2ー3
私は王宮へ去って行くケインの後姿を窓から見つめながら、物思いにふけった。
一昨日のひたすら保身に走った彼と、今日のヤケに低頭な彼がなんともつながらず、ちぐはぐに感じられた。
二晩寝て、頭が冷えたのか。
そう信じたい。
とりあえず私は王宮の図書室とやらに行ってみたいと思った。この宮でいまいち何をして過ごしたら良いのか悩ましいところだったので、勉強にもなるし、良い時間潰しになりそうだ。上手くいけばケインの手助けもできるかも知れない。
私はカイに案内を頼み、二人で王宮へ入って行った。王宮は広いが、外部の人間が出入りできる部分は限られているので、図書室まではそれ程時間がかからなかった。
「凄い……。」
図書室に入ると私は思わずそう呟き、中を見渡した。日本の図書館が軽がる一つは収まってしまうほどの大きな空間に、奥まで延々と本棚が並べられていた。天井はドーム型の巨大な吹き抜けになっていて、壁際にだけ二階部分があり、小さなテーブルやソファが置かれ、閲覧スペースになっていた。大きな窓からはサンサンと陽が入り、暖かい。本独特の香りはどこの世界でも同じらしく、私は大きく深呼吸して、その慣れ親しんだ香りを肺いっばいに吸い込んで味わった。
私は一つ一つの本棚を確かめるように、室内を隅々まで満喫すると、今すぐにこの蔵書たちを読んでみたくてウズウズした。無限の情報源が自分の前に広がっていた。
しかしこの膨大な情報の扉を開ける為には、まだ大きな問題が横たわっていた。私はこの世界の字が読めないのだ。
魔法陣による言語と文字の獲得は、セットになっていないのか。大佐もサービスが悪い。
どうしたものかと考えていると、見覚えある全身黒マント集団が図書室に入ってきた。何か資料が目当てで来たのだろう、彼等は図書室奥の一角へ向かっていたが、そのうちの一人が私に気付き、こちらへやって来た。
ケインだった。
渡りに船とはこの事だ。
私は愛想笑いを浮かべて彼に話しかけた。
「先ほどはどうも。早速来てみました。」
「気に入ってくれたかな。好きなだけかりていけば良いよ。」
私はすぐに本題を切り出した。
「そうしたいのはヤマヤマなんですけど。実は私、こちらの字がまだ読めないんです。………あの、図々しいお願いをするようですが、術とかで、字が読み書きできるようにして頂く事はできませんか?」
私は上司にゴマをするが如く、自分の両手の平を無意識にこすり合わせていた。
「残念だけど僕にはその術は使えないんだ。」
な、何………っ。
地球とこちらの空間をつなげてしまうほどの能力を持つ宮廷魔導師とやらにも出来ないことがあるのか。ケインは私の顔に表れた落胆に気付き、弁解するように恐縮した様子で言った。
「一応、得意不得意分野があってね。僕はどうもそういう捻りの効いた技が苦手で……。」
「捻り、ですか。」
「そういう術なら近衛隊長の十八番だった筈だよ。もう少したったら、又彼に頼んでみたらどうかな。」
他にできる宮廷魔導師とやらはいないのだろうか。できればそちらを紹介して欲しかったが、仕事中で作業に戻りたそうなケインこれ以上に食い下がるのは気が引けた。それに本当に図々しい奴だと思われたくは無い。
私は素直にそうします、と頷くと、仲間の所へいそいそと戻るケインを見送った。
私は図書室の入口で相変わらず直立不動で控えていたカイと図書室を後にし、廊下を歩いていると、遠巻きにこちらを見ている集団に気づいた。
一人は豪華なドレスを着ており、貴人の様に見受けられた。ウェーブのかかった金色の長い髪に、その瞳と同じ色の青い花を飾っている。十代半ばといったところか。周りにいるのは侍女達だろうか。同じく彼女達に気づいたカイが私にそっと耳打ちしてくれた。
「あちらにいらっしゃるのは第一王女のユリバラ様です。」
なんともかぐわしい名前のその王女は、私と視線が合うと侍女達を引き連れてこちらへ近づいてきた。
「あなた、異世界から来たんですって?」
私は何とも返事をしかねた。
騒ぎが大きくなるのを防ぐ為、私が異世界から来たという事は伏せられていて、事実を知っているのは謁見の間にいた人々と、トンプル宮では王太子とサハラだけだと聞かされていた。私は南の島からの客人という事になっているはずだった。実際はかなり話が広まっているのでは……。
王女が私の目の前で立ち止まると、取り巻きの侍女達が私を囲む様に扇状に広がった。なんだか皆さんお顔が酷く険しい。初対面なのに随分非友好的な感じだ。私は思わず後ずさりした。
「ねえ、トミナガーリ。勘違いしない事ね。アレヴィアンがあなたに優しいのは、あなたに同情しているからだけなのよ。」
私は一瞬首を傾げた。アレヴィアン?どこかで聞いた名だ。
ああ、大佐の事か。
…………なんだか随分誤解があるようだ。というより、誤解しか存在してない。
「………トミナガ エリと言います。トンプル宮でお世話になっています。」
「トミナ…?変な名前ね。いいこと?アレヴィアンは忙しいのよ。彼に近づこうなんて、余計なことは考えないことね。」
どうやらここにも大佐のファンがいたらしい。私が呆気にとられていると周りにいた侍女達が、無礼者!王女様に早く返事をしなさい、とせっついてきた。
「は、はい。気を付けます。」
かなりの棒読みになってしまった。だが彼女達は満足してくれたようで、王女がふん、と鼻を鳴らして私から視線を外すとそれを合図に揃って立ち去っていった。
私はトンプル宮に引き返しながら、考えた。やはり字は地道に習った方が良さそうだ。大佐の術に頼るのは色んな意味で怖そうだ。
私はサハラに字を教えて貰う事にした。彼女は二つ返事で私の頼みを快諾してくれて、すぐに手製の文字表を使って教え始めてくれた。
こちらの文字は、数自体は日本語ほど無いものの、前後の文字に対応して読み方に変化があり、日本語より英語のアルファベットの規則に近かった。
私はまず文字自体を覚えるのに困難を覚えた。一文字がやたら装飾的で、尚且つどれも似ているように見えてしまう。これではいつ本が読めるようになるか分かったものじゃない。
欠伸を噛み殺しながら文字の練習をしていると、部屋の外から物音がした。
「なんだろ。」
椅子から立ち上がり、部屋に付いているベランダに出た。日が沈みかけており、灰色の雲間から輝くオレンジ色が見える。まるでその夕日を音色にしたかの様な切なく美しいメロディが聞こえた。音の方角を確かめると二つ隣のベランダで誰かが横笛を吹いているのがわかった。距離が離れているのと、日が沈みかけているせいでこちらから顔は見えなかったが、その奏でる音は胸を締め付ける様な悲愴感に満ちており、演奏者は泣いているのではないかとさえ思えた。私はベランダで寒さを忘れて長い間きき惚れてしまった。
演奏者は曲が終わると横笛を片手に持ち、ベランダの手すりに寄りかかった。その動きにあわせて、ガシャン、と聞き慣れた金属音がした。
「殿下………?」
思わず私はそう口にしてしまった。誰もいないと思い安心しきっていたのか、突然の私の声に王太子はびくりと身を強張らせて驚き、銀色の物がその手から鈍い輝きを放ちながら滑り落ちた。遥か下でカツン、と渇いた音がして、続いてボチャン、と水の音がした。
王太子の手から、さっきまであった横笛がなくなっていた。