五月闇
軒をつたう雨が軒先の溜り水を叩く音で、おとこはぼんやりと目を開けた。目を覚ましたことに気がつくまで、暫時。目を覚ましたことに気がつくと、途端に恐怖と諦めがない交ぜになって、おとこの胸の締め上げる。
おとこは間もなく、川向こうの刑場でお仕置きになるのだ。今更ながら己の胸の内を騒がす焦燥感に気づき、おとこは己自身を鼻で笑う。
───いずれまともな死に方ができると思っていたわけじゃあるまいし。
牢格子には、おとこの仕置きを知らせる藁縄が結ばれている。その向こうに見える空はどんよりと曇って、厚い雲に灰色に塗りこめられていた。
「ついてねえな。」
ひとり板壁にもたれて、おとこはつぶやく。
せめて、死ぬ日の朝ぐらい、晴れ晴れとしたお天道様でも昇りゃあいいものを。しとしとと鬱陶しく降る雨を眺めて、おとこは思う。雨で仕置きが日延べになるわけでもあるまいし、どうせなら降り注ぐ日の光を浴びて、さばさばとした気持ちで首を落とされたかったと───
しかしおとこは、すぐに思いなおす。
自分には、そんなことさえ許されないのかもしれない。それは、おとこが悪行三昧で生きてきたからでも、人生とやらをさっぱり真面目に生きてこなかったからでもなく、言葉にするなら、運命とか言うものだ。それはきっとおとこが生まれた時、いや、もしかすると生まれる前に既に決まっていたもので、おとこがどう足掻いたところでどうなるものでもなかったものなのだろう。
ぼんやりと板壁にもたれて、おとこはじめじめとした暗い空を見上げる。その暗さは時が早いためか、それとも曇り空が朝日をさえぎっているだけで、すでに夜が明けているものか───五月闇の空からはそれさえも窺えなかった。
どれほどそうしていたか。
待っていたのか、恐れていたのか───おとこの耳が、雨音に混じる足音を聞いた。牢格子の外に近づく足音に、おとこの心の中のどこか真っ当な部分が、びくりと跳ね上がる。しかしおとこは、そんな自分を再び嘲笑った。
どうせ、真っ当な人生など歩めぬのなら、心の中に真っ当な部分など無ければよかったのだ。わずかにそんな隙間のようなものがあるばかりに、つまらぬ気分になる───
そう思いながら、おとこは自分のつまらぬ人生を思い返す。食うや食わずのつまらぬ貧乏家の、面白いことのひとつも言わず、笑った顔も見せたことの無いつまらぬ二親のもとに生まれ、それが当たり前のようにつまらぬろくでなしになった。いつともなく家を出て、つまらぬ裏路地に流れ着き、つまらぬ渡世で日を暮らし、つまらぬ連中と付き合い、己と同じつまらぬろくでなしとつまらぬ喧嘩をしてふとした弾みで相手を殺め、こんなつまらぬ雨の日に首を打たれて死んでいく。
今日、おとこがそのつまらない人生を終えたところで、大方の者はなんとも思うまい。口の悪い連中が酒の肴に、ろくでなしが二人も片付いたと笑うのがせいぜいである。
───生まれてなんぞ、こなきゃあ良かった。
ひたひたと陰気な足音が、おとこの前で止まる。雨に濡れ面白くなさそうな顔をした牢役人が、手下を従えておとこのいる牢格子の前に止まる。どうやら雨が面白くないのは、自分ばかりではないらしい。それがなにやら少しだけ可笑しかった。
五月雨の降る朝───
おとこがひとりぬかるむ道を引かれて行くのを、えんはひっそりと見送った。明け切らぬ空は、重い雲を湛えて暗く澱んでいる。しとしとと降り続く早朝の雨が、妙に生暖かくえんの肩を濡らしていた。
いずれ人さまの前を引き回すほどの罪人ではないのだろう。人目の無い薄暗い早朝の道を、おとこはひっそりと引かれて行った。えんは、おとこの顔を見る。おそらくは、盛り場のゴロツキででもあるのだろう。おとこの顔には、これまでの荒んだ人生が表れていた。
盛り場での詰まらぬ喧嘩で、相手を殺めでもしたものか───
喧嘩は両成敗、堅気なら死罪だけは免れることもあったが、ゴロツキ同士の喧嘩ならこれ幸いと残った方も死罪となるのが常道であった。
雨が降る。
濡れそぼち、裸足でぬかるみを行くおとこは、詰まらない顔をしていた。顔かたちが詰まらぬわけではない。その目が、世の中の何もかもが詰まらないというように、暗く乾いていた。
橋を渡り、ぬかるむ小道を進んで、御仕置きの列は閻魔堂へと曲がる。雨に濡れた閻魔堂は、いつにも増して陰鬱な佇まいを見せている。
おとこの目が気になって、えんは進む列をそっと追った。これが最期と思えば、何か思うところがあるかと思ったが、堂内へと引き入れられ、暫しの後に出てきたおとこの目は、相変わらず乾いていた。おそらくおとこは、詰まらぬ顔のまま、首を打たれるのだろう。
矢来に囲まれた刑場の中には、すでにおとこの座る莚が敷かれている。莚の前には血溜めの穴が四角く掘られ、穴の中には雨水がわずかに溜まり始めていた。えんは、刑場へと向かう列に背を向ける。処刑されるおとこを、見るに忍びないわけではない。ただ、おとこが詰まらぬ顔で死んでいくのを見る気はしなかった。
生ぬるい雨が辺りを包むように降り続いている。えんは雨を肩に受けながら、静かにその場所を離れた。
纏わりつくような濃い闇の中を、えんは閻魔堂へと向かった。降り続いた雨は、日の暮れがたに細くなり、今は小止みになっている。空はいまだ厚い雲に覆われているのだろう、月も星も姿が見えなかった。
足元さえも闇に沈んだ道である。どうせぬかるみを避ける術とてない。泥に埋まるのを覚悟で、えんは着物の裾を絡げ、裸足同然の擦り切れ草履で闇の道へ踏み出した。
降り続いた雨に力を得て、あちこちで蛙が鳴き騒ぐ。道脇に凝る闇の中には、何ともしれぬ生き物の強い気配が漂っていた。
細い小道を時折、生臭い風が吹き抜ける。踏み荒らされた小道は朝よりもさらにぬかるんで、生暖かい泥が時にえんの足をくるぶしまで埋める。それでも慣れた道だけあって、えんは提灯もないまま、闇の中を真っ直ぐに閻魔堂へと向かって歩いて行った。
やがて、闇の中にほんのりと閻魔堂の灯りが浮かぶ。
わずかに足を早め、えんは閻魔堂の前にたどり着く。刑場を包む闇にちらりと目をやってから、えんはとびらの隙間を覗き込んだ。
閻魔堂の中には蝋燭の灯りが揺らめいている。
灯りに照らされた閻魔王の豪奢な衣の裾が、重たげに揺れる。
王の傍らには倶生神、左右には赤青の獄卒鬼。
壇荼幢の首が火を吐き、業の秤が軋む。
浄玻璃の鏡が揺らめく灯りを映して輝いた───
「───えん。」
閻魔王の声に応じて、えんは閻魔堂のとびらを開ける。
不貞腐れた顔で座り込むおとこに目を止め、えんはそっと堂内に滑り込んだ。
「さて、倶生神───」
閻魔王がおとこを睨む。
「まずはこの者の生前の善行、悪行を細大漏らさず読み上げよ。」
はい、と倶生神がかしこまる。
「申し上げます。この者には、生まれ落ちてからこれまで、特に善行と申し上げる事とて御座いませぬ。しかし悪行の方は、枚挙にいとまのない程にて御座います───」
倶生神が、傍らの鉄札を取る。
しかし、倶生神が取り上げた鉄札を読み上げる前に、おとこの投げやりな声が響いた。
「生まれてきたのが、悪かったんだろうさ───」
「黙れ!」
閻魔王がおとこを一喝する。しかし、おとこはやめなかった。
「そうだろう? 俺は生まれてこのかた、善いことなんざしちゃあいない。詰まらないところに生まれて、詰まらないことをして生きて、詰まらない喧嘩の挙句がこのざまだ。死んだところで、どうせ行く先は地獄だろうよ。」
おとこは、倶生神の手にした鉄札に目をやる。
「その鉄札に記された悪行の、一番最初に書いてあるだろう。『生まれたこと』とさ。いっそ、人の世へなんぞ生まれさせてくれなきゃ良かったんだ。そうすりゃ、親は肩身の狭い思いをせずに済んだろうし、あの碌でなしも少なくとも俺に殺されることはなかった。役人どももこの鬱陶しい雨の中、嫌な首打ちなんぞしなくてよかっただろうよ。」
そう云って、おとこは乾いた暗い目のまま、閻魔王を見上げた。
「───甘ったれんじゃないよ。」
えんはおとこの後ろから、静かにそう言った。
「ガキが駄々こねるんじゃあるまいし、大概にしな。大抵の人間はね、生まれたくて生まれてきたんじゃなくったって、生きてくのさ。あんたみたいに詰まらないことを云わないで、生まれちまったものは仕方がないとあきらめてさ───」
生まれた時は皆同じなどとは、えんも思いはしない。生まれ落ちたその時から、人は皆違っている。運のいい者と悪い者では、そもそもそこから違うのだ。
それでも、人は生まれた場所で、どうにかこうにか生きていく。生まれたからには仕方が無いとあきらめて、時にはこれが分相応とうそぶいて。そうしてどうにか生きていくのだ、生まれてしまったからには───
「生まれたのはあんたのせいじゃないかもしれないが、生きてきたのはあんただろう? 詰まるか詰まらないか知らないが、手前の人生、他人のせいにするんじゃないよ。そんなざまになったのは、誰でもない、自分のせいじゃないか───甘えるんじゃあない。」
おとこの暗く乾いた目が、えんを見る。えんはその目を思い切り睨んでやった。
「───お前は、人の世に生まれたいと願ったのだ。」
閻魔王の声が静かに響いた。
「かつてお前がここへきた時、お前は今とは比べものにならぬ悪党だった。罪の報いを受けて地獄へ堕ち、長い間苦しんでいた。赦されるなら再び人の世に生まれたいと、そう言って涙を溢したお前を、漸く人に生まれさせてやることができたと思ったが───」
───間違いだったか。
閻魔王はそう呟いて、おとこに悲しげな目を向けた。
「倶生神───」
閻魔王の呼びかけに、倶生神が再び鉄札を取り上げる。
「この者は己同様の碌でなしとはいえ、人ひとりをその手で殺めております。この罪ひとつでも地獄へ堕ちるは当然のこと。しかしこの者の最も重い悪行は、真摯に生きてこなかったことで御座いましょう。この者が犯した他の罪も、多くはそのために招いた事に御座います。それ故に、弔う者とてなく、香華はおろか手を合せる者さえいない有様。それもこれもこの者が、己の生を真摯に生きてこなかった報いに御座います。いずれにせよ、地獄より他に行き場のない身。疾く地獄行きの断を下してやるが慈悲かと存じます───」
「───よかろう。」
閻魔王が悲しげに男を見下ろす。
「再び地獄へ下るがよい。自業自得とはいいながら、追善の供養も届かぬ身であれば、簡単には救われぬものと覚悟せよ。」
───我とて今度こそは、半端にお前を人の世に戻す気はない。
閻魔王は、最後にぽつりとそう呟いた。
おとこは、項垂れたままだった。
赤青の獄卒鬼が、おとこを引いて行く。
えんはその様を、哀しく見つめる。
おとこはうつ向いたままで、その目は見えなかった。
おとこの引かれて行った後の堂内は、いつもにもまして、うち沈んでいた。やり切れない思いで、えんはそっと閻魔堂を出る。月も星も塗り込められたような暗い空からは、再び細い雨が落ち始めていた。
おとこの処刑から数日が過ぎ、ようやく雨の上がった空には久方ぶりのお天道様が上りかけている。夜が明けたばかりの泥道に、刑場に向けて人目を避けるように続く二つの真新しい足跡を見つけ、えんは刑場へと足を向けた。
雨の間に伸びた草が、道脇に藪を作り始めている。朝日に照らされ、湿気を帯びた地面から濃い靄が立つ。
どうやら、暑くなりそうだった。
まだ伸び切らぬ藪の間から、刑場を囲む竹矢来が見えてくる。そこに人の姿を認めて、えんは足を止めた。
立ち上る靄の中、二つの人影が佇んでいる。矢来に囲まれた刑場は、がらんとして、捨札もなく、当然首も晒されてはいない。血溜め穴の四角い跡さえも、雨に流れて判然としなかった。二つの人影は、そんな刑場をじっと見つめて立っている。声を掛けようと、二三歩前に踏み出して、えんはそっと言葉を飲んだ。老夫婦らしき二人の手には、人目をはばかるように、僅かばかりの香華が握られていた。
おそらくは、おとこの二親なのであろう。涙さえもはばかられるのか、その目はただ真っ直ぐ前に向けられ、その手は矢来の竹を、強く握りしめている。そうして、おとこが命を終えたその場所を、今は何も残されてはいないその場所を、二人はじっと見つめていた。
えんはそっと彼等に背を向ける。
本来ならば、死罪になったおとこの供養は許されない。
その骸は試し斬りにされ、縁者に下げ渡されることもなく捨てられる。だからこそ二親は人目をはばかり、この早朝にこっそりと香華を手向けに来たのだろう。
たとえ大方の者には詰まらぬ碌でなしでも、彼等にとっておとこは息子であったのだ。人目を忍ぶ彼等の、ささやかで精一杯の子への手向けを、えんは邪魔したくはなかった。
やがて朝靄の晴れるのも待たず、二人は来た時同様、人目を忍んで帰って行った。
二人が去ったのを見届けて、えんは閻魔堂へと足を向けた。
頭上には、青い空が広がっている。ぬかるみの泥が、あちらこちらで乾きはじめていた。
日の光を浴びた閻魔堂の前に立ち、えんはとびらをそっと開ける。薄暗い堂内に明るい光が射し込み、細かな埃が光の中にきらきらと浮かぶ。堂内には香のかおりが漂っていた。
閻魔王、倶生神、赤青の獄卒鬼、壇荼幢に業の秤、そしてのっぺりとした浄玻璃鏡───木造りのそれらは薄っすらと埃をかぶり、光の中で一層色褪せている。その木造りの閻魔像の前には、刑場に手向けるわけにはいかなかった小さな花が手向けられ、僅かばかりの香が穏やかなかおりを残して燃え尽きていた。
ここでおとこの二親は、せめてもの供養をし、他に誰も祈ってはくれぬ、おとこの後生を祈ったのだろう。ふと足元に目をやると、埃まみれの板間には、涙のあとと思える、小さな染みがぽつりと二つ残っていた───
───そんなことがあったのさ。
えんはそう云って、おとこを見下ろした。
遠くに、亡者達の凄惨な哭き声が聞こえ、熱く灼けた生臭い熱風が吹き過ぎて行く。命を殺めた者の堕とされる等活地獄の、赤熱した大地から立ち上る熱気が、閻魔王の通力に護られたえんの身にも感じられた。
熱鉄の大地に項垂れるおとこに、えんは云う。
「あんたのために、こんなとこまで知らせに来てやる義理はないんだ。」
灼熱の熱風が、えんの髪を吹き上げる。
「ただあんたの二親が、気の毒だったからさ───」
おとこの目から涙が溢れた。
「───邪魔したね。」
えんはおとこに背を向ける。
背後で、傍らに立つ獄卒鬼がおとこの肩に手を掛ける気配がした。おとこはすぐにまた、地獄の中へと戻されるのだろう。
二親の供養が届いたところで、おとこの罪は幾らも軽くはならない筈だ。それでも、おとこの気持ちは、幾らか変わるかもしれない。
おとこに背を向けたまま、えんは歩き出す。
後ろには啜り泣くおとこの声が、まだ聞こえていた。
───間違っちゃ、いなかったんだろうよ。
えんは思う。閻魔王が、おとこを人の世に生まれさせたのは、間違いではなかったのだろう。地獄より他に行く先がないといいながら、おとこは先の世よりもずっとましになっている。
空を見上げると、日も月も昇らぬ地獄の空が、五月闇を思わせ灰色に淀んでいる。地獄の闇は明けないかも知れないが、人の世の雨はいずれ止み、梅雨が明ければ日の光が射す。
だから人は、人の世で生きて行ける。あのおとことて、いつかはまた、人に生まれる日がくるかもしれない。
そんなことを思いながら、えんは現世への道を歩いて行く。現世へ向かうえんの頬を撫で、熱く灼けた地獄の風が吹き過ぎていった───