第五話 二人の一人ぼっち
恋する乙女に悩みは尽きません。
それは今年3…歳になる美帆さんだって例外ではありません。
ダイニングのテーブルに頬杖をついたまま、もう一時間以上経っています。
それどころか食べ終えたパスタやサラダの食器も片づけていないままです。
そのままの姿勢で彼女は再び今日もう何十回目かも分からないほどの深いため息をはきだしました。
美帆さんの頭の中では一日中様々な事が駆け巡っています。
学生時代は成績も良い方で、大学だって国公立に照準を絞って受験したくらいの美帆さんです。
今の憲太と同じ年頃には通知表にたくさん花が咲いていたくらいの優等生だったんです。
頭の回転だって同世代の平均よりはおそらく上の方ではないでしょうか。
けれど、そんな事はちっとも役に立たない事が世の中にはたくさんあります。
美帆さんにも苦手な事はたくさんありました。
たとえば体育で長い距離を走る事は苦手でしたし、図工ではゲージュツとしか呼びようのないものを作ってしまうこともしばしばでした。
そしてまた、美帆さんはこうした感情の扱い方もあまり得意ではありませんでした。
(なんで私がこんなに…あの子はまだ子供なのに…)
そうです。
彼女をこんなに悩ませているものの正体は一人の子供なんです。
ちょっと茶色がかった色素の薄い髪と、黒い瞳。
その瞳はいつも真っ直ぐで、キラキラと輝くように美帆さんを見つめてくれます。
熱っぽいというにはあまりに純粋な眩しいその眼差しに、美帆さんはすっかり参ってしまっていたのでした。
時計の針は既に夜8時を回っています。
美帆さん一人しか住んでいないこの家のダイニングは実に静かです。
10月も終わり際に差し掛かったとはいえ、まだ冷え込むほどではありません。
テーブルの上の携帯電話を手に取ります。
メール画面を開くと、そこには同じアドレスからの着信メールが無数に残っていました。
今まで美帆さんが憲太からもらったメールの数々を読む内に、体の芯から温まってくるようです。
思い起こすのは二人であの花火を見に行った日の事です。
夜空に大輪の花火が花開いていたあの日、美帆さんは憲太と初めて唇を重ねました。
柔らかくて小さな憲太の唇の温かさを感じながら、腕を首に回して息も出来ないほど密着したあの時のこと。
考えているとそれだけで美帆さんは心も体もポカポカと温まってくるようでした。
成り行きとはいえ美帆さんは憲太のペニスを手で射精に導いた事があります。
憲太が初めて美帆さんの家に上がったあの日、午後のお茶を楽しんだ春の日のことです。
しかし、その思い出とお互いが望んで唇を重ねる事はまったく別なのです。
美帆さんはそうすることを望み、憲太もまた同じようにそうすることを望んだのです。
それは決して誰のせいでも何のはずみでもなく、二人が互いに望んでそうしたのです。
そのことを思うと美帆さんはいよいよ頭の芯が熱くなり、思わず両掌で頬を押さえてしまうほどドキドキしてきます。
考えるほど息苦しくなり、息苦しくなるほど呼吸が乱れ、美帆さんは胸を手でそっと押さえて息を整えました。
さっきまで頭を駆け巡っていた悩みは吹き飛び、心の中は憲太の事ばかりです。
憲太のメールが来て欲しい。
憲太に電話したい。
憲太の声が聞きたい。
少しだけでも。
はぁ…。
ここにもまた秋の夜のため息は飽和していました。
まだ与えられて半年ほどの一人部屋で憲太はベッドの中で悶々としています。
それはまだあの日の事がどうしても脳裏から離れないからです。
あの時の花火、蒸し暑いほどの熱帯夜、そして美帆さんの唇、洗い髪の香り、柔らかな体、押し付けられた豊かな乳房…。
どれもあまりに濃密で鮮烈な思い出の数々です。
いつか夏の日の感傷にしてしまうにはあまりにもまだ時間が経過していませんからね。
もちろん花火の日からも美帆さんとは毎日メールを欠かしていません。
でもあの日の事に二人がメールで触れる事は決してありませんでした。
それどころか、二人の間で親密さが増したようにもまだあまり思えません。
どうしても美帆さんにまだ一人の男としてとして見てもらえていないような気がします。
どうすれば「そういう対象」として見てもらえるんだろう?
大人の美帆さんは「愛してる」って言われないとそういう気持ちを憲太が持っているとは伝わらないんでしょうか?
いつしか憲太の思考はそのことばかりに囚われていました。
大人の美帆さんが子供の憲太を好きになってはいけないんでしょうか?
子供の憲太が大人の美帆さんを好きになってはいけないんでしょうか?
どちらかといえば子供に恋する大人の女性の方が辛いものだと大人の人なら分かるかもしれません。
好きになってしまった自分自身に対する戸惑いや嫌悪感、不信感。
自身の年齢への不安や年の差、世間体や相手の親のこと。
あるいは相手がいつか自分を見捨ててしまうのではないかということ。
そしてこの恋がいつまで続くかっていうこと。
美帆さんに悩みと不安の種は尽きません。
いつかこの恋は愛に変わるのでしょうか?
それともこんな想いなんて所詮錯覚だったと、いつか夢から覚めてしまうのでしょうか?
憲太にはまだ愛なんて難しいものはわかりません。
いくら年齢よりはちょっと小難しいことを考える事が出来たって、子供の心の中は実に単純なものなんです。
子供のそのほとんど全ては二元論で成立しているからです。
好きなものと嫌いなもの。
やりたい事とやりたくない事。
楽しい事と楽しくない事。
良いものと悪いもの。
そして大好きなものと大嫌いなもの。
全ては極端に振れており、それらがゆらゆらと振り子のようにゆらぎながら、渦巻いているだけです。
ただし幼いながらにも憲太には自分が恋をしていることは分かっていました。
美帆さんのことを考えると胸が痛みます。
すごくすごく痛んできます。
メールが来るとすごく嬉しくなります。
すごくすごく嬉しくなってしまうのです。
いつしか憲太は一日中美帆さんに逢いたくなっていました。
学校にいても早く授業が終わらないか時計の針ばかり気にするようになっています。
学校からの帰り道はもうはっきりと美帆さんの姿を探すようになりました。
逢えない日は本当にがっくりくるし、逢えた日は本当に天にも昇る気持ちです。
そんな時は1分でも長く一緒にいたいと心から願っています。
でも。
二人で一緒に歩いていると逆に思い知らされることもあります。
すぐ隣を歩いていても、美帆さんと自分ではどうにもならないのです。
手を繋いで歩くには憲太は少し大きくなりすぎています。
腕を組むには憲太はまだあまりに小さすぎます。
そして、憲太の美帆さんを思う気持ちさえ美帆さんにはまだ本当に深くは伝わっていないのです…。
憲太もやっぱり一人の年頃の男の子ですからね。
好きな女性の事を思い浮かべます。
落ちついた品のある物腰。
優しげで穏やかな瞳。
温かみのある笑みを浮かべた口元。
綺麗な長い腕や脚。
今年の春、美帆さんに抱き締められ、生まれて初めて女性を意識しました。
もっともそれは本当にその時の成り行きについ、といったアクシデントのようなものです。
だから憲太にとってその思い出はドキドキを別とすれば恥ずかしい思いの方が強く残っていました。
「美帆さん…」
憲太は小さく口に出して呟きます。
小さな声なのに決して家族の誰にも聞こえないように掛け布団を口に押し当てています。
美帆さんの名前を口にするだけで、憲太の胸がいっぱいになります。
頭痛がするほど、頭の中を想いが駆け巡ります。
そして心の中がざわめいてくるのです。
美帆さんの暖かい記憶を辿ろうと直接触り始めました。
「美帆さん…美帆さん」
近所の美帆さんに届いて欲しいと願いながら、憲太は声に出しました。
そしてあのキスした時のように、唇は切なく美帆さんの紅い唇を求めます。
「ぁ…はぁ…ぁ…ん…」
憲太の心の中の美帆さんは微笑んでいます。
いくら普段は痩せて見えても、30歳を過ぎてから少しだけですけど美帆さんはスタイルもふっくらしてきました。
そんな自分の加齢による体型の変化を少し気にしてか、美帆さんは照れたように微笑んでいます。
美帆さんはくすぐったそうにも、悩ましげにも感じられる表情をしたまま顔を伏せてしまいました…。
憲太はそのままベッドに横たわると片腕で両目を覆うように押し当てました。
その時憲太は自分でも知らない間に涙がにじんできてしまっていたことに気付きました。
美帆さんに興奮を覚えている事に、憲太はまた嫌悪感に抱かれてしまいました。
思春期にとって異性への好意はいつも自己嫌悪の裏返しでもありますからね。
好きな人を思うだけでも、なんとなく気まずいような気になってしまいます。
自分の想いは性欲が先行しているのではないか、という恐れも抱いてしまいますからね。
自分のこの気持ちが純粋な恋でないなんて、なんだか嫌で仕方ないのです。
性欲が混じっては想いの純度が失われてしまうような気がしますから。
でも、もちろんそれも恋の形なんですけどね。
好きな相手だから体ごと欲しくなるのはごく自然な感情なのです。
でもまだそれが分かるには恋の経験がちょっと不足しているのかもしれません。
小さくため息をまた一つつくと、美帆さんはベッドに深くもたれかかりました。
脳裏に浮かぶのは、あの。
数百m離れたところで、二人は同じタイミングでまた深くため息をつきました。
これからまたしばし悶々とするも、ウトウトと眠りこむのも夜の自由です。
秋の夜は誰にでも長いものですけれど、恋する者にはなおさら長いのですね。
ご読了ありがとうございました。
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