすぐにどちらが抱きしめているのかわからないほど、強く抱きしめあっていました。

憲太の腕が肩に背中に食い込むほど締め付けられると、美帆さんは自分の心の奥の最も硬い部分が粉々に音を立てて砕かれるような、静かに溶けていくような感覚を覚えました。


それは本当にごくごく当たり前の感情です。

好きあう二人がお互いの気持ちを確かめあったのです。

言葉は何も紡がれません。

あの花火の日以来のずいぶん久しぶりに唇を重ねました。

唇が触れあうと、美帆さんの心に溢れそうなほど張りつめていた何かが堰を切ったようでした。

美帆さんは自然と溢れだした涙を憲太に見せまいと彼の小さな肩に顔を埋めて隠しました。

そのまま何度もキスを繰り返しながら、強く強く抱き合います。

憲太は夢にまで見た美帆さんの暖かさに触れた事で興奮がすっかり高まってしまいましたけれど、不思議と心の奥底では落ちついているようでもあります。

本能によるものなのか、あるいは精一杯の虚勢なのか、憲太はこれから起ころうとする事を怖がってはいけないんだ、と思いました。

怖気づくな、しっかりしろ。

滑稽なほど、憲太は自分を心の中で励ましていました。


美帆さんの寝室に行くとヒーターのスイッチを入れて、ベッドに腰掛けました。

部屋が暖まるまでの間、二人そのまま少しだけ話をしましたが、やけに昂った興奮もあって少しも寒さを感じません。

その体格の差だけをとってみればまるで不釣り合いな成熟の差がありましたが、二人にはもう何の関係もない事でした。

いつかとは違い、もうそれを意識しない訳にはいきません。

それはまた憲太も同じです。


その夜は本当に綺麗な満月でした。

昔から月の光には人の心を惑わす作用があると言われてきましたが、この二人にもその影響を及ぼしたのかは定かではありません。

きっと二人ならきっと月が出ていなくても、導かれるようにそうなっていったでしょう。

美帆さんの表情はもう覚悟を決めているように、彼岸に渡っています。

憲太ももう恐れはなくなり、今はただ目の前の美帆さんだけに集中していました。

二人の瞳にはお互いだけが映り、世界はもう二人のものでした。

窓の外には雪が優しく降り続いていました。

二人の秘め事が誰にも覗かれないように聞かれないように。

世界から二人を守る様に優しく包み込むように。


雪の降る音ってわかりますか。

既に雪が降り積もってから屋根がきしむのとはまた別物です。

真っ白な雪の結晶がシンシンと降り注いでくる時にだけ聞こえてくるあの静かな音。

二人の身体は強く抱き締め合ってこれ以上ないほどに密着しました。

心まで重なり始めると、美帆さんも憲太もうめくように声を漏らし始めます。

それから二人の声も幾つかの物音も徐々に激しさを増していきましたが、全ては雪の降る音に消えていきました。


翌朝まだ明るくなる前に憲太を起こすと美帆さんは家まで送って行くことにしました。

冬の朝の静かな町並みはよく冷えていますが、二人の頬はいまだ熱が冷めやる様子はありません。

時折美帆さんは手を繋いでいる小さな恋人を見つめます。

小さな瞳もまた自分を熱っぽく潤んだ瞳で見つめ返してくれています。

すると冷えた冬の朝だというのにさらに体温があがってくるようでした。

やがて辿りついた憲太の家の門をそっと開けると憲太は足音を忍ばせて庭を進んで行き、自分の部屋の窓をそっと開けると部屋に入り込みました。

そこまで見届けると美帆さんは少し名残惜しそうに再び一人で家路につきました。

ちょっとした罪悪感とそれよりもずっと大きな幸福感に包まれ、憲太と一緒にいたさっきまで必死に堪えていた笑みがついつい浮かんでしまいます。

寝室のゴミ箱に残っている昨夜の痕跡も美帆さんにとっては幸せな思い出を甦らせてくれますからね。

窓の外を見ると遠くの山の稜線が明るみ始めていました。

遅いと言われる冬の夜明けももうすぐなんですね。


ご読了ありがとうございました。

もしよろしければ評価・ブックマーク・感想等を頂けたら幸いです。

また機会がありましたらよろしくお願いします。

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