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拾った財布の見返りは

作者: さばみそに

 ただ少しの好奇心で選んだ普段歩かない道で、冴子は財布を拾った。

 交番に届けると二つの権利があると言われたが、冴子は断ることにした。財布が自分のものになることも、謝礼をもらうこともあまり興味のないことのように思えたからだ。交番を出て再び帰途をたどりながら冴子は思った。拾った財布の見返りって本当の話だったんだなあ、と。

 この日拾って交番に届けた財布はこの先の冴子の運命を大きく変えることになるのだが、この時の冴子はまだ気が付いていない。気が付けるはずもないのである、なぜなら財布はまだ本気を出していないから。





 財布が本気を出したのは翌日だった。



「木嶋冴子、出て来い」



 放課後になりたての教室に響いたその声に、冴子はひゅっと息をのんだ。

 そうなってしまったのは冴子だけではなく、冴子の隣で談笑していた友人も冴子と同じようにしたし、教室にいる全員が冴子と同じようにしたと言っても過言ではないほど、一瞬の間の後教室を静寂が包み込む。

 なぜなら教室の入口で冴子を呼び出したその人物は、素行の悪いことでかなり有名なこの学園の番長と名高いその人の、参謀と噂されるみぎり叶であるからだった。今日もけだるげな佇まいでありながら地の底から這い出てくるような威圧感を放っている。

 砌はいつまでたっても冴子が動く気配がないのを見てチッと舌打ちをすると一歩踏み出した。静かな教室に、かつ、という音が響くと冴子はようやく呼吸することを思いだして、それから今の状況を思い出す。あの砌叶に呼び出されたのだ、と思い出した直後、衝撃が冴子を襲った。

 ぐい、と首に近い辺りを引っ張られる感覚。



「着いてきてもらうぞ」



 ひい、という恐怖の声は、恐怖が過ぎるあまり冴子の口からは出なかった。冴子の制服の襟を掴んだ砌の鋭い視線が冴子を貫いたからだ。冴子の息は今度こそ止まっていた。

 冴子のそんな様子に返事を期待することを諦めたのか、砌は小さく息をつくと襟を掴んだまま歩きはじめる。またぐいと引っ張られる感覚で冴子はやっと呼吸することを思い出して大きく息を吸うのだった。






 砌に引っ張られていって着いたさきは、人気のない廊下の隅だった。

 ようやく襟を掴む手から解放された冴子はかろうじて呼吸することを忘れてはいないようで、浅い呼吸を繰り返している。壁にあるところどころへこんだ非常用扉が何とも言えない威圧感を放っていた。しかしそれ以上の威圧感を放つのがこの砌叶という男である。

 威圧感が、口を開いた。




「お前、昨日財布を拾っただろう」




 冴子が、ひゅっと息をのむ。まさか、いや違うもうこれは、間違いない、だとしたら。



「これは、俺の財布だ」



 そう言って砌が懐から取り出して見せたのは紛れもなく、冴子が昨日拾った財布だった。冴子はついに心臓が止まった気がした。やばい、ころされる。



「…そんな顔をするな、御礼参りをしようってんじゃない、ただ借りを返そうと思っているだけだ」

「え、か、借り?」



 思わず出た声に冴子は自分の心臓が動き続けていることを確認して、それからようやく目の前にいる砌がなんだか呆れたような顔をしていることにやっと気が付いた。あれ、もしかして、ころされたりはしないのだろうか。



「財布を拾ってもらった借りだ、望みは何だ、言え」



 呆れたような顔を一転させてずいと高圧的に言うそれはおよそ感謝している人間の態度とは思えない。否、砌は感謝をしているのではない。ただ彼の言うように、借りを返したいだけなのだ。



「で、でもわたしそういうつもりで拾ったわけじゃ」

「お前の意志はどうだっていい、ただ俺が借りを作ったままじゃ納得がいかないんだ、だからはやく望みを言え」




 砌は、さあとばかりに高圧的に答えを迫る。しかし冴子は答えることが出来ない。

 正直なところ今すぐ解放してもらいたい帰らせてもらいたい、というのが現在の切実な望みなのだがそんなことは言えない。言えばやはり高圧的に、納得がいかないと更に迫られてしまうのが想像できるからだ。ならばなにか適当な望みを、と思うのだが考えれば考えるほど冴子の頭は真っ白になっていく。それでも何か言わなければ、という気持ちが冴子の口から声を出させるのだがそれは言葉にならず、え、やら、う、やら赤子のようなことばかり声に出る。怖いので砌の顔は見ることが出来ないが、いらだっているのが雰囲気でわかる。ああだからはやく何か言わなければ、しかし焦れば焦るほど答えは出てこない。

 そうしてお互いの感情がピークに達しようとしたその時。




「砌こらあああああ!卒業が間近だからって早まるんじゃなああああああい!」




 稲妻のような鋭い叫び声が二人の間に流れる雰囲気を切り裂いた。

 制服のスカートをひるがえし電光石火のごとくその場に現れたのは冴子にも見覚えのある人物で。現れたその人物に、砌がはあとため息をついた。



「…面倒なのが来たな」

「面倒とはなんだ面倒とは、あんたの邪魔をする気はないけど生徒会長たる私には一般生徒を守る役目があんのよ」




 冴子を背中にかばった、冴子より背の小さいその人物はわれらが生徒会長なのだった。今日もきっちりと七三に分けられた前髪が決まっている。生徒会長のつむじあたりしか見えない冴子には、それはわからないが。



「…わかった」



 なにがわかった、なのかはわからないが、砌は確かにそう言うと少しだけ威圧感を収めた。



「一晩時間をやる、明日までに答えを出しておけよ」



 砌はそれだけ言うと冴子と生徒会長にくるりと背を向けてゆっくり歩いて去って行くのだった。やがてその背中が廊下の角に消えて見えなくなった頃、生徒会長はようやく背中にかばった冴子を振り返るとその顔を見上げた。



「ええと、木嶋さん、怖かったでしょ?」



 冴子を安心させるためなのか生徒会長の表情はにこやかである。そういう生徒会長の気遣いに冴子も少しずつ落ち着きを取り戻していき、生徒会長の問いに、うんと頷く。



「んー…まあその、こういうことは私がとやかく言えることじゃないんだけど、あいつはあれで律義な奴だからさ、その、ちゃんと木嶋さんの答えを受け止める覚悟のある男だってことだけは言っておくよ、だからもし無理なら無理ってそう言ってもいいんだけど、でも、一度は向き合ってやってほしいっていうか」

「え、あの、生徒会長、何の話を」

「ん?」



 べらべらとしゃべる生徒会長に思わず待ったをかけてしまう。話を聞いていたにしても何か少しかみ合っていない気がする。もしかして話を聞いていなかったのではないか。確認するために待ったをかけると案の定生徒会長は、おや、という顔をした。



「あれ、えっと、…ごめん、さっきの、どういう状況だった?」



 やっぱり、と思うのと同時に生徒会長はどういう状況だと思っていたのだろう、と思ったが冴子は口にはしないことにした。これ以上心労を増やしたくはない。少しだけ申し訳ないというような顔をしている生徒会長に、冴子はさきほどの状況を話して聞かせた。拾った財布が砌のもので、その借りを返させろと迫られていたという状況を。

 事情を聞いた生徒会長はふむと唸ると口を開く。




「借りをねえ、まああいつらしいといえばらしいわ」



 それから呆れたようにそう吐き捨てた。いわゆる不良の砌と生徒会長の間には友情とはまたちがう何か因縁があるらしい。あいつらしい、と言えるほどに生徒会長は砌のことを知っているのだ。



「てっきり我慢の限界でも超えたのかと思ってたけど違ったのね、まあいいや、そういうことなら木嶋さん、適当な事言ってさっさと納得させちゃいなさいよ、なんか無いの?困ってることとか、こいつを排除したいとか」

「排除?」

「ああごめん口が滑った忘れて」



 とりあえず今の生徒会長らしからぬ不穏な言葉は忘れることにして冴子は考えた。考えるのだが、やはり考えても適当な事すら出てこない。



「適当、と言われても…そんな、いい加減な事だと、失礼な気がしちゃって」

「失礼?」



 冴子の言葉に生徒会長は目を丸くして驚いたが、すぐに呆れたような顔をすると、はあーと声を出す。



「…木嶋さん、あんたもたいがいねえ」

「え?な、なんで?」

「まあそういうことなら一晩じっくり考えたらいいんじゃない?そんじゃ、今日のとこは気を付けて帰んなさいな」

「え、あの会長、わたしどうしたら」

「だから考えなさいって、あいつを納得させる、失礼じゃない答えをね」

「え、ええええええ…」



 生徒会長の突然の手のひら返しの理由がわからない冴子は、ただ去って行く生徒会長の背中に向かって空しく手を伸ばすことしかできないのだった。










「時間をやったんだ決まっただろう、言え」



 翌日、冴子は登校するなり昇降口で砌につかまり昨日と同じ廊下の隅に連れ去られていた。今日もやはりけだるげな佇まいながら威圧感がすさまじい。しかし今日の冴子は昨日のままではない。砌のそういう佇まいにただ怯えていたのとは違うのだ。ばくんばくんとなる心臓を押さえつけ、声を振り絞る。



「あの」



 思っていたより声は出なかった。しかし震えてはいない、と冴子はもう一度息を吸い込む。



「わたしと、制服デートしてください!」

「はっ?」



 次に出した冴子の声は思っていたよりずっと大きく、廊下に響いて反響した。



「せ、制服、デートだ?」

「あっ、あの、ごめ、ごめんなさい」



 うろたえた声を出してしまったことを後悔したのか砌はばっと己の口をふさぐ。冴子も思わず謝ってから口をつぐんだが、この静寂を破ったのは冴子だった。



「あの、でもわたし、昨日すごく考えたんです、あんまり適当な事だと、失礼だと思ったから」

「失礼?」



 ぽつりぽつりと語られる冴子の言葉に、砌は口をふさいだ手をゆっくりと放して冴子の言葉を繰り返す。



「生徒会長が、律義な人だって言ったのを聞いてたしかにそうだって思いました、だから、いい加減な事じゃ失礼だと思って、真剣に考えたんです、それで、その、考えたら三年間、したくてもできなかったことってそれ、だから」



 スカートを両手でぎゅっと握りしめてうつむいている冴子は、驚いたように目を丸くして冴子をじっと見ている砌の顔を見ていなかった。



「せ、制服デートを、してほしいです…」



 また訪れた静寂を破ったのは、次は、砌だった。




「…わかった」

「え」



 聞こえたその言葉に冴子が思わず顔を上げると、砌はやはりいつも通りのけだるげな表情をしていた。それに似合わない威圧感もある。あるのだが冴子はなんとなく、特に何の根拠もないのだけれど少しだけ、砌の事が怖くないと思った。それはとても不思議な感覚で、砌が冴子の手首をがしと乱暴に掴んだその瞬間も、心臓がどくんと音を立てたものの、不思議と怖くはないのだった。



「じゃ、行くぞ」

「え?え、今から?」

「時間はたっぷりある方がいいだろう」

「でも授業…」

「一日ぐらいどうってことはない」

「え、ええええええ…」







 校門を出てからも砌は冴子の手首を掴んだまま引っ張るように歩いた。時々すれ違う大人が制服姿の二人にいぶかしげな眼を向ける。砌がどこへ向かおうとしているのか冴子にはわからない。わからないが、その背中はやはり怖くないと思った。



「あ、あの、手」



 冴子がその背中にそう呼びかけると、砌は立ち止まって冴子の方を振り返った。手、と言われて砌は自分が掴んでいる冴子の手首辺りを見て冴子が何を言いたいのか察したのか、ああと声を出すと冴子を見て



「この方がデートらしいだろう」



 と、言う。ちゃんと着いていくから放してもらっても平気だと、そう言おうとしたのに先手を打たれてしまった。しかも、この方がデートらしいだろう、そんな言葉で。冴子は自分の胸がどきとしたのに気が付いて、ああ、違う違うと自分に言い聞かせる。



「あ、いや、その、デートらしいっていったらこうじゃなくって」



 あ、これも違う、と思ったが止められなかった。砌が続きを促すように、ん?と言ったのもそうだったし、言おうとしている言葉の通りになった未来を想像してしまったのも理由だったかもしれない。砌の顔を見ることが出来なくて視線をさまよわせながら冴子は続きを口にする。



「もっと、ちゃんと、手をつなぎたい、です」



 言ってしまった、と思っているうちに、手首にあった圧迫感がぱっとなくなる感覚がした。そしてすぐに、手のひらをすくい上げられる感覚。きゅっと、思っていたよりもずっとやさしい力で握られたそれに冴子の胸がまた、どきとする。その感覚に冴子が戸惑っているうちに砌は、行くぞ、とだけ言って再び歩き始めた。つないだ手を引っ張られると冴子の胸はやはりどきとしたし、歩いている間もつないだ手から伝わる体温は冴子の胸をどきどきとさせ続けるのだった。








 砌が冴子を連れてきたのは一軒の喫茶店だった。まだ朝だというのに薄暗い路地裏にひっそりとたたずむそれは親しみやすいとは言えない外観をしていて、冴子は、なんだか砌のようだなと思った。

 扉の前で砌は、ぱっとつないでいた手を離す。冴子は寂しさを感じたがそれを訴えることは出来ないまま砌が扉を開けるのを見ていた。扉が開くと、カランカランとベルの音が鳴る。いらっしゃい、という声は聞こえなかった。砌がそれに構わず入っていくので冴子もその背中を追うように店の中へと入っていく。

 カウンター席と、テーブル席が数席あるだけの狭い店内だった。古ぼけた印象の店内はまるでここがなにか悪い人たちの集まる酒場であるように思わせるのだが、ただよってくるコーヒーの香りがやはり喫茶店なのだということを示している。

 冴子が店内を見回していると、ガタンと音がした。砌がさっさとテーブル席に座ったらしい。慌ててそれに倣い冴子も座ると、カウンターの奥からギシリという音がする。音はすぐに姿を現した。




「ああ、いらっしゃい」



 一目で普通の人ではない、とわかる男性だった。分かりやすい格好をしているわけではなければ顔に大きな傷を持っているわけではない。しかし白いシャツに黒いエプロンという典型的な喫茶店のマスターという格好をしているその人の目が砌と同じような目をしていたから、冴子はこの人は普通の人ではない、と直感したのである。そもそもこんな時間に制服を着た少年少女が、こんな場所にある店に二人きりで来たというのに不審がることもしないで何も言わない時点で普通ではないのだが、冴子はそれには気が付かない。

 マスターは抑揚のない声でそう言うと、カチャカチャとカウンターの下で何か鳴らし始める。そして背側にある棚の方を向くとそこにある瓶を眺めていくつか品定めしているようだった。ああ、コーヒーを淹れる準備をしているのだな、と思っていると冴子の向かいから、おい、という声がかかる。



「ぼうっとしてないで、行きたい場所を言え」

「え、行きたい場所?」



 行きたい場所を言えという指示の意図がわからず冴子がきょとんとした顔をすると、砌はわずかに眉をひそめて威圧感を増した。思わず冴子の口から、ごめんなさいという言葉が出る。



「お前の行きたい場所に連れてってやろうと、そう言ってる、だからさっさと言え」

「あ、ええと」



 そう言われて冴子は考え込む。行きたい場所、行きたい場所。いや、そう言われても。

 考え込んでしまった冴子を見ながら砌は昨日ほどイラついてはいないようだった。冴子からはすぐに答えが出ないということを知ったからだった。あるいは店内にただようコーヒーの香りが砌を落ち着かせていたのかもしれない。コーヒーの香りにはアロマ効果があるというから。

 それから少ししてマスターがカウンターから出てくると、二人の座る席にコーヒーの注がれたカップを置いた。考え込んでいた冴子の鼻孔をコーヒーの香りがくすぐる。その瞬間冴子の頭に、ある風景が浮かんだ。



「あ…」



 冴子の口からなにか思い出したような声が出る。カップを持ち上げてコーヒーを一口すすった砌は、何だ、と聞くことはしないで冴子の次の言葉を待った。



「灯台に、行きたい」



 冴子の頭に浮かんだのは、灯台のある風景だった。



「いつも、登下校の電車の中から、遠くに見える灯台があって、いつかそのふもとに行ってみたいなあって思いながらずっと、三年間、何もしなかったから、もし連れて行ってもらえるなら、そこがいい、です」



 勇気を出してちらりと砌の顔を見ると、砌はどこともわからん場所を言いやがって面倒だなと言いたげな顔も、そんな場所でいいのかという顔も、まったくしていなかった。ただ至極落ち着き払った様子で持っていたカップをソーサーに戻すと



「わかった」



 と言って内ポケットから何かを取り出す。見ていた冴子がなにか端末のようなものだとわかったのは砌がそれを操作しはじめたからだった。不思議そうにこちらを見る視線に気が付いたのか、律義な砌はちらりと冴子を見やるとその灯台の場所を調べているのだと言う。それから、だから少し待っていろ、とも。冴子はその言葉に従って少し待つために目の前のカップを持ち上げて中身をすする。あ、おいしい、と思わずカップを覗き込んだ冴子を見てカウンターの中にいるマスターがほくそ笑んでいたのを見たのはきっと、古ぼけたポスターの美女だけだった。

 少し待ての、少し、は長かった。

 待っている間にちびちびと楽しんでいたコーヒーはすっかり空になってしまったし、カウンターの方から聞こえていたトントンという小気味の良い音も聞こえなくなった。手持無沙汰になった冴子は少し前から、目の前で端末に集中する砌を観察している。

 冴子が知っている砌叶の噂といえば、あの素行の悪いことで有名な番長の参謀と名高い人物だということである。噂では、あの番長ともどもかなり強固な後ろ盾がついているのだとか、いないのだとか。つまりこの砌叶はいわゆる不良というレッテルを張られた存在なのである。しかしその容貌は、ただならぬ不良特有のけだるさと威圧感を備えてはいるものの、普通の学生とほとんど変わらない。頭を真っ白に染めているわけでもなく、むしろその黒髪には艶があってクセひとつない。威圧感の元凶であるその鋭い目は、言い方を変えれば涼やかな目元であるし、切れ長の美しい目である。だから冴子は。

 瞬間、その目と視線がかち合った。

 どき、とした。




「場所と、経路がわかった」

「あ、ええと、はい」



 まだ少し心臓をどきどきとさせている冴子とは対照的に、至極落ち着いているように見える砌は淡々とそう述べると、行くぞ、と言ってさっさと立ち上がるのだった。冴子もそれに倣って立ち上がると、ああちょっと、とマスターが二人を呼び止める声がする。



「これ」



 そう言ってマスターがカウンターに置いたのは、四角い形をした薄緑色の包みだった。



「遠出するなら昼飯がいるだろ、コーヒーも含めて俺のおごりだから持っていけ」



 冴子は戸惑ったが、砌がさっさとその包みを受け取ってありがとうございますと言ったのを聞いて冴子もそうすることにした。包みを受け取った砌はそれをずい、と冴子に突き出す。冴子が反射的に受け取ると、砌は冴子を一瞥して扉の方へと歩いていき扉を開ける。ベルが鳴る中、冴子は慌てたようにもう一度マスターにお礼を言うと砌の後を追いかけるのだった。











 たたん、たたん、と規則正しい音がして、窓の外を海鳥が飛んでは過ぎていく。

 海沿いを走る小さな電車のボックス席で、冴子と砌は向い合せに座っていた。一両編成のこの車両には二人しかいない。平日の昼間、制服姿の二人が誰もいない電車のボックス席に座っている。なんだかドラマみたいだなあ、と思いながら車窓から見える海を眺める冴子は時々砌の方をこっそり見ていた。砌は窓の外へ目をやっていて、冬の柔らかい日差しに照らされるその顔を見ているときゅうと胸が締め付けられる気がして、冴子はそこから目をそらすのだった。その直後に、砌が冴子をちらりと見ていることを冴子は知らない。

 ふと冴子の動かした手がこつん、と何かに当たる。冴子がそちらを見ると、どうやらマスターに貰った包みに当たったらしい。ああ、そうだと思った冴子はそれを手に取って膝に乗せると砌に話しかけた。



「あの、これ、食べますか?」

「ああ、腹が減ったのか」

「そ、そういうわけではな」

”ぎゅう”

「…い、です、けど」



 恥ずかしそうにうつむいて、こんなところまでドラマみたいじゃなくてもいいのに、と思っていると冴子の耳に、ふっという音が聞こえた。顔を上げると、信じられないものが冴子の視界に飛び込んでくる。



「く、くく、見事なタイミングだな」

「え、あ」



 砌が、笑っている。喉をくつくつと鳴らすその笑い方は砌にとても良く似合っていて、それに少し見とれてしまった冴子は恥ずかしそうに小さな声で、笑わないで、というのが精一杯だった。

 砌の笑った顔は、初めて見た。そもそもこんなに面と向かって顔を見たことも初めてだ。こんな風に、笑うんだ。そう思っていながら冴子は砌の顔をじっと見つめてしまっていたらしい、やっと笑うのをやめた砌がそれに気づくと、なんだ、と言う。



「あ、あの、初めて笑ったから」



 冴子が正直にそう言うと、砌はわずかに眉を持ち上げて、きょとんとした顔をする。あ、そういう顔もするんだと思う間もなく砌がもう一度、ふ、と笑った。



「俺だって笑う、人のことをなんだと思っていたんだ」



 それは、あの砌叶だとか、怖い人だとか。しかしそういうことは口が裂けても言えないな、と冴子は誤魔化すために包みをほどくことにした。薄緑色の包みをほどいて出てきた箱の蓋を開けた瞬間、冴子は思わず感嘆の声を上げる。箱にぎっしりと詰まったそれは、サンドイッチだった。赤や黄色、緑、白といった鮮やかな色がなんとも食欲をそそる。これをあの砌と似た瞳をしたマスターが作ったのか、と冴子が何ともいえない気持ちに苛まれていると手が伸びてきてぎっしりつまったそれをいとも簡単にひょいとつまんで持っていく。

 あ、と声を出して冴子がその行方を目で追うと砌がサンドイッチをぱくんと食べたところだった。自分も、と冴子は緑色の鮮やかなサンドイッチを手に取って食べる。



「おいしい…」



 一口食べた瞬間、冴子の口からは思わずそんな感想がこぼれた。



「お前こそ、初めて笑ったじゃないか」

「え」

「まあ笑ったのがあの人の作ったサンドイッチを食べて、というのが少し気になるがな」

「そ、そんな、食いしん坊みたいに言わないでよ」



 言われた言葉に冴子が恥ずかしそうにそう言い返すと砌はまたくつくつと笑う。実は砌の言った気になる、というのはそういう意味ではないのだが、砌は言わずに笑った。恥ずかしそうにしながらもサンドイッチに熱い視線を送り、ついにはまた食べ始める冴子の様子が面白かったからだ。






 やがて電車は、二人の他に何人かの乗客を乗せて終点にたどり着いた。

 目的の灯台へはここからまた少し歩くのだと砌が言うので二人は誰もいない駅から歩き出す。歩き出してすぐに冴子は、ふと寂しさを感じた。その理由はすぐに気が付く。



「あの」



 一歩前を歩く砌の背中に呼びかけると、砌は立ち止まって冴子を振り返った。うん?というその表情に不機嫌さはもう感じない。砌の不機嫌が治ったわけではない、冴子が、砌は不機嫌ではないとわかるようになったのだった。



「その、手」


 そんな砌に、冴子はそれだけ言って自らの手を前に出した。おそるおそる差し出されたそれを見て砌は察したのか、ああと言って握り返す。優しく握り返されたそれに冴子の胸は、とくんと優しく鼓動した。それは不思議なことに心地が良くて、歩いている間冴子はその心地良さを楽しむことができた。


 どれぐらいの間歩いたのか、ようやくたどり着いた場所で二人の前に立ちはだかったのは、立ち入り禁止の看板がくくりつけられたフェンスだった。



「立ち入り、禁止…」



 冴子が看板の文字を読み上げると、ぱ、と手のぬくもりが消えた。見ると、砌がさっさとフェンスに近づいてそれをカシャン、と鳴らしている。何をする気なのだろう、と見ていると砌はガシャガシャと音を立ててフェンスをのぼり始めるのだった。



「えっ、のぼるの?」

「ほら、さっさと来い」



 困惑する冴子をよそにフェンスの上まで登り切った砌は、冴子に向って手を差し出す。立ち入り禁止と書いてあるのに、こっちはスカートだぞ、など言いたいことはあった。あるのだが、冴子は差し出されたそれに向かってフェンスをのぼることを決断したのだった。まずは荷物をよこせと砌が言うのでよこしてやる。それから、冴子の番だ。正直、こんなことをする人だとは思っていなかった。立ち入り禁止の場所に躊躇なく入り込んで、しかも子供のようにフェンスを乗り越えて。いや、まあ、それに続いてフェンスを乗り越えようとしている自分は人のことは言えないのだけれど。

 冴子が砌の手を借りてフェンスの上にたどり着くと、砌は先に降りてしまって下から冴子を見上げた。ここからどうして降りたらいいのか、と冴子が思っていると砌が両手を広げたのが見える。



「受け止めてやるから、飛び降りろ」



 両手を広げた砌は、わりと無茶な事を言う。フェンスはそれほど高くはないが、えいと飛び降りるには勇気がいるのだから。しかしこちらをじっと見る砌の顔に鼓動を速めながら、冴子は覚悟を決めた。

 えい、と飛び降りる。

 途端に包まれた温かさに、冴子の胸はいっそう高鳴った。かすかにたばこの香りがする、それからコーヒーの香り。そういう香りと温かさに包まれながら、ああ、これもドラマみたいだなと思っていると冴子はべりとその温かさから引きはがされた。反射的にごめんなさいと言うが砌はすぐに顔を背けてしまったので冴子にその表情はわからない。ただ顔を背けたまま、行くぞ、と言って砌が歩き出してしまったので、冴子は荷物を拾い集めてそのあとに着いていくのだった。


 土の地面を少し歩くと建物が見えてくる。

 白い肌のそれが見えた時、冴子はたぶんこれが目的の建物だと思ったが、それは冴子の思っていたのとは少し違う様子だった。あえて言葉にするなら、灯台らしくない。



「てん、ぼう、だい」



 冴子は白い壁にかかった看板の字を読み上げた。

 灯台では、なかったのだ。

 何も言わずに冴子を見ている砌は、もしかすると知っていたのかもしれない、この場所を調べたその時に。砌は冴子を少しだけ心配するような目で見るが、冴子は落胆しているわけではなかった。自分でもよくわからないが、ああそうかと思うだけで。



「そっか…」



 その思いを口に出すとなぜだか、笑みがこぼれるのだった。



「やっぱり、自分の目で見ないとわからないことって、あるんだ」



 そう思うとなんだか笑えてしまって、ふふと声を出して冴子は笑う。そんな冴子の様子を見た砌は驚いたような顔をした後、冴子につられるように笑うのだった。

 砌がもう少し歩くか、と聞くと冴子はうんと頷く。すると砌はさりげない動作で冴子の手を握って、それから歩き出すのだった。

 冬の日はもう暮れようとしている。






 海を見渡せる崖には、展望台が稼働していたころの名残か木で出来た柵が設置されていた。

 そこから見える水平線には夕日が迫っていて、辺りは赤く照らされている。それは、”今日”がもうすぐ終わってしまうことを教えていて。

 いやだな、と思った。



「何が嫌だって?」

「え」



 驚いて隣の砌を見ると、砌はこちらを見ていた。その様子で冴子は、声に出ていたのかと思う。ええと、と言いよどんでもなぜか砌は退こうというそぶりを見せずにじっと冴子の答えを待っている。ぎゅ、と握った手に力が入ったのが分かったから、冴子はついに覚悟を決めた。



「あの、今日が終わっちゃうのが、いやだなって」



 それは言葉にすると思った以上に恥ずかしいものだったので、冴子はそのまま視線を地面に落としてしまう。こんなことを言うのはまるで。砌が握った手に更に力を入れたのがわかったが、恥ずかしさの方が上回る冴子はさほど気にすることはなかった。さらには砌がそれ以降何も言わないことが冴子の恥ずかしさを増長させる。

 なぜ何も言わないのだろう、もしかすると砌は別に、何も思っていないのだろうか。そう思うと冴子は急に頭がぎゅうと締め付けられる気がした。

 ”今日”が終われば、きっと、後には何も残らない。律義な砌は冴子の望みを聞いて、手までつないでくれたし、こんな場所にまで連れてきてくれた。けれどそれは今日だけで、その今日が終わってしまえば何も残らなくて。そもそもその今日だって本当は、ただの、作り物で。

 気が付くと冴子の目からは、涙がこぼれていた。



「な、何を泣いているんだ、お前」

「あ、ご、ごめん」



 うろたえたような砌の声も、今の冴子には責め立てるような声に聞こえてしまう。涙をぬぐうのだが次から次へとあふれて止まりそうにない。砌の声が、責め立てるように聞こえたせいではなかった。

 本当の、自分の気持ちに気が付いてしまったからだった。

 怖い人だから、近づいてはいけないと思っていた。だから他の人と同じようにしていた。怖いとつぶやいて、遠巻きに眺めるだけ。怖い人、関わってはいけない人と決めつけて、けして近づいたりはしない。

 でも本当は、強い人だと、憧れていた。

 いや、たぶん、それも嘘だ。憧れていたのではない、もっと、もっと。



「…お前は、まったく、予想外の行動をする奴だな」



 砌がそう言う声が聞こえた、と思うと上を向かされて目元を強い力でぐいとぬぐわれる。それではっと我にかえった冴子が見たのは、自分を見下ろす砌の顔だった。夕日を背に受けて影になったその顔は、始めよく見えなくて表情がわからないと思ったが次第に目が慣れてくると、呆れたような表情をしているということが分かってくる。しかしそれがわかったところで冴子は、状況が飲み込めずにいた。砌はどうして呆れたような顔をしていて、そして、自分の頬に手を当てているのだろう。



「お前が、そういうことを言わなきゃ、俺だって言うつもりは無かった」



 砌は言いながら苦々しいような顔をする。



「そういうことを今から言うからな、しっかり聞いとけよ」


 それはおそらく、砌なりの照れ隠しだったのかもしれない。なぜならそういう砌に見下ろされた冴子の胸は恐怖ではない感情で高鳴るばかりであるから。




「俺は、財布を拾ったのがお前じゃなきゃ借りを返そうとは思わなかったし、制服デートだって、お前だからわかったと言ったんだ」


 冴子の口から、え、という声が出るが砌はそれに構わずに言葉を続ける。




「廊下の隅で、忍び泣きしているお前を見た」



 砌の言葉は、冴子の忘れたかった記憶を思い起こさせた。それは、冴子が中学生だった頃の記憶。



「みじめに泣いていたかと思えば急に立ち上がって、自分の頬を叩いた、そういうお前を見て、強い奴だと思った」



 冴子の口から思わず、違う、とこぼれた。忘れたかった記憶があふれたのだった。砌はあふれたその言葉を否定するように、いや、と言う。



「お前は卒業まで逃げ出さなかった、だから俺も、退屈な学校に通い続けたんだ」



 お前がいたから、と砌がそう言っても冴子はやはり、違う、と思う。強いのは自分ではなくて、砌の方だ。誰からも遠巻きにされて、それでも堂々としていられる砌は強い人で、だから。



「みじめに見せまいと周囲を睨み付ける、そういうお前に惚れたと思ってたんだがな、ふたを開けてみればこのザマだ」



 砌の言葉が冴子の頭をがんと打った。その衝撃に忘れたいと思っていた苦しい記憶などすっとんでしまう。しかし新しい衝撃はまた冴子を苦しめるのだ。鼓動を大きく鳴らせて、顔を熱くさせて、更には頭をぐるぐると混乱させて冴子を苦しめる。

 そうして苦しんでいる冴子は、自分を見下ろす砌の顔が赤いことに気が付かない。



「怯えた顔も、笑った顔も、どんな顔でも目が離せない」



 砌は軽く吐き捨てるように、どうしようもねえなとつぶやく。砌にしては少し粗暴なその言葉は砌の余裕の無さを語っているのかもしれなかった。



「お前に制服デートをしてほしいと言われて、浮かれた自分が、一番どうしようもねえ」



 しかし冴子にだって余裕は無いのだ。いちいち砌のそういう感情の機微を感じ取ってはいられない。聞こえてくる砌の言葉に、ただ顔を赤くして、何も言えずに開いた口をはくはくとさせることしかできないのだ。自分よりもずっと余裕の無さそうな冴子の様子は、砌に冷静さを取り戻させたようだった。

 砌は、喉の奥をくつくつと鳴らして笑った。



「まわりくどいんじゃなく、はっきり言ったほうがいいか?」



 砌が冴子の名前を呼んだ。冴子の頭をまた衝撃が襲う。



「俺は、お前が好きだ」



 それはとどめを刺すような。



「まあ、返事は一晩待ってやる」




 意地悪く笑った砌が、そう言う。


 ああ、かみさま、おまわりさま、拾った財布の見返りとしてこれは、これは、法定外じゃないでしょうか。








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