5ー6
館の中は暗い色のカーテンが下ろされ、まるで夜の様だった。日中だというのにランプが灯され、不気味に調度品が浮かび上がり、私はテーマパークにあるお化け屋敷を連想した。
応接室らしき広いホールに通された私は、とても椅子に座る気分には無く、男がいなくなってもその場に立っていた。
「やあ。来てくれたんだね。」
まるで招いた友人を迎える様な笑顔でケインが現れた。
「ケインさん!これはどういう事ですか!?サハラはどこです?術が完成したって何ですか?」
「あの侍女ならぐっすり眠っているだけさ。心配ないよ。ーーー君は、遂に元の世界に帰れるんだよ!」
ケインはさも素晴らしい報告を私にしているかの様に、珍しく目を輝かせて話した。
彼は問題だった位置と時間軸のズレの発生を改善すべく、大量の書物を私のいたであろう地点周辺から呼び寄せたのだという。
「異世界の人間である君がそばにいると、君が強力な道標になって空間を開き易い、と以前言ったね。塵も積もれば何とやら。その地点から予め呼び寄せた物を一度にあちらへ送れば、あやまたず元の場所に置く事ができると分かったんだ…!万物は引き合うんだよ。歪められた事象は、元に戻ろうとする。その力を利用するんだ!自然の摂理だよ。」
ニュートンも林檎が地に落ちるのを見た時、こんな顔で己の発見に興奮したのだろうか。
だが、そんなに良い話では無い予感がびしびししていた。
ケインは黙ったままの私を尻目に、続けた。彼は急に声を落とした。
「君を帰してあげるよ。でもね、交換条件があるんだ。」
条件だと?
なぜ一方的な被害者である私が、対価を要求されなければならないんだ。おかしな話だ。
いまだ上機嫌のケインを睨む私に、彼は小さな茶色い硝子の瓶を差し出した。
「これで、王太子を毒殺してくれるかい?」
まるで世間話をするが如く、気楽に言われた事を理解するまで時間を要した。信じられず、ケインの放った言葉一つ一つを頭の中で反芻した。
私は目を剥いたまま、視線を小瓶からケインへ戻した。
「な、んで、私が、そんな事を…」
「帰る為さ!君はあんなに帰りたがってたじゃないか。……トンプル宮はガードが固くてね。何度か違うアプローチも試したんだけど、成功しなかった。だけど王太子は君の作る料理を警戒無く口にするそうじゃないか!しかもあの宮の人間は君に全幅の信頼を寄せている。これを利用しない手は無いよ!」
恐ろしい事を話すケインは何処までも嬉しそうだった。
ケインは秘密を明かす様に声を潜めて言った。
「僕はね、王太子が医務室に運び込まれたあの日、本当は人体移動術でウーバを召喚しようとしたんだ。ウーバは貴人御用達の有名な何でも屋だよ。ーーー誘拐、暗殺、窃盗、何でも嘘の様に上手くやってくれる。王太子を暗殺して貰うつもりでね。なのに、君が現れた。驚いたよ。でも、天は僕を見捨ててなかった!君は王太子に気に入られ、新たな計画を思いついたんだ。」
ケインは嬉々として自分の立てた王太子暗殺計画を話した。
私が王太子に遅効性の毒を盛り、ケインと地下倉庫で落ち合う。ケインは地下倉庫に地球の収穫物を保管してあるのだという。その場で私を元の世界に帰し、後にサハラも解放する。
「術であの侍女の生命を保ったまま昏睡状態にしておけるのは三日間だよ。だから君は明日の夜、実行するんだ。」
「そんな事、できません。」
私は縋る思いで頭を振った。
「異世界に逃げ帰れば罪には問われないよ。心配ないさ。君は侍女を殺したいのかい?」
「卑怯です。…サハラには関係ないのに。どうして、こんな事するんですか?サハラを返して下さい!」
ケインはおかしな質問を受けたかの様に首を傾げた。
「君は帰してあげると言っているのに、君の方こそ変じゃないか!あの侍女も救える。何より、姉上の王子が王太子になれる!」
狂っている。
私は自分をこの世界に連れて来た男がどんな人間だったのか、認識させられた。この世に善人と悪人がいるのであれば、ケインは間違いなく後者だった。それも常識や正論の通じなさそうな、最早矯正不可能な精神構造を持っていると考えられるほどの。
タラントでケインに感じた不気味な感覚は間違っていなかったのだ。
ケインには姉しか見えていないのではないだろうか。
「…ケインさんが、その毒で第三王子を毒殺したんですか…?」
ふいにケインの顔から表情が消えた。暗く虚ろな目で私を見据えた。
「この毒で、死んでしまった…。可哀想な、シエスタ王子…。」
私はケインの返事に違和感を抱いた。虚ろな瞳からはなぜか涙がせり上がり、ケインはサッと両眼を拭った。
ぶるっと頭を震わすと、気を取り直した様子で私に畳み掛けた。
「どの道王太子に未来は無いさ。王太子派の急先鋒だった王弟は先月亡くなったし。影響力を増している近衛隊長が最近王妃側についたからね。」
私は耳を疑った。
大佐が王妃派?そんなはずは無い。大佐自身が王太子派だと言っていたし、メルティニア王女と王太子の仲を取り持ったのだから。
「中立だと思っていた近衛隊長が、カナヤの王女を春迎祭に招く様姉上に進言した時は驚いたよ。あれで一気に王太子派が寝返り、形勢が不動の物になった。」
きっと大佐は敵を欺く為に二枚舌を使っているのだろう。敵を欺くには味方から、というではないか。
そう思わなければ何がなんだか分からない。
「帰りたいだろう?侍女が大事だろう?王太子さえ消してしまえば、たくさんの人の望みが叶うんだよ。これは、悪いことじゃない。」
さあ、とケインは呟くと私の手を取り、小瓶を握らせた。
「今日僕と会った事や、この計画や毒の存在は決して口外してはいけないよ。君の大好きな侍女は僕の一声で永遠に目覚めなくなるからね。」
分かったらもうお帰り、明日の夜地下倉庫で会おう、と穏やかな笑顔を見せてケインは私を再び馬車に乗せた。
馬車には私をこの屋敷まで連れて来た男が同乗した。
馬車は王宮へは戻らずに、街中で私は降ろされた。
「エリ様をそろそろトンプル宮の人間が捜しているでしょう。鉢合わせしたくありませんからね。お一人で王宮までお戻り下さい。王族と城門を出入りしていたエリ様は手形なしでも門を通れますから…。くれぐれも今まで街で、侍女を捜していたという事にして下さいね。」
男は街を走る大通りを指し示した。
そこを真っ直ぐ行けば王宮の城門に着くのだという。
私は大通りでぼんやりと立ち尽くし、フラフラと歩みを進めた。ふと振り返るともう馬車はいなかった。帰らなければ。
でもどこへ…?
私はどこに向かっているのだろう。トンプル宮に行って、このまま口を噤み、王太子を殺すのか?それとも、大佐に洗いざらい打ち明けるか?
王太子もサハラも失わずに、ケインに日本に帰して貰う方法は無いのか。
こんな事できない。できるはずが無い。
私はすべてを放棄したい衝動に駆られ、まるで用意された道から逃げ出す様に、大通りを逸れて小道に入り込んだ。
一歩一歩進むごとに自分の置かれた状況から抜け出せる錯覚を抱いていた。
どこをどう歩いたか分からなくなっていた。気が付くと私は狭く暗い路地をさまよっていた。
「おお?女が一人でこんな所を歩いてるぜ。」
背後で男の声がした。驚いて振り返ると屈強そうな三人の男達が私を見て下卑た笑を浮かべていた。
あまりまともな連中には見えなかった。
まずい。治安の悪そうなエリアに踏み込んでいたらしい。
「南の女は高く売れるからなあ。」
私の頭の中で危険を知らせる警報が鳴り響き、走って逃げようと身構えた時、みぞおちに男の拳が打ち込まれ、私は気を失った。




