第四話 花火
約束は守らなければいけません。
誰もが子供の頃から言いきかされてきた事です。
まして大の大人が自分から口にしてしまった以上、もう覚悟を決めて出かけるしかありません。
呼吸を整えて、美帆さんは精一杯今日を生きようと決意しています(…ずいぶん肩に力が入っていますけどね)。
メールを打ち終えてからすぐに(憲太の返事さえ待たずにですよ)美帆さんはずいぶん久しぶりに力を入れて化粧を始めました。
何年かぶりに若い頃のように下着を少し明るい色に着替えて、しまってある浴衣を押入れから出しました。
憲太と…自分よりもずっと年若い男の子とちょっと花火を見に行くだけなのに。
夏休みに入ってからメールは頻繁にしていても、二人が実際に会うのはこれが初めてです。
いえ、もっと言えば二人で約束してから会うのも初めてなのです。
約束して、二人で会って、出かける。
これってやっぱり…。
準備をしながらも美帆さんはそれ以上の思考をしないようにしています。
取り出した昔の浴衣に少しまごつきながら着付け、髪をかき上げると赤いリボンで結びました(昨日の内にもう美容院まで済ませていますよ)。
そこまでやってしまうと姿見に自分の姿を映して、くるっと回って念入りに確認します。
落ちついた藍色の浴衣に流れる桃色の幾重ものラインがちょっと若い子向けのようにも見えます(もっとも美帆さんがずっと今の憲太よりちょっと年上くらいの頃に買ってもらったものですからね。若い子向けなのも当然なのですよ)。
美帆さんも自分のしていることながらちょっと滑稽だと思うくらいです。
(いい年して私何してるんだろう?)
一人身が長くなったために、美帆さんは自分が本当におかしくなってしまったかもしれないと思いました。
時刻は午後5時半になります。
都筑インター近くの神社での待ち合わせです。
まだ畑も残っているような田園地帯は都心部から一時間もあればらくらく来られるとは思えないくらいです。
五時半という時刻は憲太くらいの年頃が出歩き始めるにはちょっと遅いのですけどね。
もしもPTAの人なんかが聞いたら良い顔はきっとされないでしょう。
ヒステリックなおばさんなら夜遊びは不良の始まりだと怒り始めてしまうかもしれませんね。
とはいえ今日はお祭りですし何より大人も一緒なんですから、誰のおとがめもないでしょう。
5時ちょっと過ぎと約束の時間よりやや早めに来た憲太は本当に美帆さんが来てくれるのかちょっと信じられない思いでした。
あんな大人の女性と二人で出掛けたりなんて、からかわれているのではないかと思ってもいたんです。
大人の女性である美帆さんと二人で花火を見に行くだけで嘘みたいな出来事なんです。
それだけでも充分ドキドキする事なのに。
「こんばんは…お待たせ」
約束の5分前に現れた美帆さんは既に化粧を仕上げており、浴衣を身につけていました。
それはまさに30歳を過ぎた大人の女性の完成された美しさと品が感じられました。
とてもメールしてから大急ぎで準備を整えたとは思えないくらいです。
やっと慣れたはずなのに、久しぶりに逢ったこともあるからでしょうか。
憲太はうまく美帆さんの事を見る事が出来なくなってしまいました。
それから並んで歩きだしたら分かったのですが、ほのかに香水の香りさえ漂わせていました。
憲太が思っていたよりもずっと美帆さんが準備してきた事は幼いなりに少しは分かります。
だからこそ戸惑い、そして逆に自分があまりに子供に見えるのではないかと気になってしまったのでした。
夏の夕暮れ時はまだまだ充分に明るく、街並みを紅く照らしています。
隣を歩く美帆さんは横顔も髪までも紅く染め上げられ、まるで夢の中の出来事のようです。
あまりに綺麗な美帆さんを途中で何度も見上げました。
まだ美帆さんの方が背が高いため、どうしても見上げるような形になってしまうのです。
美帆さんに気付かれないようにちらちらと覗き見るようにしていたのに、なぜか美帆さんは途中で憲太の視線に気づいてにっこりと微笑んでくるのでした。
そうすると憲太は慌てて視線を逸らしてしまいます。
そんな憲太の少年らしい反応に少し微笑みながら、美帆さんはしっかり準備してきたんだから見ていいのに…という不満をちょっとだけ感じてしまいます。
時刻は間もなく、七時を迎える頃。
二人は町から少し離れた山のとある公園に来ていました。
憲太も低学年の頃は遠足で来た展望台のある公園です。
美帆さんに誘われるまま人気のない公園を通り抜けると、柵があって展望台の休憩所から町を見下ろせるベンチがありました。
展望台から望む景色はそんなに長い時間歩いていないはずなのにけっこうな絶景です。
それなりに歩いたためか美帆さんは少し汗ばんだ額を持ってきたタオルでそっと拭いました。
その仕草が色っぽく(という言葉を憲太は思いつきませんでしたけれどね。でもドキッとはしたのですよ)、また憲太は目を奪われてしまいます。
一息つくと少しずつ太陽が傾きだし、辺りは少しずつ暗くなってきました。
小さなベンチに二人並んでぴったりと寄り添うように座ります。
(そんなにくっつくの?)
そう憲太は思ったけど、聞かない事にしました。
憲太の体には美帆さんの体が密着し、嫌でも互いの体温も心音も聞こえてきます。
とはいえ憲太はまだ美帆さんの心音を気にするような余裕はまったくありません。
(美帆さん柔らかい…そして暖かい)
初めて触れる女性の身体から感じる感触から憲太は改めて美帆の体温の温かさ、体の柔らかさを知って驚きます。
いくら美帆さんが痩せて見えていても触れるとやはり女性的な丸みと肉付きがあるのでした。
もしもう少し憲太が大きければそんな美帆さんの肉体に直接的な欲望を抱いたかもしれません。
とはいえ、まだまだ子供の憲太には綺麗な美帆さんと密着してその身体を服越しに感じるだけでいっぱいいっぱいでしたけれどね。
そうして隣り合って座っていると、美帆さんもメール交換していた相手の幼さを改めて実感してしまいます。
実物の憲太は美帆さんよりもまだ身体も小さく、線も実に細いのですね。
その儚げなほどの容姿からは大人びたメールの文面からは想像できないほどです。
そしてそんな相手と毎日夢中でメール交換をしていたこと。
その事にときめきを覚えていた自分自身に美帆さんはちょっとだけ呆れてしまいました。
憲太に失望しているわけでは決してありません。
ただ相手の幼さも考えずにはしゃいでしまっていた自分がちょっと嫌になったのでした。
ふと至近距離で憲太の瞳を見つめました。
元々中性的な印象のある憲太です。
見つめると視線に気づいた憲太は実に可愛らしく小首をかしげています。
同年代の男のよりおそらく華奢で小柄な少年です。
あまり目を合わせていると少し照れてきたのか大きな瞳で長い睫毛が覆うように伏せられました。
時折憲太の優しげな黒目がちの瞳と目が合うと美帆さんも憲太の中に吸い込まれそうになります。
その時、暗さを増して展望台を空に打ち上げられた光が照らしだしました。
(ドオンッ!)
徐々に辺りを夜の闇を帯び始めた頃のこと、夕焼けよりももっと鮮烈です。
いつか見たかき氷のイチゴのようにわざとらしいほどの赤でした。
(ドオンッ!ドドドッ!)
続けて緑色の光が連続して打ち上がります。
こちらもかき氷のメロンを思わせるような鮮やかな、明るい色の緑光です。
点滅するように夜空に無数の光の瞬きが連続で起きました。
そしてその後の一瞬の暗闇。
花火の光のコントラストは鮮やかで光が消えるとまるで自分まで消えてしまいそうな錯覚を覚えます。
徐々に深まっていく暗闇に飲み込まれまいとするように花火は何発も空を照らし続けます。
その間にも少しずつ明るかった夏の夜空は闇の色が濃くなっていきます。
花火の時だけに訪れるあの心寂しい思いは自然と二人の心を駆け巡り、それはまたお互いの心にも伝わっていきました。
美帆さんは19歳の時に結婚しました。
お相手の男性は美帆さんより19歳も年上の男の人です。
当時美帆さんは大学生で、相手は大学の非常勤講師をしていました。
彼は冴えない感じの40近い男でしたが、朴訥で優しげな雰囲気を漂わせていた男性でした。
そんな彼に不思議と惹かれるものを感じた美帆さんはそれから1年も経たずに結婚していたのです。
美帆さんが人生で一番幸福を感じていたのはこの頃だったでしょう。
その7年後に美帆さんは26歳で旦那さんを亡くしてしまいました。
それから2,3年間の間はずっと泣いて過ごしました。
少しずつ立ち直ってきてさらに数年経ったのです。
旦那さんが亡くなってもう何年も経っていましたが今も美帆さんは心の中に出来た空洞を持て余していました。
これからの長い残りの一生をどうして生きていったらいいのでしょう。
時間が流れたところで旦那さんを失った悲しみの傷だって決して痛まなくなった訳ではありません。
もちろんまだ若く美しい美帆さんに言いよってくる男はいます。
美帆さんが未亡人だと知ってもなお、食い込もうとしてくる男だって少なくありません。
けれど若くして大恋愛の末に結婚した美帆さんでしたから、大切なのはそういう事ではありません。
美帆さんにとって重要なのはどれだけ人に愛されるかよりどれだけ人を愛せるかなのです。
もちろん愛されるから愛することだってあるでしょう。
美帆さんもそういう考え方を理解出来ない訳ではありません。
それでも美帆さんは誰かを愛したいのです。
そして愛しているから、愛されたいのです。
人が死ぬ時はたいてい誰もが一人です。
旦那さんを亡くしてから美帆さんにとって、死は身近なものになってしまいました。
おかげで自分が死ぬ事をなんとなく想像する事もあるのです。
でも…美帆さんもその時には誰かを愛し、そして愛された思い出に包まれながら死を迎えたいと思うようになりました。
美帆さんが一人で住むようになった家で暮らしを続けるうちにいつしか思うようになったのはそういう事です。
憲太は黙り込んでしまった美帆さんの横顔を見て何を考えているのだろうと思いました。
やっぱり自分のような子供と二人で花火を見ても楽しくないのかな?
そんな自分の想像に憲太はズキンとひどく胸が痛みました。
その内考え込んでいる間に美帆さんはすぐ隣に座っている少年が自分を見つめている事に気付きました。
なんだか不安げな表情で見上げています。
(いけないわ。…退屈させたのかと不安にさせちゃったみたいね)
「綺麗ね。本当に…」
そう言って安心させるように美帆さんはにっこりと微笑みました。
憲太はその夢とも現実ともつかない世界で美帆の笑顔に吸い込まれていくようでした。
光と闇のわずかな隙間、いつしか二人は互いを見つめあっていました。
「美帆さん…」
(ドオオオオンッ…!)
ひと際大きく広がった光の花。
どちらからともなく、手と手が繋がり合っています。
温かな手が、小さな手のひらを包みこみます。
(ドオオオオンッ…!ドオオオオオオオオンッ!)
大輪の花火が空いっぱいに広がるとその衝撃波のような音まで空気を震わせて伝わってきます。
憲太の前髪がピリピリと痙攣するようでした。
あまりにも音の大きさに光の眩しさに、二人の間の距離がよく見えなくなります。
(相手がどこにも行かないように)二人はもっともっと近づきます。
一瞬連続する光が二人を幾度も照らしだします。
夕闇に浮かぶ二人のシルエットはさらに密着し、やがて影は一つに重なりました。
(ドオオオンッ!………パッ!パパパ…!パパパパパパ!)
その激しい白い閃光が続く間、まるで時間が止まったようでした。
美帆さんの赤い唇と、憲太の小さな唇と引き寄せ合うように近づくと、ぶつかる様に重なり合っていました。
憲太の両腕は美帆さんの首に、そして美帆さんの両腕もまた憲太の首に巻かれて引き寄せ合いました。
(ドンッ!ドンッ!…ドンドンドンッ!)
漆黒の鍋底から火が吹きあげるように光の柱が立ち上っていました。
そのまま暗闇になっても構わずに二人は熱く熱く燃えていました。
「ん…ん…ん…ぅ…」
鼻からわずかに漏れた声も花火に掻き消されてしまいます。
もう花火も目に入らないほどに、お互いの小さな世界の中で二人はその唇で吸い付きあいました。
紅く彩られた美帆さんの唇が色の薄い憲太の唇に移り、溶け合うように同色化していきます。
二人の頭の中では花火の炸裂音がただのノイズのように鳴り響いています。
唾液の濡れたような音が耳の音で響いて、唇の隙間から零れて美帆さんの浴衣の胸元に膝に、そして憲太のTシャツの首筋にまで垂れ落ちました。
長い口づけの後、唇が名残惜しそうに離れると憲太は息が切れたように美帆さんの首筋にもたれるようによりかかりました。
美帆さんはそんな憲太の頭にそっと手のひらを置き、首筋に小さな吐息を感じながらたとえようもない幸せを感じていました。
花火が終わってから家まで美帆さんに送ってもらうことになりました。
玄関を開けた憲太がふと携帯を見ると、憲子からメールが四回も来ている事に気付きました。
どうも夢中になっている間にこんなにも着信を溜めてしまっていたようです。
時刻はもう10時半近くになっています。
憲太は夜遅くまで出歩くようなことはしなかったため、門限は決められていませんでした。しかし、10時というのは小学生の少年が出歩くにはもう立派に夜遊びの部類に入ります。
夏休みに入る前に学校で渡された夏休みの模範的な生活を示した紙には遅くとも6時には家に帰る様に書かれていたのですからね。
憲子としては息子がちゃんと晩ごはんを食べたのか、風呂に入ったのか、戸締りをしっかりしたのか気になったのでしょう。
憲太はおそるおそる来ていたメールの中で最後のものを確認してみました。
すると意外な事に既に憲太が美帆さんに連れられて花火を見に行った事を憲子は知っていました。
おそらくあらかじめ美帆さんから憲子にメールを入れておいたのでしょう。
母を心配させなかった事と怒らせなかった事を知り、ようやく憲太は胸をなで下ろしたのでした。
翌日の朝、学校に行くと担任の中富先生の運転する車で県の文化会館まで行きました。
車で中富先生の旦那さんのちょっと昔のクラウンで、クーラーがあんまり効きません。
生まれて初めて行った式典会場は県の中心部にある数千人も入りそうな立派なホールです。
普段なら会場を見ただけで今からたくさんの人の前で話さなくてはいけない事を思ってきっと憲太は緊張したことでしょう。
しかし昨夜の出来事で憲太はずっと頭がぼうっとしていたからか、緊張したのかしなかったのかも分からないままでした。
憲太が自分の作文を読み終えると会場内には聞いた事のないほどの大きな拍手が満ち、そこでやっと我に返ったくらいです。
ふわふわとしっかり歩けなくなりそうになりながらなんとか舞台の袖に戻ると、式典はまだ続くようでしたが、そのまま中富先生に駅まで送ってもらいました。
その途中中富先生は憲太の話振りを褒めてくれましたけれど、憲太は自分がどう話したのかまるで記憶が抜け落ちているように何も思い出せません。
いえ、美帆さんと唇を重ねたあの時からずっと夢心地のようだったのでしょう。
駅に着くと中富先生が教えてくれたように真っ直ぐ進むと新幹線の改札口が見えてきました。
初めて一人で乗る新幹線でも憲太はただただ窓の外をぼんやりと眺めていただけでした。
そして9時過ぎに着いた広島駅のホームには母親が迎えに来てくれていました。
さすがに憲太も2日ぶりに母親の顔を見てほっとする思いでした。
いくら二日前の別れ際にあれこれ言われてうっとうしいと思ったとしても、やっぱり少年にとっては母親の顔が何よりもほっとするんですね。
しかし憲子の顔を見たら、憲太の心の中で美帆さんとの思い出が思い起こされました。
母親に内緒でちょっとだけ悪い事をしたように後ろめたい思いも心の隅で感じたのです。
これもまあ、たいてい誰もが通る道ですよね。
それから憲太の夏休みが終わるまで美帆さんと会う事はありませんでした。
けれど、憲太の心の中にはあの日の花火と美帆さんの唇の感触が重なって一枚のフィルムみたいに焼きついたままでした。
ご読了ありがとうございました。
よろしければ評価・ブックマーク・感想等を頂けたら幸いです。
また機会がありましたらよろしくお願いします。




