2ー5
あまりの寒さに息も絶え絶えに私は池のふちに立つ人物を見上げた。
大佐が長い腕を組み、感情のこもらない、良くできた彫像の様な顔で池の中の私を見下ろしていた。
長い金髪は青いリボンと一緒に複雑に編み込まれ、右耳の下で一つにまとめられて流されている。自分で結わいているんだろうか。器用なことだ。私にはマネできない。
そんなつまらない事を考えながら私は池のふちに両手を掛けた。一刻も早くここから出たい。しかしあまりの寒さで足に力が入らず、私は池の中で小さくぴょんぴょんジャンプする事しかできなかった。ヤバい。池に浸かってる胸から下が痺れてきた。
誰か助けてくれ……。
「エリ様」
すると私の両腕にサッと手が伸ばされた。カイだ。憐れみに満ちた表情で私を助けようとしてくれている気の利く彼を、大佐がすかさず妨害した。
「待て。あれを拾ってからにしないか。」
大佐の長い指が私の後方を差し示す。そこには私が落としたままの木の枝がプカプカ浮いていた。
ちゃんと片付けろってか。
出会った当初から私はこの大佐の人間性を疑っていたが、どうやらやはり慈悲の心は持ち合わせていないらしい。
凍てつく水の中を数歩進み、枝を掴み取ると、私は池のふち目掛けて力一杯それを投げた。水が少々大佐の足元にかかり、大佐の左頬が微かに引きつったのを視界の端に認めたが、もう寒くてどうでも良い。
今度こそカイが私を引き上げてくれると、予想外にも寒さはレベルアップした。濡れた体に吹き付ける風がとにかく寒い。池の中に戻りたいと思うほどだ。
するとフワリと私に誰かのマントが掛けられた。えっ、と顔を上げると大佐がマントをしていない。
そうか。またか。
水で服がまとわり付いて、体のラインが破廉恥な感じになってるもんな。
大佐は品の無い服装が眼中に入るのが余程お嫌いらしい。
「すぐにサハラにお湯を湧かさせましょう。」
そう言いながら私をトンプル宮の方へ促そうとしたカイを、再び慈悲深い大佐が妨害した。
「待て。その銀音笛はどうした。」
大佐は私が握りしめている笛を見ていた。銀音笛という楽器だったらしい。別に私は池に落ちていたから盗んだ訳じゃない。
「この笛は王太子殿下が私のせいでベランダから落とされたので、探していたのです。」
気のせいか大佐の白い顔が格段と白くなった。何か誤解でもしているのだろうか。大佐の思考回路は常人には理解不能だから、追及しない方が良い。
それ以上の詰問は無さそうだったので、私はカイとトンプル宮の中に戻った。
朝食の時間、私はオレンジに似た柑橘系の果物を食べながら、意を決してサハラに尋ねた。
「王太子殿下はどうして幽閉されているのですか?」
やはり気軽に聞いて良い話題ではないのだろう。いつも笑顔のサハラの表情がさっと曇った。
「お母様が流罪になったと聞いたのですが。」
私がそう言うとサハラは手に持っていたポットを置き、ほぅっ、と息を吐いてから言った。
「……そうですね…誰か他の者が、事実無根の情報をエリ様にお話しするよりは、私が話させて頂いた方が良いのかもしれません。」
サハラによれば、前王妃――ラムダス殿下の母――は元々心の弱い方だったらしい。ラムダスの誕生後暫くして国王の寵愛が正妃である自分から側室へ移ってしまうと、次第に心身に異常をきたす様になった。特に国王と側室の間に第二王子が生まれ、その王子が秀麗で聡明な、誰からも好かれる子に成長すると、彼女の病的傾向は顕著になり、世継ぎは我が子ラムダスだ、他に王子は必要ない、と誰憚る事なく主張する様になったという。そして11年前、新年の祝いの宴席で、第二王子とその同母弟である第三王子が毒を盛られ、第三王子がなくなった。捜査の結果、王妃の部屋からその毒と同じ物が入った小瓶が見つかったのだ。第二王子も一時生死を彷徨った緊迫した空気の中、王妃は人目も気にせず王子の死や重症ぶりを喜んでいた。
「王妃様が側室の産んだ二人の王子様に毒を?」
「分かりません。当時既に王妃様は正気を失っておられましたから。けれど状況は限りなく不利でした。」
王妃は王族の出だったが、実家は側室の実家との政争に負け没落寸前だった。庇ってくれる家も無く、心を病んで久しかった王妃には慕ってくれる側近もいなかった。
王妃は雪に閉ざされた北の大地に流罪となり、当時の側室は現在王妃となっている。
「………じゃあ、王太子殿下は?どうして幽閉されているのですか?」
側室の王子暗殺事件と王太子はどうつながっているのか。私が疑問を口にすると、サハラは両手を固く握りしめて答えた。
「後ろ盾の無い王太子様を疎む者は多いのです。あんな事件がありましたから…王太子様を廃太子にせよ、と主張する声も少なくありませんでした。王宮はラムダス殿下の存在を世間から忘れさせようとしているのです。」
「あの足枷は…?」
「お若い頃、ご自分の置かれた不当な環境に堪り兼ねた王太子殿下が、何度かここから脱走をしては連れ戻されたのです。最後に脱走された後、陛下が足枷を……。」
涙がせり上がってきた。
王太子に対する同情か、国王に対する怒りか分からない。
無意識に私は手の中のオレンジもどきをキツく握りしめていた。指の間から果汁がこぼれ落ちる。サハラはそれをハンカチで優しく拭ってくれた。
「エリ様。……王太子殿下の御為に泣いて下さるのですね。この宮は寂しい所でしたけれど、エリ様がいらしてから随分と変わりました。殿下もエリ様がいらしてからとてもお楽しそうにされてます。」
本当だろうか。それは、本当だとしたら凄く嬉しい。
「私が来たせいで皆さん忙しくなっていませんか?……今日も朝から服を池の水で汚したり、余計なマントの洗濯物を増やしたりしてしまいました。」
「むしろ活気が出て良いんです!それに、エリ様のおかげで普段は遠い存在だった近衛隊の方々と接点ができて、侍女は皆喜んでます!」
サハラの無邪気な笑顔が私の心に真っ直ぐに響いた。
私はここにいても良い、と言って貰えたのだ。厄介な存在であるこんな私でも、何かしら役に立てているらしい、と知る事は思いがけず幸福な事だった。