8ー3
楽しい宴の余韻に浸りながら、私がサハラと廊下でお喋りをしていると、大佐の来訪を若い侍女に告げられた。
それを伝える侍女は顔面が紅潮し、声は上ずっていた。大佐のファンなのだろうか。それとも、応対時に大佐の逆鱗に触れてしまい、恐れをなしているのか。僅かな乱れも許さない大佐の事だ。引っ越し準備で雑然としているここの状況を見て、また姑じみた叱咤をしたのかもしれない。若しくは、単に大佐の虫の居どころが悪かったのだろう。
応接室へ行くと、大佐が出されていた茶を端に追いやり、書類の束を机に並べていた。大佐は私の入室に気づくや否や、向かいのソファを無駄に長い手で指し示した。
「とりあえず掛けて、寛いでくれ。」
ここは大佐の自宅か。
私は眉間に皺を寄せて大量の書類を仕分ける大佐を見ながら、それでも会えて嬉しく感じてしまっている自分の気持ちに自分自身で首を傾げた。
「昼頃から随分長い事賑やかだったらしいな。案内してくれた侍女に聞いた。」
どうやら侍女と大佐は穏便に他愛ない会話をしただけだったらしい。私は胸を撫で下ろした。
「はい、そうなんです。明日の朝、引っ越しなので。王太子殿下と私の引っ越し祝いをしてくれていたんです。」
すると大佐の目に急に冷たい光が走った。
「殿下と私、とは何の話だ。」
「私も王宮に部屋を貰えるらしいんです。侍女達も全員ここから出て行く予定なので、一人で残るわけにもいきません。……サハラも元々王太子殿下の侍女なので。」
「そんな口車に乗せられたのか。」
「口車…?」
「まあ良い。時間が無い。手短に済ませたい。………これは昨夜の事件を初めとする調書の山だ。証人の一人として、これ全てにエリのサインが必要だ。」
果たして大佐は時間に追われていない時があるのだろうか。
それにしてもこの書類全部に…?何時までかかるのだろうか。
大佐は十頁ほどの紙の束をまず私の目の前に置いた。
「これはケインがお前を召喚した事についての報告書だ。」
ここにサインしてくれ、と言いながら大佐は表紙の右下にある空欄を指で軽く叩いた。
私は表紙をめくり、まだ慣れないイルドアの文字を、なんとか私なりに速く読もうと全力を尽くしつつ、報告書に書き連ねられている細かい文字に目を走らせた。
そこには、ケインが私に施した人体移動術について、詳細な記述がされていた。目を皿の様にして読み進め、頁をめくった時、呆れた声が頭上から降ってきた。
「まさか全部読むつもりではないだろうな。」
「そのつもりですけど。だってサインがいるんですよね?」
どんな書類であれ、全部読まずに署名など決して行ってはならない。現代日本人であれば、押さえておくべきイロハの一つだ。
でないと、知らぬ間に借金を背負わされたり、ガラクタを送りつける通販に超高額な支払いを要求されたり、新手の詐欺被害にあったりする危険性があるのだ。
私が大佐にそう説明すると、大佐は尚も剣呑な眼差しをこちらに向けてきた。仕方なく私は以前、持ち上げるのも嫌になるほど重たい上に、全く吸引力の無いハンディ掃除機を買わされた苦い経験談をしてみた。しかし、話し始めてから気付いたが、こちらの世界には掃除機が無かった。まず掃除機の解説からしなければならず、大佐の貴重な時間を無為に使わせてしまった。明らかに大佐は私が下手な作り話をしたと判断した様で、その形の良い眉の間に更に深い皺が刻まれていた。
「要するに不利な特記事項の記載を心配している、という事が言いたいのか?」
大佐が華麗に一言でまとめてくれた。
私がコクコク頷くと、大佐は盛大な溜息をつき、灰色の瞳を床の上に流した。
えっ、舌打ち?
大佐が私に向かって舌打ちをした様に聞こえた。何かの間違いだと信じたい。
「ならば私が読み上げるから、目で追え。それで良いな?」
背筋も凍る冷ややかな視線を投げてくれながら、大佐は譲歩してくれた。
ここ最近の大佐にしては、異常に機嫌が悪い気がする。やはり虫の居所が悪いのか。
それとも私のハンディ掃除機の小話が余程不快だったのか。そういや、吸引力が無い癖に音だけは物凄くうるさかったっけ……。
大佐の早口の朗読を聞きながら、よくも逆さからそんな速度で読めるものだ、と私は感心した。
説明が終わると私は、拙い字で自分の名前をサインした。
次の書類が目の前に置かれた。
「ケインと主にタラントで行った、人体移動術の報告書だ。」
続けて大佐は淡々と書かれている内容を読み下した。
次はサハラ誘拐事件についての調書だった。同じく読み上げてもらい、調書内容に相違ない旨を表す為、サインした。その次は王太子毒殺を強要されたことについての調書。その後は牢番殺人事件についての調書、とそれぞれの事件についての調書のオンパレードであり、ついには11年前の事件についての調書も表れ、ケインの行動と自白に対して細かな確認とサインによる同意を求められた。次第に頭の中がぼんやりとし出し、大佐の説明の大部分を聞き流している自分がいた。
前に置かれた紙の上を、やたら装飾的なミミズがのたうち回っている。おかしいな、書類がぐらぐら揺れている。ああ、眠いんだ、私。昨夜は遅くまでサハラと話し込んでいたから…。瞼って開けるの、こんなに大変だったっけ。
高校の現代文の授業を思い出す。優しいけど、凄く退屈な授業をするおじいちゃん先生だった。
気が付くと大佐の美声が途絶え、私達は水を打った様な静けさの中にいた。その静けさにハッと気が付くと、瞬時に目が覚めた。
しまった、うたた寝していた。
慌てて顔を上げ、定まっていなかった自分の焦点を合わせ、無理矢理わざとらしく目を大きく開いて大佐と目を合わせた。
「寝ていたのか。」
「寝てません、先生。」
しまった。先生って誰だよ。寝ぼけていたのがバレバレじゃないか。
私を見つめる灰色の瞳が怖い。あれは間違い無く鉄板でできている。
「では私がどこを読んでいたか差し示して貰おうか。」
私が高校生だったら、泣いて家に帰っていたことだろう。しかし私は大人だし、そもそもここが私の住まいなのだ。
苦肉の策として、私は逆ギレしてみる事にした。現代日本人ならば窮地に陥った時に重宝する、開き直りワザだ。
「っていうか、ケインさんによる私の殺人未遂に関する書類は作成してないんですか?大佐があの時もう少し早く登場して下されば、私の繊細な心に深~い傷ができる事も避けられたと思うんですけどね。」
「ああ、あれか。ケインに言い逃れをさせる余地を残したくなかった。穴の行き先など結局はケインにしか分からん。あの場に居た誰の目にも明らかな加害の意図を示して貰う必要があった。極限まで追い込まなければ、11年前の事件まで自白しなかっただろう。兵達には冷静に対処するよう釘を刺してあった。」
冷静過ぎて引くんですけど。
「心配は無用だ。それに係る調書もこちらの束にまだある。」
「大佐は…自白以上のものを引き出したんですよね?これって…、他の方もご存知なんですか?」
大佐の涼し気な表情が一瞬強張った。意思の強そうな両眼が、確かな怒気を乗せて私を射抜いていた。
でも確かめたいのが人情ってものだ。
「どこまで知っている?」
「彼は王宮を出て行かれるそうですよ。前に大佐は、彼は王にふさわしくない、と言ってましたね。それが大佐が王太子派になった理由ですか?」
「その話はこれを最後にしてくれ。……私は王家の転覆を謀っているわけではない。全てお前の胸の内に留めて置いてくれ。」
長く息をついてから、大佐は語った。
当時、人々は第一王子と第二王子をめぐる争いを事件の背後に見ていた。しかし、混入されていた毒物の量には明らかな差があり、亡くなったのが第三王子の方だった事から、大佐は動機に疑問を抱いたのだという。
「第二王子を温存したい、という意識が水面下で働いたのであれば、犯人像は第二王子を世継ぎにしたい者に近くなる。しかし、調査の結果毒は王妃の元から見つかった。私が王妃なら、毒の量は逆にしていたな。つまり、王妃が濡れ衣を着せられたと考えるのが自然だ。」
毒の瓶を移動する事が出来たのはケインだけだ。だがケインは紛れも無く甥達を愛していた。一方で、第二王子を世継ぎにしたいのであれば、第一王子を狙う事が最も確実だったはずだ。大佐にとって、犯行の動機と結果が結びついていなかった。
「王妃の心の病に対する根強い偏見と、当時の世継ぎを巡る対立が、真相を見えなくしていた。最初に筋書きありきで捜査が進められたのだ。しかし、私自身が、機会のあった者を立場や年齢の別無く皆疑い、そこから可能性を排除していった結果、残ったのは『彼』だった。」
消去法で特定した犯人に大佐も確信があったわけではない。だが私が召喚された事により、ケインの嫌疑は深まったのだ。
ややこしいな。大佐の思考回路について行こうと思ったのが間違いか。私が大佐の説明を聞き、考えこんでいると、大佐は声色を変えた。
「どうだ、眠気は覚めたか?」
「すみません。覚めました。もう寝ません。」
「丁度良い。ついでにお前の就寝時間を教えてくれ。」
私は暫時何を聞かれたのか理解できなかった。何のついでなのか。そんな事を知っても何の得にもならないと思うけど。
「えっと。普段は11時くらいでしょうか。」
24歳の就寝時間としては早いかもしれない。でもここにはテレビや携帯が無い。遅くなると、やる事が限られるのだ。
「では、今夜11時に又お前に会いにくる。」
えっ、それはどういう事だろう。何かの嫌がらせか?
私が顔をしかめていると、大佐は付け加えた。
「夜着には着替えず、部屋で待っていてくれ、という意味だ。」
「仰る意味が分からないんですけど。」
大佐の不可解な要求はうやむやにしておくと、後でロクな目に遭わないのだ。説明は、つまびらかにさせなければならない。私は既にこっぴどく学習していたつもりだ。
「渡したい物がある。時間は取らせないから、バルコニーにその時間に出てみてくれ。」




