7ー5
王妃が石膏でできた彫像の様な白い顔で、ふらふらとやって来るとケインの腕を掴んだ。ケインは俯き、姉の顔を見る事は無かった。
「嘘をおっしゃい…。」
「もう良いのです、姉上。僕が禁じられた人体移動術に昔から興味を抱いていたのはご存知でしょう。あの毒は、そもそも実験台にする動物に用いる為に入手したんです。小量ならば、仮死状態にできるので…。僕はやはり母上や父上の言う通り、宮廷魔導師になどなってはいけない人間だったのです。」
王妃はよろめくと、涙を溢れさせて第三王子の名を連呼して突っ伏した。私はアンパンを食べた直後の王太子の苦しむ様を思い出し、胸が痛んだ。11年前、王妃は自分の年端もいかない息子達があんな風に悶える光景を見たのだから。
「前王妃をーーーセアラを、直ちに釈放し、王宮に連れ戻せ。」
国王が静かに、だがはっきりと命じた。
次いでその視線は王太子に向けられた。
「トンプル宮を出て、王宮に居を移せ。ーーー私の後継ぎとして。」
国王は首から下げていた何かを手に取ると、ゆっくりと王太子に歩み寄った。目の前までくるとその場にしゃがみ、それを王太子の足枷に差し込んだ。
ガチャリ、と小さな音が大きな意味を持って辺りに響き、長年王太子の足を拘束していた枷が外された。
「この父を、恨んでいよう?」
枷から解かれた王太子の足首に触れながら、国王は呟いた。
王太子は大きく深呼吸すると、言った。
「この足枷が、俺を暗殺から守っていた事くらい、気づいていましたよ。こうでもしない限り、ウィンゼルを王にしようとしている奴らは安心しなかった。」
肩を震わせて立ち上がり、王太子をぎこちなく抱き寄せる国王を、私は驚きの中で見た。
国王は王太子を愛していたのだろうか…?
鍵を肌身離さず持っていたのは、罪の意識からか…?
ケインは、ただぼんやりと二人を見ていた。
前に彼は、歪められた事象は元に戻ろうとする、と言っていた。そうでは無く、歪められた事象を人が元に戻そうとするのだ。私がそう考えながらケインを見ていると、彼はその視線に気付いて顔をあげた。
虚ろな暗い青い目と、目がぶつかり、私はこんな情緒の欠如した瞳をどこかで見た事がある気がした。誰だろう、と思っている内にケインの目に急速に光が戻り、奥に宿る感情が息を吹き返した様に見えた。
「どうして、君を召喚してしまったんだろう。それだけが、悔やまれてならない。」
私はふと思い付いた事を言ってみた。
「ケインさんは、ウーバを呼ぼうと穴に手を入れた瞬間に、心の奥底で何か別の事を考えたんじゃありませんか?邪念が術を邪魔する様に、術者の深層心理が何か別のものを呼んだのかもしれませんよ。」
「意味深な事を言うね。これは偶然の産物では無かったと?」
「そうですね。例えば、……あなたは本当は歪みを正したかったのではありませんか?」
私はほんのひと時、考え込んでから続けた。
「その為に必要な人物は、ウーバでは無く、非力だけど物議を醸す駒だった、とか。」
「君は非力じゃないよ。」
そう言いながらも、ケインは不思議となんだか吹っ切れた様な顔をしていた。まるで靄が晴れたみたいな、腹を括った様な。
「でも君がそう信じたいなら、否定しないよ。僕がこの手で、確かに連れて来たのだからね。」
そんな想像をしたところで、ケインの犯した罪が軽くなる訳では無いし、私もそれを望んだ訳では無い。けれど、彼の心の中僅か一点だけでも、償いの機会を欲していた部分が存在したのだと、思いたい。
何より、私がこの世界に攫われた事が少しでも意味あるものだった、と思いたい。
近衛兵達がケインを連行しようと取り囲んだ。動き出した彼等を王太子が片手を上げて制止した。
「待て。まだやって貰わないといけない事がある。」
王太子の緑の双眸が、私に向けられた。
「約束通り、エリを元の世界に帰してやるんだ。」
全員の視線が痛いほど私に注がれた。ケインはおずおずと言い出した。それは、無理だ、と。それはそうだろう、ケインは全然準備をしていなかったのだから。ここには『サチの着回し』ファッション誌すらなかった。だが王太子は眉根を寄せた。
「術を完成させたというのも偽りか?」
「違う、本当に僕は完成させたんです!彼女の手助けで、画期的な発明をしたんです。」
ケインは術者としての自尊心を今更傷付けられたのか、必死に抗弁した。しかし急に気落ちした様に小さくなると、言った。
「けれど、もうそれもできなくなってしまった。周到な用意があればできたはずなのに…。今は異空間とつなぐことすらできそうにありません。」
なんなんだ、できると言ったり、できないと言ったり。振り回される身にもなってくれ。私は折角、帰る覚悟を決めていたというのに。
王太子もケインの要領を得ない弁解に苛立ちを隠さなかった。
足枷を外した王太子には、妙な威厳があり、今彼はそれを辺り構わず撒き散らしていた。
「罪を告白したら術者としての能力が消えたのか?」
「違います。僕は何も変わっていません。問題は彼女の方です。」
「えっ、私の!?」
ケインは私の方を、いつもの非難がましい顔で見た。なんだ、私が何をしたっていうんだ。私は激しく瞬きをした。
「君から感じられた異質な気配が消えてしまっている。まるでこの国の人間と同化してしまったみたいに。君という特殊な道標を失った今、異空間とのつなぎ方が分からない。無理をすれば、王宮ごといずれなりと飛ばしてしまいかねない。」
それは困る、と国王がうなった。
「私は、何も変わってません!」
「君はその…もしやこの世界の人間と契ったんじゃないのかい?」
「契ったって、何を!?」
責任転嫁も甚だしい。私は術者としての能力はまるで持ち合わせていないのに、私がケインの術を故意に台無しにしたかの様な言い草だ。言いがかりだ、と私は憤慨した。
この男は人をイラつかせる才能がある。
「君は、本当に疎いんだね。」
あろう事かケインは私を小馬鹿にした風情で小さな溜息をついた。私は更にムッとしたが、なぜかこの状況にも関わらず、周囲の空気が急に色めき立った。なんなんだ、こんな大変な事件の最中に。なんだか空気を読めてないのが私の方みたいな雰囲気になっていた。
「心配は無用だ。何度も言っているが、責任は私が取る。」
大佐、妙なところで話に割り込まないで欲しい。話がややこしくなるではないか。
ところが周囲の人々はざわめき立ち、私と大佐を交互に見比べ出した。
えっ、なに……??
何故そんな好奇な眼差しで私達を見ているのだ。何が起きているんだ。
私達が何を……………。
いやまさか、なんか、もしかして、そっち系の話だったのか!?
私は自分の顔が火で炙られる様に熱くなるのを感じた。
ケインは言い難そうに口を開いた。
「つまり、君はこの世界の男と深い関係になったんじゃないかと、僕は言っ…」
「もう分かりましたから!!……こんな公衆の面前でそんな話はやめましょう!!」
うら若い少女では無いが、私にだって人並みに羞恥心はある。恥を美徳とする日本人として、余りに恥ずかしい仕打ちだ。
おまけに相手の男が律儀に名乗り出てしまったから、余計いたたまれない。プライバシーは無いのか。
どうやら私は帰れるチャンスを自分で潰していたらしい。そんな結果を招くなんて、知らなかったのだから。
……キス止まりなら問題無かったのか。
猛烈に恥ずかしい視線が、皆から向けられていた。今すぐケインの闇の穴の中に隠れてしまいたい。
私が呆気に取られている中、ケインは今度こそ近衛兵に拘束されて、地下倉庫を出て行った。あの地下牢の住人の仲間入りをするのだろう。
咽び泣く王妃は人に抱えられる様にして、姿を消した。
気が付くと私と大佐、王太子の三人が残されていた。もう王太子は一人で支え無しでも立っていた。
「あっ!大佐、サハラは…」
「今頃ケインの屋敷に近衛兵が突入している。任せておけば良い。」
私は少し胸を撫で下ろした。その矢先、異常に怖い顔で王太子が私を見ている事に気付いた。もしや、やはり毒を盛り過ぎたと怒っているのかもしれない。
「随分と嘘をついてくれたもんだな、エリ。すっかり騙されたよ。」
「はい?」
私は何を怒られているのか瞬時には分からなかった。
「婚儀前はご法度なんじゃないのか。俺の側室になりたいと力一杯断言していたじゃないか。あの目の輝きも嘘だったのか。」
わ、忘れてたー!
なんだか遠い過去の出来事に感じられる…。
「何の話だ。聞かせて貰おうか。」
だから、いちいち大佐は割り込まないでくれないか…。
「王太子殿下、隊長。エリ様はお疲れです。ここはひとまず、トンプル宮にお帰り頂きましょう。お召し替えと入浴をご希望ではありませんか?」
後方からしたカイの声に驚いた。いつも一緒にい過ぎたせいか、空気の様に存在感が無かった。薄情な私の心中をよそに、私の血だらけの格好をいたわし気に見つめるカイの言動は、無尽蔵の思いやりで溢れていた。地獄に仏とはこの事だ。
私はとりあえずその思いやりの泉の中に飛び込ませて貰う事にした。
「はいっ!ご希望です。戻りましょう、トンプル宮に。」




