8ー1
私はトンプル宮の豪華なバスタブに浸かりながら、大きく息を吐いた。ようやく生きた心地がした。
今日一日の疲労感は半端なかった。
この世界に来てから、こんな事の連続だった。
私はぶくぶくと口から空気を吐きながら、鼻の下までお湯に浸かった。バスタブに浮かべられていた色とりどりの花弁が、鮮やかに波打った。
日本に、帰れなくなった。二度と。
改めてその事実を自分に言い聞かせてみたが、まだ今日の事件の興奮が冷めておらず、頭の中が麻痺しているせいか、実感が湧かなかった。
地下倉庫でウーバを召喚する為に、空間に穴をあけたケインが、私を妙な目付きで見ていたのを思い出した。今思えばあの時にケインは私の気配が変わった事に気付いたのかもしれない。
誰のせいでもなく、事実上自分のせいでこちらで生きる事を選んだのだ。人に強制されるよりも、ずっと納得できる結果だと思えた。敢えてそれを選んだ訳では無いけれど、私はここに来るまでに充分葛藤し切ったつもりだ。
これから私はどうしたら良いのか、行く手が予測不可能過ぎて様々な不安が胸中を渦巻いた。
もう、寝てしまおう。
考えるのは後にしよう。
お風呂から上がり、やや湯当たりしてぼんやりした頭で廊下を歩き、自室の扉を開けるとサハラがそこにはいた。
一瞬の間の後、私達は互いにそれぞれの名を口にし、駆け寄ってひしと抱き合った。
「良かった!無事で、本当に!」
近くで見れば、サハラの顔色は悪く、頬もこけている様に見えた。おかしな術をかけられていたのだから、まだ休息が必要なのだろう。だがサハラは私にしがみついたまま、目だけはキラキラさせて、言った。
「王太子殿下がトンプル宮を出られると、聞きました。エリ様のご活躍のお陰だとも。」
私は恥ずかしくなって笑いながら頭を横に振った。
「私は、大した事はしてないよ。アンパン焼いたくらいじゃないかな。」
謙遜のつもりだったが、実際大佐と王太子の描いたシナリオの上を転がされただけな気がする。
まあいいか。何かの足しにはなっただろう。
その夜、私達は離れた後何があったのかを語り合い、気が付くと私の大きな寝台で二人とも寝ていた。
翌日は王太子の引っ越しの準備で大忙しだった。普段は静かなトンプル宮の中を、大勢の侍女達がバタバタと動き回り、離宮中があちこちをひっくり返した有様だった。
私は最初その作業を手伝おうと思っていたが、やってみると右も左も分からず、邪魔にしかならないと分かり、すごすご退散させて貰った。
トンプル宮がそんな状態だったので、私は一人で王宮をぶらつき、足を図書室に向けた。明るい図書室の中に入り、本の匂いに包まれると、なんだか再び日常が戻って来た様な気がした。
図書室には先客がいた。
私が来た事に気付き、吹き抜けになっている二階の閲覧室からゆったり降りてくるのは、ウィンゼル王子だった。今日は漆黒の布地に濃紫の差し色が入ったシックな出で立ちだった。つい癖で靴まで確認してしまったが、案の定、触れば指紋がくっきり付きそうなほどピカピカに磨かれていた。
「君はいつも私を頭から爪先まで眺め回すね。」
ウィンゼル王子に苦笑されて、私は慌てて詫びた。オシャレ番長のコーディネートをチェックしたかっただけであって、決して他意は無いのだ。
焦る私を気にせず、ウィンゼル王子は眩しい笑顔を浮かべて言った。
「君を待っていたんだよ。王宮を出る前に、一言挨拶がしたくてね。」
王宮を出る…?ウィンゼル王子がなぜ。
続けてウィンゼル王子は軽い調子で提案してきた。
「お茶でもしないかい?」
「へ……っ」
一度ある事は二度あるらしい。それにしても懲りない人だ。それとも女性を見かけたら、誰彼構わずとりあえずそう言っているのだろうか。ラテン系のノリをお持ちなのかもしれない。
ウィンゼル王子はくすりと笑った。
「街に行こうとは言わないよ。そう警戒しないで欲しいな。中庭の花が今満開なんだ。とても綺麗だよ。案内させてくれないかな。」
私は仮面舞踏会の夜を思い出して、胸が騒ついた。あの時、思い返せば私は庭園の奥で出会った仮面の紳士に、確かに心惹かれていた。正体を知らなければ、今も密かな恋心を持ち続けていたかもしれない。
私の返事を待たずにウィンゼル王子は先に歩き出した。人の意向は気にしない辺りが、王太子と似ていて王族らしかった。
図書室を出て、廊下の先にある扉を幾つかくぐると、白亜の中庭に出た。
真っ白い柱が立ち並ぶ回廊にぐるりと囲まれた中庭には、中心に噴水があり、純白のタイルを敷き詰めた蛇行する細い遊歩道を残して、地面は全て花畑になっていた。
花はちょうど見頃を迎えているらしく、辺り一面が隙なく満開の花々の絨毯を広げた様に見えた。中庭の遊歩道に立つだけで、花々の甘い香りが下から立ち昇ってくるようだ。
こんな中庭があるなんて、知らなかった。
なんて綺麗なんだろう!
自然に私の頬が緩んだ。
遊歩道の先には白いテーブルと椅子のセットが出されており、ウィンゼル王子は椅子を引き、私に座るよう勧めた。二人でテーブルにつくと、どこからとも無く侍女が二人現れ、お茶と菓子を私達に出してくれた。
まるで私達がそこに来る事を予め知らされていたかの様な、手際の良さだった。
「王宮を出られるというのは、本当なんですか?」
ウィンゼル王子は茶を優雅な所作で飲みながら答えた。
「本当だよ。……母上が、すっかり弱られてしまってね。暫く空気の綺麗な田舎に静養に行かれるから、私も同行する事にしたんだ。」
王妃が…。
昨夜の現場に居た身からすれば、同情を禁じ得なかった。それにじきに前王妃が王宮に戻って来る事を考えれば、尚更王妃はここに居辛いだろう。
「ケインが…私の叔父が、君に申し訳ない事をしたそうだね。最後は君に剣を振りかざしたと……そう聞いた。」
私はいえいえ、とあやふやに首を横に振った。ウィンゼル王子が気に病む事では無い。私の方こそ、王太子の為に行動して結局、ウィンゼル王子の立場をまずくさせたのではないか。
「ケインが、そんな事をしたというのが未だに私は信じられない。彼は本当に11年前の事件まで、罪を告白したのかい?」
私はどれをつまもうか、と凝視していた菓子から視線を剥がし、目の前のウィンゼル王子に向けた。眩しい金髪に青い瞳の、日本人なら誰もが惹かれそうな王子がそこにはいた。夢の王子様、とタラントの女性から言われていたのも頷ける。しかしその明るい容貌は誰かに似ている、そんな気がした。
「ウィンゼル殿下は、ケインさんに似ていますね。」
私が思いついた様にそう言うと、ウィンゼル王子の顔が微かに強張った。
しまった、失礼な発言をしてしまった。あの面妖な宮廷魔導師に似ていると言われて喜ぶ奇特な人はいないだろう。そう思って前言を撤回しようとした矢先、気付いた。
目だ、あのどこか虚ろな感じが似ているのだ。私は咳払いをしてから、先ほどの質問に答えた。
「ケインさんは、最初は否定されてましたけど。大佐に説得されて、最後はご自分が二人の王子に毒を盛ったと認めました。」
そう、ケインは私と二人の時も、自分がやったとは言わなかった。なんだか犯人は別にいるみたいに私は感じてしまっていた。
「大佐は、彼に何と言って説得したんだい?」
随分食い下がってくるなあ、と私は不思議に感じた。もしや、私を茶に誘ったのは、別れの挨拶をする為などではなく、本来の目的は昨夜の詳細を聞く為だったのではないだろうか。
私はウィンゼル王子から視線がそらせなかった。穏やかな笑みを浮かべたそのソツの無い愛想の良さは、出来過ぎていてどこか嘘っぽく思えた。霞む様にウィンゼル王子の笑顔が消えた。
「……黒い瞳とは、不思議なものだね。頭の奥底まで見通されている気分がするよ。」
そう感じるという事は、何かやましい事が頭の奥底にあるのだろうか。なんだか今日のウィンゼル王子はどこか変だ。
「教えてくれないか?」
再び答えを促された。私はウィンゼル王子を見たまま、両手でカップを取り、喉を潤してから答えた。
「幼き者にも贖罪の機会は必要か、と。そう大佐は言っていました。」
「君はそれをどう思った?」
ケインは誰かを庇っているのではないか。そう思った。でも、誰を?あの男が自分を犠牲にするなんて、考えにくい。ケインは姉か、その子供達にしか愛着が無い様に見えた。
私の喉が急に乾いていった。
ああ、どうして今、分かってしまったんだろう。
ケインは当時幼かったウィンゼル王子を庇ったのだ。
私は手を滑らせ、カップが音を立ててソーサーの上に落ちた。
「君は鋭いね。」
「どうして。なぜ殿下がそんな事を!?」
「人の忘れ物を、好奇心からいじったりするものじゃないね。………魔導師である叔父の忘れた鞄を、ある短慮なこどもが興味本位で探ったら、その子は意味あり気な小瓶を見つけたんだよ。喧嘩していた弟を困らせようと、ふざけて飲み物に混ぜたんだ。後でばれない様に自分の分にも少量混ぜるのを忘れずにね。」
私が絶句していると、ウィンゼル王子は立ち上がった。
「私は王宮にいる資格のない人間だよ。こうなって良かったんだ。無論、兄上には合わせる顔が無いけれど。」




