6ー3
王太子は私の話を険しい目付きで聞いていた。
いつもの様にソファに身を深く沈め、毒入り小瓶を手にし、もう片方の手は肘をついて私を見ていた。
「この毒はシエスタ王子が飲んだ物と同じ物だと、ケインは確かに言ったんだな?」
私はこくりと頷いた。
「エリ、この毒を俺に盛れ。」
私は目を剥いた。何を言うのだ。
「トンプル宮の者に、この毒を調べさせる。死なない程度の量をアンパンに入れて俺にくれ。ケインの計画に乗ってやる。」
そんな提案をされるなんて、私は想像もしていなかった。
「危険過ぎます。本当に死んだらどうするんですか。だいたいあんなイカレ男の計画に乗るなんて…」
王太子は声を立てて笑った。
「王妃の弟をそんな風にこき下ろせるのはエリくらいだな。」
だが王太子はふいに真顔に戻ると、私の手を取り、真摯な眼差しで言った。
「俺が重体か死体の状態で医務室に運び込まれでもしないと、ケインもエリを信用しないだろう。計画を実行したら、ケインと落ち合ってくれ。…そして、元の世界に帰るんだ。」
「殿下…。」
「アレヴィアンには話を通しておく。地下倉庫を予め包囲させ、エリがケインの術で帰れ次第、奴を逮捕する。…エリは、ケインが異世界から召喚した暗殺者として扱う。だから、ケインに元いた世界へ帰して貰うんだ。」
私を帰すべきだという王太子の決意には揺らぎがなかった。
私は異世界へ逃げ帰った王太子暗殺未遂犯として、イルドア史に名を残す事になるのだろうか。
「毒が第三王子殺害に使われた毒と同一だと証明できれば、俺の母の無罪も証明できる。」
私は何度も頷いた。それこそ一番重要だった。前王妃の無罪が判明しなければ、例え王太子が毒を盛られようとも幽閉が解かれる事はないのだから。
王太子は付け加える様に言った。
「勿論、万一エリを帰す術が失敗した場合は、被害者である俺が恩赦を与えて責任持って側室にしてやるから心配は無用だ。……俺自身はその結末にも魅力を感じるが。」
まだそんな事を考えていたのか。
王太子の恩赦はそんな利己的な理由で与えられるものなのだろうか。
「サハラはどうなります?」
「ケインの逮捕と時を同じくして、奴の屋敷に近衛兵を踏み込ませる。力のある宮廷魔導師を何人か取り込んであるから、同行させる。」
「それでは私は、結末を知る事ができないんですね。」
「エリは何も心配しなくても良い。きっと、うまくやるから、気に病むな。家族や友人の待つエリの世界で元の通り、時を刻んでくれ。」
あんなに帰りたかった筈が、いざ道を示されると少しも嬉しくなかった。
私はみんなの今後を知りたかったし、時を共有したかった。日本にいる大切な人達と引き離されても…。それほどまでにここでの時間は濃密だったのだ。
……だが、これが王太子の決断だった。
大佐も王太子に従うと言ったのだ。
全てを元に戻すのだ。
私はこれが正しいのだ、と自分に言い聞かせ、ゆっくりと王太子に同意した。
私はこの世界で最後となる筈のアンパンを作っていた。
以前は心躍らせながらやった作業が、今はただ虚しいものだった。
このアンパンを、どちらにとっても毒にしかならない、といつか大佐が言っていたのを思い出した。皮肉にもそれが現実となっていた。
私は指定された分量を、震える手を抑えて慎重に計り、小瓶の中身をアンパンに混ぜた。
あとは夜を待たねばならなかった。
この世界で過ごす最後の一日は、もっと楽しいものにしたかった。サハラと会いたかったし、カイにも語り尽くせない感謝を伝えたかった。ウィンゼル王子にもやはり礼を言いたかった。
大佐とは…会ってしまえば、王太子の計画に乗る勇気が萎えてしまいそうだったから、会いたいけれど会いたく無かった。
だから、私は日がなトンプル宮のバルコニーに出ては、城壁の向こうに見えるイルドアの街並みを眺めていた。
夕食はほとんど喉を通らなかった。
夕食が下げられてしばらくすると、私は意を決して重い腰を上げ、王太子の部屋へ歩き出したーーーアンパンを持って。
「本当に、やるんですか…?」
私はアンパンを入れたカゴを握りしめたまま、王太子に尋ねた。王太子は穏やかな顔をしていた。どこか清々しさすら感じさせた。
「エリ。こんな役をさせて、本当にすまないと思う。だが、これで二人とも自由になれるんだ。俺は、ずっとこの時を待っていた。もう何度も、擦り切れるほど繰り返しこの時を思い描いていた。今夜、やっとここを出て王宮へ戻る事ができるんだ。例えどんな姿になっていようとも。」
王太子は私の前に膝を着くと、私の手を取り、臣下の様に手の甲に口付けた。私を見上げた緑の瞳は、私が今まで見た中で一番無垢なものに見えた。
「もしも二度とこの毒で起き上がる事ができなくなろうとも、引きがねを引くのがエリであるならば、俺は喜んで毒をあおろう。」
殿下、その愛は重過ぎます…。
そう言いたい気持ちは胸に仕舞った。王太子が生命を賭けて挑もうとしているこの時に、ふさわしく無かったからだ。
王太子は立ち上がると急に悪戯っぽい顔をした。
「昨日、アレヴィアンと街に泊まったのだろう?あいつは、エリに何もしなかったか?」
私は引きつりそうになりながら、自分の脳内に記憶の消去を繰り返し命じた。
「何をご期待なのか分かりませんけど、私の世界では…」
「分かった、分かった。婚儀までは純潔が絶対なんだな?……でもこれくらいなら構わないだろ?」
そう言うと王太子は私の唇に長い事自分の唇を押し付けてきた。やがてゆっくりと顔を離すと、小声で尋ねてきた。
「最後に教えてくれ。俺と、アレヴィアンと、どちらがエリの好みだったんだ?」
私は少し考えてから笑顔で答えた。
「どちらも、とても素敵な男性でしたよ。私には勿体無いくらい。」
別れの時が近付いていた。
王太子は私が手に持つカゴからアンパンを取った。
私達の視線が絡まったが、出てくるべき言葉は喉に引っかかり、形にならなかった。
王太子はアンパンを見つめ、大きな震える溜息をついた。
「っ殿下…」
王太子がアンパンを食べ始めた。硬いその表情は、半分ほど食べ進めたあたりで再び緩み、私を呆れた様に見た。
「相変わらず、甘いな。どれだけ砂糖を入れ…っ」
王太子の言葉は途中で途切れ、彼は腰を折って口元を押さえると呻き始めた。もう片方の手で喉を掻き毟り、立ってはいられずに床に崩れ落ちた。
あまりの様子に私はカゴを取り落として棒立ちになった。
王太子の顔は苦痛に溢れて歪み、断末魔の様な唸り声を上げながら床をのたうち回っていた。
これが本当に遅効性なのか?私は、分量を間違えたのか?助けを呼びに行くべきだろうか…!?
侍女が倒れている王太子を発見してくれる前に、本当に死んでしまうのではないだろうか!?
私が混乱して無意味にたたらを踏んでいると、王太子は床に吐瀉物を撒き散らしながら、絞り出す様な懸命な声で私に命じた。
「行け、エリ…、俺に、構うな…!」
充血して睨みつける様なその目と目が合い、私は弾かれる様にして部屋を飛び出した。
本当に大丈夫なのだろうか?
もしや私は分量を誤ったのではないか?
頭の中はぐるぐると迷い、私は震える足でどうにかトンプル宮を出た。途中で私の様子がおかしい事に気付いた侍女が声を掛けてきたのも無視をして。
ひりつく喉で息を吸い、静寂に包まれた夜の庭園を横切ると、王宮に入った。そこから、ひたすら地下倉庫を目指した。
焦っていたからか、生来の方向音痴のせいかは定かでは無いが、私は分岐点を間違え、予定より時間を費やして地下へと続く階段に辿り着いた。
その石の階段を下りようとしたまさにその時。
聞き慣れた美声が背後から掛けられた。
「止まれ。お前を王太子殺害未遂の容疑で逮捕する。」
青服の部下を大量に引き連れ、剣を私に向けた大佐がそこには居た。




