5ー3
「つまらん事を言うな。今良いところなんだから…」
王太子は構わず熱心に人の首に顔を押し付けていた。
まさかのスルーに私が焦った。
庭園で健気に待つ王女に報告のしようがない。
「ちょっと、真面目に聞いて下さい…!殿下。王太子殿下!」
私は鎖骨の窪みに吸い付き始めた王太子の顔を遂に押し退けた。不敬罪とか心配している場合では無い。
王太子は不機嫌そうに私を睨んだ。元々目付きが悪いからそういう表情が実にサマになる。僅かにビビりながら私は帰りの馬車での出来事を手短かに伝えた。大佐に話した事は敢えて黙っていた。王太子の裁量に任されているのだから。
私の話が終わると、王太子は腰に手を当て、暫し考え込んでいた。再び私を捉えた目付きはやはり鋭かった。
「前に俺は、カナヤの姫に関わるなと言わなかったか?」
そんな事もあった様な…。でも今、サイコロになってしまっているらしい私に、そう忠告されても。
「そうなんですけど。王女に異常に関心を持たれてしまって。えーと、カナヤには、あまり南の民がいないから、でしょうかね!?」
物言いたげに未だ私を睨む王太子がなんとなく怖い。私はメルティニア王女がタラントでウィンゼル王子と並んで挨拶するのを固辞した事を教えてみた。
「知っている。」
あっさりと王太子は答えた。
なんだ、情報が速い。スパイでもいるのだろうか。
王太子はバルコニーの方に顔を向けた。
「直接会うのはできないな。かと言って、このまま引き取り願うのもまずい。……エリ、さっき俺が手を振った時、外から俺の顔はちゃんと判別ついたか?」
私は直ぐさま頷いた。
「じゃあ、こうしよう。二階の一番端のバルコニーから俺が手を振る。そこなら池を挟んで庭園からでも俺の姿が見られるだろう。トンプル宮の入口に立つ門番からも一番遠い。」
ロミジュリか!!
おぉロミオ、お前はどうしてロミオなの?
バルコニーから姿を現すちょっとコワモテだけど、イケ面王太子とそれを庭から見上げる若く可憐なメルティニア王女。
なんて絵になる姿だろう!
私はそれを想像して悶えた。男女の立ち位置が逆なのはこの際気にしてはいけない。
「素晴らしいお考えです!殿下!その位置なら足枷がうまい事隠れますし、殿下は黙っていれば凄く格好良いですから!」
「喧嘩を売っているのか?」
「私、すぐ王女様に伝えてきます。殿下も移動してて下さいね。」
私の頭の中は英国人作家によるイタリアを舞台にした名高い文学作品で興奮していた。
夜の暗い庭園の中を、メルティニア王女を探してキョロキョロしていると、突然背後からがっしりとした二本の腕が伸びて来て、私は大きな手に口を塞がれたまま抱え上げられた。
「ーーーっっ!!」
誘拐か!?
何事かと声にならない声を懸命にあげようと暴れる私をその腕はやすやすと木々が立ち並び、周囲から死角になる場所へ連れ込んだ。
「暴れるな。私だ。」
耳元に囁かれた美声に私は目を見張った。
何故こんな所に。
私が大人しくなるとようやくその腕は口を塞ぐのをやめ、体が地面に降ろされた。
「大佐!なんのつもりですか。」
「見つかるとまずい。大きな声を出すな。…王太子にメルティニア王女の事を話したか?」
「それをわざわざ聞きに!?もうちょっと方法考えて下さい!恐怖で心臓が止まるかと…」
「時間が無い。王女もお前を今探してる。」
私はさっきまでの恐怖に取って変わった怒りの鉾先を大佐にぶつけるのをどうにか抑え、ロミジュリ作戦について説明した。
説明を聞き終えると大佐は微かに笑った。
その顔はどこか満足そうだった。
「面白い考えだ。くれぐれも王女を暴走させるな。」
大佐の用件が済んだ様なので、メルティニア王女を探そうと大佐に背を向けると、ふいに肩を掴まれた。なんだろう、と思って振り返ると、さっきまでの大佐の柔らかな表情が一変し、険のある顔付きで私を見ている。
「大佐?ま、まだ何か?」
「髪を下ろせ」
「はいっ?」
「メルティニア王女に会う前に髪を下ろしておけと言っている。」
どういう事だろう。
夜に王女に会う時は髪を結い上げてはならない、というプロトコールでもあるのだろうか。まごつく私に業を煮やした大佐は、私の結い上げた髪の根元にさっと手を伸ばすと慣れた手つきでそれを解いた。バサバサと肩に落ちて広がる髪を私は慌てて抑えた。
「無防備にも程が過ぎる。それとも私を煽っているのか。」
ぽかんと惚けて居ると、大佐は不快そうに眉根を寄せて目を逸らした。
「後で鏡で確認するんだな。」
苦々し気に灰色の目が私の首の辺りに投げられ、再び視線をそこから剥がすと、マントを払って大佐は滑る様に木立の間に消えて行った。
相変わらず理解し難い男だ。
私は大佐の去った方向をぼんやりと見ながら首を抑えーーーはっと気付いた。
さっき王太子が唇をしつこく押し付けていた所だ。もしや、何か痕になって…?
私は下ろした髪で慌てて今さらそこを隠そうとした。
もう遅い。大佐に見られた。
何故か大佐の後を追い掛けて、これは違う、誤解だ、と言い訳をしたい心境に襲われた。
……誤解ってなんだ。第一、誤解を解いて私はどうしたいのだろう。
私は僅かの間、王女の事を忘れて痺れた様に立ちすくんでいた。
メルティニア王女とラタとはすぐに合流できた。二人は目立たない外套を羽織り、うまい事夜の闇に溶けこんでいた。
私は子供時代に会って以来の婚約者の姿を遂に見られる事に興奮する王女を、植物や花壇に身を隠しながら、王太子に指定された場所までどうにか連れて行った。
私達が池近くの低木に隠れていると、二階端のバルコニーに人影が現れた。
先ほどの部屋着から正装に着替えた王太子だった。
「ラムダス様…!!」
感極まった王女が震える手で口元を抑え、今にも泣きそうになっている。
王女は立ち上がり、千切れんばかりに手を振った。まずい。これではトンプル宮から丸見えである。
門番の目を気にして私は王女を再び座らせた。
王太子もこちらに手を振り返し、王女は更に興奮した様子で、ああ、運命の殿方、とうわ言の様に繰り返していた。
予想通り足枷は見えず、均整の取れた長身と整った目鼻立ちはその位置からも確認できた。
王太子は手に何か持っている事を仕草で伝えると、こちらに向けてそれを放り投げた。
放物線を描いてそれは池を越え、受け取ろうと両手を伸ばした王女の手をすり抜け、王女の額に小気味良い音をたてて衝突し、地面に落ちた。ラタが拾い上げるとそれは布張りの小箱で、中を開けるなり王女は感激に目を見開かせた。
「私の好きな石を、覚えていて下さったのだわ…」
紅い貴石のはめ込まれた可愛らしい銀色の腕環だった。
震える手で王女が持ち上げると、華奢な銀の鎖がサラサラと涼しい音を立てた。
一体いつの間に準備したんだ、と驚いている私を更に驚かせるべく、王女は池に向かって突進し始めた。
「ちょっ…!何なさるんですか!」
王女だろうが気にしていられない。私はラタと二人で王女を低木の陰に引きずり戻した。
「王太子様に御礼をお伝えしたいわ!放して頂戴。」
「私が伝えときますから!門番に見つかったらどうするんですか。……痛っ、引っ掻かないで下さい!」
「お誕生日なのよ。わたくしの方こそ何か差し上げるべきなのに。」
王女は突然あっ、と可愛らしい声を上げると自分の胸に手を当てた。
やっと状況を悟ってくれたのだろうか。
「わたくしを差し上げれば良いんだわ。」
瞬間、私は王女の言わんとする事が理解できなかった。が、理解するなりラタと再度恋に飢えた王女を押さえ込みにかかった。
「お放し、無礼者。王太子様がわたくしを待っているわ!…そ、そうよ、既成事実を作ってしまえば、簡単だわ。身も心も王太子様の妃になってしまえば…!」
何を口走っているんだ、この王女は。
ラタもいつに無く血相を変えて主を止めるのに必死だった。
「メルティニア様、小説の読み過ぎです。だからあれ程本ばかり読むなと申し上げたのに!」
その通りだ。バルコニーを乗り越えて男女の関係になるのはロミオに任せておけ。だいたい、どうやって二階のバルコニーに上がるんだ。
私とラタは夢見がちな年頃の子を持つ親の気分で、猛烈な労力と時間を費やして王女を宥めすかし、脅し、叱り、懇願し、怯え、どうにか王女が王宮へお引き取り願う事に成功した。




