2ー1
視界にその足枷は完全に入っているのに、私の脳が事象を理解する事を拒否していた。
目に入っているそれが、幻かとすら思った。
王太子の両足には、鉄の枷がはめられ、その枷は歩幅分ほどの長さの一本の鎖で結ばれていた。
これでは歩けても走るのは難しそうだ。
私は食い入る様に足枷を凝視し、猛烈な時間をかけて恐る恐る視線を王太子に戻した。
私と再び視線が合うと、彼は自嘲気味に笑って目を逸らし、言った。
「俺の母親は流罪になった王妃でね。ご覧の通り、俺は名ばかりの王太子だ。」
私はなんて言うべきか、分からなかった。
「トンプル宮は、王族を幽閉する為の離宮だ。……まあ、あんたは俺とは状況が違うだろうが。公に存在していて欲しくない、でも手は出せない、かといって近過ぎず遠過ぎない場所で監視したい。そう言った事情は同じなんだろう。」
やはり現実は甘くなかった。……結局のところ異世界から現れた私は相当不審者にしか見えないのだろう。謁見の間でトンプル宮の名が出た時の、微妙な空気の理由が良く分かった。
「そう落ち込む事はない。あんたは俺と違って出入り自由だし、ここの生活はなかなか快適だしな。」
なるほど国王の約束は確かに守られているとも言える。頼りないが今はケインが私を安全に帰す方法をそのうち見つけてくれると信じるしかない。王太子の庇護説は私の中でたちまち消去された。
「あの、王太子殿下はいつからこの宮に…?」
「11年になるから、14歳の時からだな。」
足の鎖をもう一度見て、ゾッとした。彼自身はどんな罪を犯したのだろう。
「実は昨夜まで体調を崩して王宮の医務院に入院していたんだ。まだ本調子じゃなくてね。…話はまた今度ゆっくりしようじゃないか」
話が終わり部屋を出ると、カイがいた。早速警護してくれるつもりらしく、ドアの脇に直立不動で控えている。
「お話は終わりましたか?」
私がコクリと頷くとカイは気遣わしげにゆっくりと言った。
「…ラムダス殿下は、少々複雑なお立場にいらっしゃる方なのです。ですが、とてもお優しい良い方ですので………エリ様も色々と驚かれたかも知れませんが、どうかご安心の上、当分はこの宮でおくつろぎ下さい。」
「うん、ありがとう。」
私はベランダに出てみた。そこはトンプル宮の最上階にあった為、素晴らしい景色が眼下に広がっていた。
王宮とトンプル宮は分厚い城門で囲まれているらしく、その城門でかなり視界は遮られていたが、それでも小高い丘という立地のお蔭で街並みが見渡せたのだ。
赤茶の屋根に白っぽい壁を持つ家々が点々と広がり、鐘がついた塔が街並みの所々に、スッキリとのびているその様子はヨーロッパの世界遺産地区を彷彿とさせた。こんなに綺麗な所に来たのだ。せいぜい旅行にでもきたと考えて、楽しむくらいのポジティブさが無ければ、この先やっていけないかも知れない。
「……楽しんでやる。満喫しようじゃないの。」
私はサハラに頼み、トンプル宮内部を簡単に案内して貰った後、庭園を散策する事にした。昨夜は暗くて良く見えなかったが、色とりどりの花々が植えられ、緑豊かな木々の葉達が風を受けカサカサと音をたてて揺れるのを見ると気持ちが和んだ。
私は散策しながら、この世界の事についてあれこれ質問をしてサハラに教えて貰った。
こちらに来て直ぐに魔法陣だのを目撃した為、私はここでは皆魔法が使えるのかと思っていたが、ごく一握りの人々だけであって、大多数の人々は何の力も無いらしい。
またこの国は大きな大陸の北に位置し、南の国々には私に似た顔立ちの民が結構いるらしい。
私が王太子について聞くと、サハラはとても悲しそうな顔をした。
「おかわいそうな方です。トンプル宮にいる侍女達は皆、ラムダス殿下の味方ですわ。」
散策からトンプル宮に戻ると、私は廊下の途中で侍女に呼び掛けられた。彼女は綺麗に畳まれた大佐のマントを手に持っていた。
「こちら、エリ様のお部屋にありましたので洗わせて頂きました。………あのぅ、アレヴィアン様………近衛隊長のマントだと言うのは本当ですか?」
「ありがとう。そうなんです。昨夜貸して貰って…」
するとワラワラと何処からともなく侍女達が集まり、キャーキャーと何やら黄色い声を出してマントに手を伸ばした。折角畳まれていたマントは彼女達によって広げられ、手でさすられたり、中にはマントに頬ずりする侍女までいた。
呆気にとられて私が見ていると、サハラが恥ずかしそうに言った。
「近衛兵は上級貴族だけがなれますし、中でも異例の速さで出世されたアレヴィアン様は王宮の女達の憧れの的なんです。」
それに美丈夫な方ばかりの近衛兵の中でも一際お美しいですし、と侍女達が口々に大佐を褒めた。
おかしい。昨夜の不機嫌を絵に描いたような大佐を見ても彼女達の意見は変わらなかったのだろうか。私は首を傾げて言った。
「私はとても厳しい方だという印象を持ちましたけど…」
「ええ!仕事にとてもストイックで、そこがまたたまらないんです。」
「エリ様、マントをお返ししに行かれるなら私達、お供させて下さいませ!」
私は彼女達の気迫に押し切られ、カイに大佐の居場所を尋ねた。今なら訓練所にいるので案内してくれるという。
「突然行って迷惑じゃないかな?」
「ここから近いですし、エリ様が行かれたいのであれば私は喜んでご案内致します。」
カイは例の優しい笑顔でそう言ってくれたけど、私はあまり大佐に会いたくなかった。とは言え、貸して貰った物は早く返した方が良い。
訓練所は王宮とそれを囲む城壁の間にあり、女の足には割と遠かった。詰め所らしき建物の横に広がる広場で、青服の近衛兵達が二人一組になり剣の練習をしていた。
真剣そのものといった雰囲気のそこへ、十人ほどの侍女を引き連れた私がやって来たので、場違いもイイ。早く用事を済ませこの場を立ち去ろうと、私は大佐を素早く探し、駆け寄った。大佐はこちらを見つめ、笑顔を浮かべると私にだけ聞こえる声で言った。
「遠足気分か。気が散る。マントを置いてすみやかに出ていけ。」
目が笑っていない。後方で侍女達が、笑顔もステキーっと騒ぐのが別世界の出来事の様に感じられた。
その夜、私は日中あちこち散策した為にヘトヘトになり、早目にベッドに入った。あっという間に眠りに落ち、どのくらいたった頃だろうか。ふいに風を感じ、眉をしかめた。寝ボケまなこで一瞬目を開け、その一瞬に異常なものをとらえて、バッと目を開けた。
私は恐怖のあまり硬直し、息をするのも忘れた。
王太子が私の顔を覗き込んでいた。