8ー2
「ようやく毒が抜け、意識が戻った時、既に王妃が逮捕され、弟は息を引き取っていた。……余りに恐ろしく、自分の記憶に蓋をするしか無かった。」
こんな事があって良いのか。多くの人々を苦しめた犯人が、少年だったなんて。しかも今もってその人物は、罪を庇われて野に放たれている。
私は膝の辺りのドレスの布地をギュッと掴み、隣に立つウィンゼル王子を見上げていた。彼は王太子やその母君がそのせいで置かれた境遇を知っても、口を噤んでいたのだ。そう思うと、腹の底から怒りが沸き起こった。
私が怒っている事を察したのか、ウィンゼル王子は目を逸らした。
「もう二度と王宮に戻るつもりは無いよ。これでも罪悪感はあるんだ。」
ウィンゼル王子は私の手を取り、椅子から立たせた。
「あの舞踏会の夜の事は、決して忘れない。私はひと時、全てを忘れて心から楽しんだんだ。」
「……なぜ私に、罪の告白なんてなさったのですか?」
そう尋ねると、ウィンゼル王子は私の手を放し、考え込む様に目をすぼめて中庭の噴水の方へ視線を滑らせた。
「たった一人でも良い。知っていて欲しかったんだ。」
私達は目を見張るほど美しい中庭の花々の中に佇んでいるというのに、もう周りの景色は全く目に入ってはいなかった。
こんなに重大な告白をして、私にどうしろというのか。私が誰かに話す可能性は考えないのか。それとも秘密を共有しろと?
「君を忘れないよ。」
ウィンゼル王子は、会えて良かった、と囁くと、私に背を向けた。遊歩道のタイルに軽い音を響かせて、そのまま回廊の柱の間に消えて行った。残された私は事態を飲み込めぬまま、ただ噴水の音だけを聞いていた。
ぼんやりと視線をテーブルに落とすと、手を付けられ無かった菓子が目に入った。
勿体無い、とこんな時ですら感じるのだから人の食欲はたいしたものだ。動揺する気持ちを静めよう。私の脳がくたびれて糖分を必要としているに違いない。
私は誰もいなくなった中庭でひたすら菓子をつまんだ。
トンプル宮に戻ると、食堂が賑やかだった。引っ越し準備もそこそこに、王太子を始め侍女達や医務室の職員まで食堂に集っていた。テーブルには軽食や菓子が並べられ、皆各々飲み物の入ったグラスを手にしていた。さながら立食パーティの様だった。
私が入り口から覗くと、王太子がすぐにこちらに気付き、手の中の飲料をひと息で飲み干すと、グラスを侍女に手渡しこちらへやって来た。
「どこに行っていたんだ。俺とエリの引っ越し祝いなのに。」
一瞬聞き間違いかと思ったが、嫌な胸騒ぎがした。返事も忘れて私は入りかけていた食堂から飛び出すと、自室に走った。廊下は掃除用具が未だ転がっていたりするので、クネクネと避けながら進まねばならなかった。
自分の部屋の扉を開けて私は、ウソでしょ……!!、と心の叫びを口からほとばしらせた。
部屋の真ん中に箱や革張りのトランクが積み重ねられていて、私が朝出るまで生活感に溢れていた室内は、見事に片付けられていた。机の上に転がっていた筈のペンや紙は跡形も無く、寝台の下に雑然と置いていた本や雑誌も行方をくらましていた。
念の為クローゼットの中を確かめようと、駆け寄って真鍮の取手を掴み、勢い良く開けた。たくさんかけられていた筈の私の服は、ベルト一本残っていなかった。
「あっちへ行ったりこっちへ行ったり、忙しい奴だな。」
後ろから声を掛けられ、振り返ると王太子がいた。
「あの、これはどういう…」
「いつまでもトンプル宮にいたらおかしいだろう?サハラは元々俺の侍女だしな。エリも王宮に一緒に行こうぜ。」
行こうぜ、って提案されているみたいだが、既に勝手に準備は万端じゃないか。私が展開について行けずに浅い呼吸を繰り返していると、王太子は続けた。
「一生イルドアに住む事になったんだから、エリも身の振り方を考えないといけないぞ。」
それはその通りだ。私もこの国の賓客待遇が永遠に享受出来るとは思っていない。そろそろ地に足を付けた生活をしなければいけない、とは思っていた。
「そうですね。街に出て、仕事を見つけないといけませんね。」
幸い字も何とか読み書き可能になって来たことだ。皿洗いでも、何でも良いからどうにか就職活動をして、働かなければ。
「何言ってるんだ。王太子の側室が街で働く必要など無いだろう。」
いや、だから側室になる気はないんだよ…。どうにか訂正しようと口を開くと、サハラがやって来た。
「お二人とも!主役なんですから、お早くお戻り下さい!エリ様もお昼がまだではありませんか。」
上機嫌のサハラに連れ戻される形で食堂へ行くと、これまた満面の笑みの侍女にグラスを手渡された。紅茶に似た甘い飲み物を、炭酸水で割った、私の好物だった。
皆、心から嬉しそうだった。
「私は、もう一生トンプル宮勤めになると覚悟していたんですよ。それが、まさかこんな日が来ようとは。」
年かさの侍女が興奮を抑えきれない様子で、胸に手を当てて言った。それに呼応して、若い侍女が笑った。
「私は実家に帰ろうかと本気で考えていた矢先でしたわ!」
帰らなくて良かった、と彼女は屈託なく笑い、私達の笑いを誘った。
そんな明るい雰囲気の中、王太子は皆の顔を見渡していた。
「苦労をかけた。お前達が陰で王宮の人間に嫌がらせをされていたのも、知っていた。今まで良く、こんな俺に仕えてきてくれた。これからも、頼むぞ。」
途端にしんみりした空気が食堂を支配した。侍女達は今掛けられた言葉を、噛みしめる様に何度も頷いていた。サハラは目にうっすら涙を溜めていた。
口を開いたのは医務室医長だった。
「それにしても、エリ様がこの宮に滞在される事になった時は、驚きました。ーーー実は、王妃派の刺客なのでは、と勘繰っておりました。」
それは初耳だ。私は最初、ここの人達に疑われていたのか。
すると年かさの侍女が言った。
「そうですわ。それなのに、早々に殿下がエリ様の寝室に忍び込もうとなさるから、もうどうなるかと。」
気付いていたのか!だったら、どうして止めてくれなかったんだ。そこは殿下の身より、私の身を心配すべきところじゃないだろうか……。
「どうしてお止めしなかったんです?」
この見境い無い上に強引な殿下を。
すると中年のその侍女は年甲斐も無く、照れた様に頬を紅潮させると、両手でその熟れた桃かと見まごう頬を押さえた。
「あらっ。それはその…。殿下も健康な男性であらせられますから……。お止めするのは酷かと。」
なんだそれは!!全力で止めんかい!!
私の気持ちは一ミリも考慮に入れなかったのか。そんな私の心中を察したのか、別の侍女が口を挟んだ。
「この国は、殿下のお相手でしたらたった一夜限りでも、と身を投げ出す娘たちばかりですもの。」
どこにいるんだ、そんな娘たちは。ここに連れて来てくれないか。
「エリ様がパンを焼きたいと仰った時は、驚きました。」
コックが私に肉料理の載った皿を差し出してくれながら言った。私が目を瞬くと、彼は笑った。
「これはやはり、刺客だったのか、と。ところが、焼かれたパンがあの様に奇天烈な物でしたから、これはもう、絶対何も企んでいらっしゃらないな、と確信致しましたよ。」
すると食堂は爆笑の渦に包まれた。
それはつまり、私のアンパンはそこまで皆の意表を突いていたのか。恥ずかしさのあまり、真っ赤になる私を気遣う様に、サハラが付け加えた。
「あら、でも一風変わったパンでしたけれど、女性なら誰でも好きな味ですよ。」
それを聞いて、コックも、豆は栄養が豊富ですからね、と同調してくれたので、私の心もいくらか休まった。
楽しい昼食は、引っ越し準備を放ったらかして、夕方まで続いたのだった。




