3話 遭遇
木漏れ日が見事なコントラストを作り出している森の中。春先の空気を匂わせる穏やかな微風が、木の葉を涼しげに揺らす。
そんな、森林浴にはもってこいの環境にて。
「……送る場所も、ある程度決められたら良かったのに」
佳乃は愚痴っぽく言った。
光の渦に呑み込まれ、気が付けばこんなところにいた訳だが、これはもう異世界に来たとみていいのだろうか。
意識して周囲を見回すと、すぐに地球との差異を発見した。
「こんな木は見たことないなぁ。樫っぽいけど、手触りが未知だ」
手近な木の一本に触れ、佳乃は感心する。
ということは本当に異世界へと来たのだ。そうと分かれば、気分が高揚してくる。
となるとまず初めに、確認すべきことがあった。
おもむろに佳乃は、触れていた木に向かって拳を叩きつける。
メキィッ、という拉げた音と共に幹が折れる……というより砕ける。
叩き折られた木は、ミシミシと不吉な音を立てながらゆっくりと傾いでいき――隣の木を巻き込みながら派手に倒れた。
伐採者は満足そうに右腕を見下ろす。
「すごいな。確かにあの設定は反映されているみたいだ」
力任せに殴った拳は微妙に擦り剥けていたが、それもたった数秒で元通りになった。至高の粘体の細胞が持つ回復力も活きているようだ。
取り敢えず、この程度の太さの木(直径約四十センチ)なら一撃で殴り倒せることも判明した。『剛力LV.5』の特殊加工は伊達ではない。
次に佳乃は、その場で軽く跳躍してみる。
「おっと……!」
本人は軽く蹴ったつもりだったのだが、予想以上に高く跳び上がってしまった。だいたい五メートルぐらいだろうか。背の低い木なら枝葉に当たってしまう高さだった。これで『敏速LV.5』の効果も証明された。羽のように軽やかに移動できるという能力である。
一通り肉体の性能を検めてみたが、この分なら他の設定もしっかり反映されていることだろう。
ちなみに佳乃の現在の身なりは、前世の最後に着ていた学校の制服だった。オーソドックスなブレザータイプのそれだが、文明レベルが地球よりも低いというこの世界では、最高品質の服と言っても過言ではないかもしれない。
「で……肉体が設定通りなら、当然僕の良心は半分になった訳で」
実際、これが一番の懸念なのだが、良心の欠如などどうやって確かめればいいのか。
首を捻ったのは一瞬。佳乃はすぐに答えを導き出す。
「いや、そうか。簡単じゃないか。通りすがりの手頃な誰かを見つけて、価値なしと判断すれば殺してみればいい。そのときの罪悪感の程を検証すれば、大まかなところは掴めるはずだ」
ポンと手を打って頷く佳乃。
……そんな発想が出てくる時点で、既に良心も何もあったものではないのだが、そこには気付かない佳乃だった。
ひとまずの目的を定めた佳乃は、とにもかくにもこの森から出ないことには始まらないと歩き出す。
どこに向かえばいいのかはさっぱりだが、幸いなことにいまの佳乃には飲食や睡眠は必要ない。さらに強靭な肉体能力も有しているため、その気になればずっと歩いていられる。いつかは出口に辿り着けるだろう。
そう気楽に構えていた佳乃は、次の瞬間、奇妙な音を拾う。
――ズン ――ズン
と、遠くの方から響いてくる、かなりの質量があると思しき断続的な振動。普通なら聞こえないような微かな音だったが、『超感覚LV.5』を持つ佳乃の聴覚は、それを明確に捉えた。
「何か、来る……?」
一気に緊張が高まる。
こんな森の中だ。熊の一匹や二匹いてもおかしくはない。まあ、ただの熊に佳乃がやられる恐れは低いが、何といってもここは異世界だ。熊の姿をした魔物という可能性もある。
――逃げるべきか?
佳乃は考える。自分の戦闘能力は未知数だ。安全を第一とするなら、ここは速やかに逃走するべきだろう。大木を殴り倒せるからといって、その力がどの程度の相手にまで通用するかは判らないのだから。
「いや、違うな。判らないじゃ駄目なんだ」
浮かびかけた「にげる」のコマンドを頭を振って否定する。
自分の力がどこまで通用するのか。これは何れ必ず検証しなくてはならない重要事項だった。その結果如何で、佳乃の異世界ライフが大きく左右されるだろうから。
そして、何れというならいまやるべきだろう。
ずるずると先延ばしにしても後で苦労するだけだ。今回は踏ん張るところである。
そのように判断した佳乃は、ともかく相手の訪れを待とうと、おあつらえ向きな茂みを見つけてそこに潜む。
匍匐状態で潜伏すること、しばし。
音の発生源が近付き、超感覚などなくてもその振動を感じられるようになった。
佳乃は息を殺して草の隙間から様子を窺う。
やがて、それは姿を現す。
「……!」
木々の合間を縫って現れたのは、馬鹿でかいトカゲだった。
体高は五メートル前後、全長は一五メートル近い。屈強そうな後ろ足とは裏腹に、前足は随分とちんまりしている。褐色の体毛に覆われたその全容は、ティラノサウルスが生き返ったとしたら正にこんな姿をしているのだろうと思わせる。
ただ、ティラノとは明確に異なる部分もあった。
それは尻尾。長大なそれは、半ばから先端にかけて、まるで斬馬刀か何かのような重厚な刃に変質しており、時折赤く発光している。
――魔物。
言われずとも分かるその威容は、正にモンスターであり、化け物だった。
予想を遥かに上回る存在の登場に、さしもの佳乃も乾いた笑いしか出てこない。
……正直言って、舐めていた。ファンタジー世界を甘く見ていた。そりゃこんなのだっているだろう。逆に何故熊程度に考えていたのか。コレに比べれば熊なんて可愛いもんだ。
やっぱり逃げようか。またいつか機会はあるだろう。こんなあからさまに強そうな奴から始める必要なんてない。
後ろ向きな決意が着々と固まっていく佳乃。
だが、少し遅かったようだ。
――グルルル……
低い唸り声を漏らしながら、ティラノはその眼光を佳乃が潜んでいる茂みに向ける。
半ば物理的なプレッシャーを感じ、佳乃は一瞬だけ怯む。
落ち着け、と自身に言い聞かせ、素早く考えをまとめていく。
どうやら既に気取られ始めているらしい。このままではいつ襲ってきてもおかしくはない。それはあの眼光が雄弁に物語っていた。
――曰く、見つけ次第ぶっ殺す、と。
ここがアレのテリトリーなのかは分からないが、こうなった以上は覚悟を決めるしかない。どの道いつかは確かめなければならないのだ。
まあ、取り敢えずは……
「――先手必勝」
相手の視線がこちらから外れた隙を突いて、佳乃は茂みから勢いよく飛び出す。
『敏速LV.5』の効果を十全に発揮し、佳乃の身体は恐るべきスピードでティラノに肉薄していく。
ティラノが弾かれたように振り返り、その長い尻尾の先を突き出してくる。岩のように武骨な刃は、しかし佳乃の動きを捉えきれず、大きく的を外す。
五感を強化しておいてよかったと心底思う。そうでなければ、相手の攻撃はおろか、自分のスピードにも着いていけなかっただろうから。
見るからに破壊力満点の牙が生えた顎の下をすり抜け、相手の死角に潜り込む。か細い前足による攻撃はないものとして考え、佳乃は跳躍した。
そして、アッパーの要領で右腕を振り上げ――
――直撃。
救い上げるようにして顎を打ち抜いた拳は、ティラノの巨躯を二メートルほど宙に浮かせた。
佳乃は急いでその場を離れる。
尻尾の攻撃範囲から出ると、不意打ちが成功したことに満足げに笑った。
まずは膂力と素早さの検証が終了。結論は、このレベルの相手になら充分通用する、だった。
折れた牙を血とともに吐き出しながら、ティラノは怒りに染まった目で佳乃を睨みつける。その迫力は先程の比ではないが、佳乃はもう動じない。
この魔物は既に、実験動物だった。
「さあ、悪いけど、もう少し僕の検証に付き合ってもらうよ。トカゲくん」
言って、佳乃は再び駆け出した。