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「おーし、飯だー」
昼休みになると嬉しそうに腕を振り回すこいつを改めてみると、感謝の念は雲散霧消する。
「ん? なんだよどうしたー?」
別に。食堂に並ぶ俺達。需要人口に比べて規模の小さい学校食堂。パンを買うのにも一苦労。その待ち時間の中で、色々と考える。西内さんが一体何者なのか、俺にはさっぱりわからない。
整理してみようと思う。
まず、彼女は実在する。そして、俺の『夢の中』に登場した。いや、おそらくあの西内さんは現実の西内さんなのだろう。俺はまだあの時西内さんのことを知らなかったわけだから、妄想のしようがない。あれは本物だ。そして、本物の西内さんは俺の秘密を知っている。
彼女の正体は、何なのだろう。
「ねー、和時、並ぶの面倒だから私の分も買っておいてくれない」
何様だお前。そんないつものやりとりをして、いつものように売店で買ってきたパンの袋をベンチに置いて、パンを挟んで両隣に俺と月乃。
「あー、食った食った」
そんなことを大きな声で叫ぶなよ女子高生十七才。後、もっと噛んで食べろ。そうは思っても俺の口にはまだジャムパンが残っているので何も言わない。
「ちょっとしんどいなー」
俺の方にもたれてくる。お昼寝ですかその年で。
ぐががが
女がいびき掻くな。
ぐががが
やめろって
ぐががが
だから……そこで異変に気付く。
耳を近づけても、月乃はいびきどころか、寝息一つ聞き取れない。狸寝入りにしたって、呼吸が全く聞こえないなんて、嘘だ。
なんだ? 何かおかしいぞ? まるでそこだけ真空のドームに包まれたように、すべての音が消えた。まるで、夢の中のように。必要な音が聞こえず、そしてその音だけが聞き取れた。
ぐががが
後ろを振り返る。そこに一本の木があった。目立つわけでもないのだが、その時の俺には、目立って見えた。その木だけが、存在感を放っていた。ただの木には見えなかった。
木がいびき?
その音は、もっと聞き取ろうとすればするほど音が聞き取れなくなっていく。聞こうとすればするほどフェードアウトしていく木の声。
完全に聞こえなくなった頃、
すう すう すう すう
寝息が聞こえた。
左を見た。
別の痩せた木が、そんな音を漏らしていた。
いや、実際には漏らしてはいない。けれど俺の心は、木の眠りを聞いていた。
その音も、また微かに聞こえただけで、俺が注意を向ければ向けるほど消えてゆく。
待て、どうして俺が近づこうとすると逃げるんだ。
月乃にもたれかかられているので無闇に動けないが、それでも俺は自由に動く首を回して次から次に聞こえる周りの植物の寝息を聞いて回った。
他の音は聞こえない。まるで夢の中のように注意のゆく音以外は、何もない。
そしてその全ての音が消えてしまった時、
一輪の花が、咲いているのを目にした。
何もかも静止していて、花だけが、浮いているように見えた。
時が止まったのではないだろうか。
雲も動かない。
風も動かない。
花は動かない。
ああ、そうか。花はもともと動かないのか。そう思った瞬間。
ぶるりと、確かに、ぶるりと、花は身震いした。
何かに引き戻されるような感覚が全身を通り抜け、あわててもう一度目をやった。
花は、動くわけがない。
音が、戻ってくる。人の話し声が、足音が、スピーカーから流れる放送部員の趣味が、隣の奴の呼吸の音が、戻ってくる。
「あ、ごめん寝てた?」
月乃が目を覚ます。おそらく時間にして一分も経っていないはずだ。
「月乃」
「なに?」
「やっぱ、眠いものなのか?」
「……眠いよー」
「そっか。で、すまないが起きろ。便所に行きたい」
ここは日陰なので冷える。ぶるりと震えて、月乃をたたき起こそうとする。けれど、この野郎は二度寝を慣行した。
仕方がないので別のことを考えることにした。そう、今起きたこ
とをだ。どうも、俺には物の声が聞こえるということらしい。 実際には、俺の深層心理がこの『物』にもし心があったら、こう言うんだろうな、というのが聞こえているだけらしいのだが、俺にはそんな割り切る自信はない。確かにそれがおかしいことはわかっているのだが、夢の最中に夢をおかしいと思う人間はいない。そして俺は醒めない夢をみているわけで。
人間の世界とは違うところに迷い込んだ来訪者。それが俺の立場。だれだ、こんな素敵な名前付けてくれたのは。
「あ、ごめん寝てた?」
月乃が目を覚ます。今度は、十分くらい寝ていた。
「起きろ」
不満を垂れてみると、文句を言いながらベンチから立った。
その後姿を見ながら、さっきから考えていたことを、聞いてみる。
「お前さ、何かあった?」
「……なんで?」
「お前が睡眠不足なんて、初めてだからな」
「ところで和時、今日提出のプリントしてきた?」
いきなり話題を変えた。こいつはとことん俺のことは無視か。
「あー、あれか。やってないけど、まあ高屋先生なら適当に言い訳
すればいいだろ」
「うわ、それで平気なのかよ酷いな。転校してきたばかりの西内さんだってしてきてるのに」
「昨日のプリントをどうして持ってるんだよ。・で、お前西内って転校生と話したの?」
「したよー、とってもいい人だったよ。っていうか和時だって話してるんじゃないの? だってセビロ……だっけ? なんとかの猫のことも知ってたよ」
サビルロウを知っている?
どういうことだ?
「ほらー、和時、話はぐらかさないでさー、どうすんのプリント? なんだったら私が教えてあげようか?」
「いい。どうせ病院行ってたんだし誤魔化す」
「あのなあ、そういうことしてたらバチ当たるぞ」
「ふん、誰もしらん」
「そんなこと言って、お天道さまは見てるよ」
「見るわけネエだろ」
だが俺の場合、見て無いとも言いきれないから怖ろしい。
その後は結局誤魔化したわけだが、困ったことがあった。
誰かに、見られている。
その気配はずっと俺を監視している。昼休みが終わっても、午後の授業の間にも、今、こうして帰り道についている時も。
「おい、お前」
一人で帰っていると、誰かが呼び止めた。誰もいなかった。けれど、誰か、何かが俺を呼んだ。 空耳だと思えばよかった。けれど、今の俺に幻聴は無い。聞こえたと言うことは、誰かが言ったに違いないのだ。サビルロウのように、俺に難癖をつける物があるはすなのだ。
けれど、周りにはなんの気配もない。説教する黒猫や寝息をかく植物が出していた独特の存在感を、何からも感じ取ることはできない。
しかし、『声』は本物だった。
何かが、喋ったに違いない。けれど、なんなのか。
「おい」
また声がした。けれど、わからない。一体、誰だ、何だ、それを見ているのは。 日が落ちて、暗くなる。帰路につく俺に、声は掛かり続けた。サビルロウともちがう声質。
考え込むと歩みも遅くなり、もう上空に月が輝き出す時刻になった。
「おい」
やっぱり、聞こえる。俺は、意を決して返事をすることにする。
「誰だよ」
「お前の知っている奴さ」
「何処にいる」
「居るだろ、お前の上に」
見上げた。
まさか、『あれ』か?
顔のない月は、口を利いた。
「さっきから言いたかったんだけど、お前後ろ見てみろ」
振り返る。
人がいた。
「渡辺さんとは、一緒に帰らないのね」
「年がら年中一緒にいるわけじゃねえよ。あいつにはあいつの交友関係ってのが、あるだろうしな」
「こんばんは、高山君」
何で、ここにいるんだ、西内硝子さん。
「こんばんは。高山君」
「あんた、いつから俺の後ろにいた?」
「挨拶に疑問文を返されると、少し困っちゃうわね」
例の首に手をやるポーズでうつむいていた。
こんなに早く、対峙する事になるとは思っていなかった。久しぶりに体が緊張を思い出す。来る。来る。これは、サビルロウやその他大勢の前座を終えてやってきた、本物の驚異。
「ちなみに、帰り道ずっと後ろからついて回っていたわ。でも全然気付いてくれなくて、かれこれ一時間前くらいからかしら」
気付かないものなのか?
なんで俺は後ろを見なかった。その答えは上空に浮かぶあれのせいだろう。あれの声が気になって他のことが感じ取れなくなっていた。そういうことだ。
何者か判らない彼女の第一声を待つ。
「ね、言った通り、あなたの同級生でしょう?」
「ああ、だったな」
そして俺は西内さんをまじまじと見て、それを見る。彼女の片腕の中の、サビルロウ。
「なんで、そいつがそこにいるんだ?」
「魔女の相棒は黒猫と相場は決まっているわ」
「さいですか」
おれはどこまで疑えばいいのだろう。彼女は本当に転校生西内硝子なのか? 俺が妄想した転校生への期待を幻としてみているだけなのか?
「ちなみに言っておくと、私は本物の人間よ」
信じていいのだろうか。そして、そんな俺の疑問を感じ取ったのか、西内硝子は首にやった手をおろし、掌を俺に向けてきた。
「何だよ」
俺の手首を握った。
「何する気だ」
そして、自分の頬に触れさせる。
「私は、実体があるわよ」
「……」
絶句して、呆然として、彼女の頬に触れたまま
「そうね、こういえばわかるかしら」
魔女を名乗ったそれは、掴んだ俺の手を放し、両手を広げた。サビルロウが彼女の手の中から飛び降りた。俺は、彼女の頬に添えた手を動かすことさえできなかった。
「Besucher Syndromって言うのよね、『これ』」
「どういう、意味だよ」
「来訪者症候群っていうのよね、日本では」
決定した。
「私がドイツにいたのはね、『これ』の治療のため」
「じゃあ、あんたも」
「初めまして、高山君。私も物の声が聞こえる人間なの」
サビルロウ一匹が、顔をぐにゃりと歪めて笑う。
「まったくどうしようもない。お前は本当にわかっていないのだから」
俺は、本当に何もわかっていなかった。