『10』
「ぐはっ」
寮の自室へと戻ると、英人は玄関でそのままうつ伏せに倒れた。
「おかえりなのです」
英人の部屋で一日中ゴロゴロしていたシンシアは声を掛けたのち、心配そうに倒れている彼に近づいた。
「大丈夫なのです?」
「いや、大丈夫じゃない。主に右手が」
シンシアが英人の右手に視線を移すと、彼の右手はピクピクと痙攣をしていた。
まるで痺れているみたいだ。
藍に校則違反が見つかった直後。
英人は自室で反省文を書いて、職員室にいる藍の元へ提出した。
だが、藍は見た目や雰囲気とは裏腹にかなり厳しい。
それゆえ、少しでも反省文に物足りないところや、おかしい点があったら即再提出となる。
これを繰り返すこと十五回。
ついさっき英人はようやく反省文を藍に受け取ってもらえたのだ。
代償に、鉛筆を持っていた彼の右手に常に激痛が走っているが。
「もう文字なんて二度と書いてたまるか」
「そんなことしたら、テストゼロ点なのです。わたしと同じく留年してしまうのです」
そう言うと、シンシアは自身の右手を英人の右手に重ねる。
すると、いつかの温かい翠色の光が患部に注がれ、英人が感じていた先ほどまでの痛みが嘘だったかのように引いていく。
「これでもう大丈夫なのです」
そう言われ、英人は立ち上がったのち、右手の感触を確かめる。やはり痛みはない。
「悪いな、シンシア」
「大したことでないのです。その代わりに今日はベッドで寝かせて欲しいのです」
「追い出していいか? シンシア」
「だ、ダメなのですっ! ごめんなさいなのですっ!」
制服の首根っこを掴んで外へ放り投げようとする英人に、シンシアは必死で謝る。
それを見て、英人は徐に彼女を床へと下ろした。
「この前といい、今日といい、治療してくれたことは非常に助かった。だが、この部屋にお前を住まわせてやってるのは誰だ?」
「え、英人さんなのです」
「そうだよな。じゃあ食堂の晩飯を食いしん坊なお前に分けてやってるのは?」
「……英人さんなのです」
「そうだ。じゃあ毎晩お前の騒がしいいびきに我慢してやってるのは?」
「……英人さんなのです」
英人が問い詰める度に、シンシアの声が段々と弱くなっていく。
その絵面は叱る親と叱られる子にそっくりだった。
「もうわかったのです。わたしが悪かったのです。大人しく今夜も寝袋で寝るのです」
「わかったならよろしい」
シンシアとの口論(というよりは英人が一方的に言葉を放っていただけ)に勝利すると、ベッドに荷物を置いたのち服を脱ぎだした。
だが、唐突にとった彼の行動にシンシアは特に慌てることもなく、いつも通り床でゴロゴロと寝転がっていた。
「お前、俺の身体に見慣れてきたんじゃないか?」
「英人さん、誤解を生むような発言はやめて欲しいのです。
わたしだって、初めは英人さんが着替えるたびに目を覆ったり、壁の方を向いたりしていたのです。
ですが、こう毎日同じことをされては気にする方がバカらしくなってきただけなのですよ」
シンシアも留年したとはいえ女子高生だ。それなりに恥じらいもある。
男性の身体を見ることだって、抵抗がある。
だが、そんなシンシアの気持ちも考えず、英人は堂々と彼女の前で毎日着替えをしていた。
そのせいで、最近ではもう恥じらうことが億劫になってきたシンシアも平然と英人の身体を直視できるようになっていたのだ。
「だって仕方ないだろ。この部屋にはシャワー室なんて付いてないんだから」
この部屋、というよりは、勇者学校の寮には全部屋にシャワー室が付いていない。
なぜなら、寮内に生徒専用の大浴場があるからである。
「そういえば、聞いたのですよ。あなた、英国の貴族であるカレン・ベルージに模擬戦で勝利したそうですね」
「まあな。ってか、なんで知ってんだよ。お前、引きこもりなのに」
シンシアはじっと英人を睨みつける。
だが、彼はまだ着替えの最中で、それに気づいていない。
「言っておきますが、わたしは重度の引きこもりではないのです。ときたま、この部屋から出かけるときもあるのですよ。
そして、その時に偶然生徒同士が話しているのを聞いたのです」
「なるほどな……? ちょっと待て。シンシア、お前ここから抜け出してるときがあるのか?」
丁度着替え終わったと同時に、英人が質す。
「そうなのですよ。わたしもごく稀に外の空気が吸いたくなるときがあるのです」
「何やってんだよ。お前が俺の部屋から出るところを誰かに見られたらどうするんだ」
「大丈夫なのです。わたしはそんなヘマはしないのです」
自信ありげに胸をぽんと叩くシンシア。
それに英人は呆れるように深く溜息をついた。
(この学校の外国人にはまともなやつがいないのか)
「それにしてもすごいのです。あのカレン・ベルージに戦闘で勝つだなんて」
「そうなのか? たしかにこの学校の生徒やそこら辺の勇者と比べると、断然彼女の方が強いとは思ったが」
実力がある勇者や師匠と比較すると、実際そうでもない。
カレンはあくまで生徒にしては強い、というレベルだ。
それでも依頼に現れるくらいの魔獣は楽に倒せるのだが。
「当然なのですよ。だって、カレン・ベルージはあの英国最強の勇者、アベル・ベルージの娘なのですから」
「アベル・ベルージ? 誰だそいつは」
英人の反応にシンシアは目を見開いた。
アベル・ベルージ。
英国最強の勇者にして、現在魔王討伐に最も近い男と評されている。
彼は大剣を二つ装備しており、それを難なく使いこなし向かってくる魔獣を一刀両断する。
過去、魔獣の領地にされ奪還不可能とされていたシャーウッドの森を彼率いる大規模部隊が僅か数カ月にして取り戻した、という功績を持つ。
そしてこの時からアベル・ベルージはこう呼ばれている――『奇跡の双剣士』と。
「なるほど。それがカレンの父親ってわけか。そりゃすげぇな」
「むぅ、なんか軽いのです。もっと驚くことなのですよ、これは」
シンシアは文句を飛ばすが、英人は決して驚きもしないし、関心も抱かないだろう。
なぜなら彼の師匠――桜花 麗はこの世界で唯一魔王を討伐した存在なのだから。
但し、人々の記録にも記億にも残ってはいないが。
「とりあえず、今日はもう寝るわ。明日は依頼をやらなきゃいけないしな」
「依頼……ですか」
シンシアは顔を曇らせると、視線を落とした。
彼女は依頼によって不登校になり、引きこもってしまった。
何か思う部分があるのだろう。
「悪い。無神経だった」
「いいのです。わたしのことは気にしないでください」
そう言っても尚シンシアの表情は暗いままだった。
彼女は言っていた。
魔獣を倒すことがあまり好きではない。
それなのに治癒系の異能持ちゆえ、多くの生徒に高難易度の依頼に強引に誘われるのが嫌で引きこもってしまったと。
だが、本当にそうなのだろうか。
シンシアが話していたことも不登校に起因しているとは思うが、それだけが原因ではない気がするのだ。
少なくとも、今の彼女の表情を見た限りでは。
そんなことを考えながら、英人は依頼に備えるために部屋の明かりを消した。