待ち人来たりて
雪に絡んだ小さな恋の物語。
もしよろしければ、お目汚しのほどよろしくお願いします。
自室でゲームをしていたら、誰かに名前を呼ばれた気がした。
きっと母さんだ。そう思った俺は、部屋を出て階下に降りていく。居間で編み物をしていた母さんは、白い手を止めて顔を上げた。
「あら、どうしたの? 新吾」
「……え? 今呼んだの、母さんじゃないの?」
母さんがぽかんとした顔をして、「誰も呼んでないわよ」と答えて首をかしげる。ふと納得したように微笑んで、嬉しそうに口を開いた。
「ああ、きっと亡くなったおばあちゃんよ。今日は新年の五日だし、初めての雪が降ってるもの」
ああ、そうか。それじゃあ、あいつも亡くなった人に会ったかな。
そう思うと、何故か心が痛くなる。幼い俺は軽く胸を押さえて、うつむいた。
もう何年前の話になるだろう。そんな懐かしい夢から、目が覚めた。
俺はあわてて起き上がり、携帯電話を開く。画面は「一月五日・午前十時」を示していた。あせりながら窓の外へ目を向ける。
良かった。雪は、降っていない。
「新吾、いつまで寝てるの? 花乃ちゃんと会う約束があるんでしょう?」
階下から母さんの声が響いてきて、俺は急いで飛び起きた。おざなりに顔を洗って、薄っすら伸びたひげをそり、朝飯を食べて飛び出した。
枯れた野原の真ん中で、花乃は座って待っていた。
「今日は降りそうもないね、ちょっと暖かいから」
花乃がぽつりと呟いて、残念そうに笑う。俺は一つ息をつき、曖昧にうなずいた。
この村では、一月五日からの六日間を「雪逢時」と言う。
『雪逢時に、その年初めての雪が降れば、その日だけ死者が帰って来る』
この村には、そんな言い伝えがある。早い話が、冬のお盆だ。けれど訪れる死者の面影は、お盆より少しだけ色が濃い。
「今日から六日間かあ。今年は、雪、降るかなあ」
他人事のように呟いて、雪降り巫女の花乃が笑う。俺は鼻から息を吐き、「それがお前の仕事だろ?」と切り捨てた。
「だって私の仕事は、お飾りだもん。祈るだけで雪が降ったら、誰も苦労しないでしょ?」
さらりと答えた雪降り巫女は「新吾の意地悪」とぼやいてくちびるを尖らした。俺は黙って頭の上で腕を組み、仰向いて枯れ草の上に寝転んだ。
意地悪をしたくもなる。だって、こいつは。
気持ちを素直にぶつける代わりに、俺は何気ない口ぶりを装って、花乃に問いかけた。
「帰って来るったって、ちゃんと姿が見える訳でもないだろう?」
「うん、少し肩に何かが触れたとか、懐かしい声で名前を呼ばれたような、とか、そのくらい。新吾も知ってるでしょ? ……でもさ、それでも、嬉しいんだよねえ」
花乃がこそばゆそうに微笑んで、口元に手をあてる。
こいつは、待ち焦がれている。雪が降るのを、誰よりも。
「大雪でも降りゃ良いな。そしたら姿も見えるんじゃないか?」
心にもない事を呟くと、花乃が「ああそっか、そうだよねえ」と大げさなそぶりでうなずいた。
五歳の時に亡くなった、幼なじみの男の子。花乃は未だに、そいつの事を想っている。そして今花乃のとなりにいる俺は、「雪なんか降らなければ良いのに」と、毎年のように祈っている。
花乃はきっと、俺の気持ちに気付かない。
この村に、雪が降る限り。
何年ぶりだろう、雪逢時に雪が降った。しかも大雪だ。
つい数日前に「大雪が降りゃ良いな」と言った俺は、同じ口を思いっきり尖らしてコタツでゲームをしている。
「新吾、花乃ちゃんのとこ行かないの?」
「行かないよ、こんな雪の日に」
行けるもんか。幼なじみの面影にひたっているあいつの所に、どの面下げて。
間抜けな効果音が画面から流れる。ゲームオーバーの画面を、今日はもう何度見ただろう。いつもはすごく得意なソフトなのに。
俺はため息をついて、ゲームの電源を落した。仰向いて、窓の向こうの雪を眺める。
きりもなく舞い落ちる雪の粒たちは、涙にも似ていた。
大雪の降った翌日、俺は花乃に呼び出された。
真っ白になった雪野原の真ん中で、花乃は微笑んで待っていた。
「……何だよ、用って」
「うん。あのね、新吾に言いたい事があって」
呟きめいた言葉をこぼして、花乃が照れたように笑う。そのまま小さく小首をかしげ、ただ黙って微笑んでいる。寒くて焦れて仕方ないので、俺の方から水を向けた。
「会ったのかよ、幼なじみに」
「うん、会えた。姿も見えた。私たちと同じくらい大っきくなってたよ。格好良かった」
とろけるように笑う花乃が、愛おしくて憎らしい。
ああ。駄目なんだ。
やっぱり俺じゃ、駄目なんだ。
俺はくちびるを噛みしめた。冷えきった耳に、思いもかけない言葉が届く。
「ずっと前から、待ってたんだ。あの人に、お別れの言葉、言いたくて」
思わず伏せていた目を上げる。花乃は口元を緩めて、泣き出しそうに笑っていた。
「……何て?」
「好きな人が、出来たって。君の事、忘れちゃっても良いかな、って」
花乃の目が潤む。少し苦しげにかぶりを振って、せわしくまばたきを繰り返す。
「そしたらね、あの人、『良いよ』って。……『ぼくも好きな子が出来たから』って」
花乃の目から、雫が落ちる。
俺は花乃に向かって手を伸ばす。震える小さな肩を抱きながら、足元の雪に目を落す。
嘘かもしれない。
死んだ人の「好きな人が出来た」という言の葉は、花乃を安心させるための、嘘だったかもしれないけれど。
でも今は、手の中の温もりが愛しくて。
それが全てで、それで良い。想う人は今、やっと前を見て歩き出せたから。
目の前を氷の花が横ぎり、花乃の黒髪を白く小さく彩った。
「花乃。……雪だ」
俺の言葉につられて、花乃も濡れた目を上げる。
許しのように、癒しのように、後から後から雪が降る。
俺たちは抱き合いながら、ずっと空を見上げていた。
後日譚・「あや結び」
夜中にふと目が覚めた。何か夢を見ていた気もするが、あやふやで良く思い出せない。
俺は軽く首を振り、枕もとの時計を見た。
デジタルの時計は「8/5・AM2:45」と今日の日付と時刻を指していた。ふととなりに目をやると、花乃がいない。
「……トイレか?」
呟いて立ち上がり、明かりのついているダイニングへ続く扉を開ける。
花乃はテーブルの椅子に座り込み、うつむいて本を読んでいた。俺に気付いて目を上げて、にこっと笑う。
「あ、おはよ」
「おはよ。……眠れない?」
「まあ、ちょっと」
花乃は困ったように微笑して、読みかけの本をテーブルに置く。すぐそばにあったスノードームを、くるくると緩く揺さぶった。
婚前旅行で買ってきた、たわいもない玩具だ。水を満たした丸いガラスに、細かな銀紙の欠片の入ったオブジェ。軽く揺すると、銀紙が散って雪のように見える。
ガラスの中には花嫁の人形が入っているから、銀紙吹雪はライスシャワーのようにも思える、そんなおもちゃだ。
花乃は夢見るような目つきでドームを見つめ、優しく抱えるそぶりで丸いガラスを包み込む。
「……明日、だね」
「もう今日だよ」
俺が笑ってつっこむと、花乃も笑って「そっか」とうなずいた。一つ吐息をした花乃が、目元をほころばせて呟いた。
「あの人も、天国で好きな人と幸せになってれば良いな」
俺は黙ってまばたいた。
思い出した。
先刻見た夢は、雪逢時の遠い記憶だ。花乃と死んだ幼なじみとの、甘く苦い記憶。
「ねえ、向こうでも子供って出来るのかな?」
はしゃいだふりで笑う花乃が、どこか苦しそうに見えて。だから俺は、つい余計な事を口にした。
「でもさ、あの言葉って、嘘だったかもしれないよな」
「……え?」
「だからさ、幼なじみの『好きな人が出来た』ってのは、嘘だったかもしれない、って……」
言葉を重ねて目を上げて、俺はやっと気が付いた。
黒目がちの花乃の瞳が、泣き出しそうに潤んでいる。
「どうして、そんな事言うの?」
「ああ、いや、嘘だよ、嘘々!」
俺の苦しい言い訳に、花乃が歪んでいた口元を少し緩ませる。あわてっぷりがおかしいのか、眉をひそめて笑ってみせた。俺はつられて苦笑して、花乃の後ろのカレンダーに目をやった。
八月五日、今日の日付に可愛い字で「結婚式」と書かれている。
花乃は婚約指輪の光る指で涙を拭い、どこか淋しげに微笑した。俺はそろいの指輪の光る指先で、花乃の頬に口づけた。
こいつは多分、まだ死んだ幼なじみの事を想い続けていて。
気付かないふり、ばれてないふり、運命の糸のあや結び。
けれどきっと、俺たちは今幸せだ。
幸せだ、と思っていないと、糸はたやすくほどけて消えてしまうから。
「……寝ようか」
花乃をうながして立ち上がり、ふとテーブルを振り返る。
スノードームの花嫁の目元に雪が降りかかり、涙しているようにも見えた。
(了)
一応「二話以上」なので「これは連載か?」と一瞬迷いました。けどあまりにも短い話だし、二話目はおまけみたいなものなので、あえて短編とさせていただきました。
胸がきゅんきゅんするような、切ない恋の話が好きです。「待ち人来たりて」は趣味全開の話なので、書いてて楽しかったです。