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超至近距離で視界に入るーーーというより視界を埋め尽くすーーー美形というのは目に毒だ。
私の思考は私を覗き込む灰色の瞳に吸い取られてしまい、大佐の言葉は意味をなさないバラバラの単語に分かれて頭の中を駆け巡った。
「冷徹…?殿下はわがままですが…お優しいです。」
私がそう言うと大佐は一瞬何かにもがき苦しむ様な表情をした。
「そうだな。……殿下の話では無い。」
じゃあ誰のだ、という問いはできなかった。私の中に大佐の話を理解する事から逃げたい、と思っている自分がいたのだ。
奇妙なことに、私を見つめる大佐の灰色の瞳と、王太子の緑色の瞳が私の記憶の中でだぶった。どうして大佐が王太子と同じ様な感情をその眼差しに乗せて、私を見るのだ。いや、まさかまさか。気のせいだ。大佐は女性に興味が無いはずだもんな。
私は肩に張り付いて動かない大佐の手から、離れたいと思ったが、私の足も地面にくっついたかの様に動かなかった。
大佐の右手が私の髪にそっと触れ、絡み付いた。私の心臓が存在を主張して激しく鼓動した。私の髪に何の用だ。
それは恐らくほんのひと時の事だったが、私には全てがスローモーションの中にある気がした。
ふいに木立を大きく揺らす強い風が吹いた。池のほとりを取り囲む木々の枝がしなる様に動き、無数の葉が引き千切られて夜空に持っていかれた。月光虫の白いあかりが、一斉に絞られて暗くなる。
視線を戻すと大佐の手はもう私から離れていた。大佐は軽く目を閉じて深く息を吐き、再び開かれたそれはもう先刻までの熱のこもった眼差しでは無く、いつもの感情の窺えない切れ長の物に戻っていた。
私達の間に突如漂っていた奇妙な空気はかき消えていた。どこかほっとしながら、私は強風で乱れた髪を後ろに撫でつけた。
大佐は顔だけ横に向け、再び明るさの増した月光虫の群れに視線を投げていた。見れば大佐の編み込みヘアスタイルは案の定、僅かな乱れも無い。沈黙が流れた。
場のぎこちなさを埋めようと見切り発車で口を開いた私は素っ頓狂な質問を大佐にしていた。
「凄くめんどくさ…技術が要りそうな髪型をいつもされてますね。ご自分で結わいてるんですか?」
大佐は月光虫を見つめたまま答えた。
「乱れて視界の邪魔になる事が、戦地で命取りになる事もある。…確かに面倒ではあるな。」
慌てて言い換えたのにばっちり聞かれてたらしい。
私は夜風に再び弄ばれた自分の髪を押さえた。
「私の髪は硬いので、そんな風には結わけません。」
大佐は私の髪に視線を戻すと、その視線の先に向かう様に右手をこちらに持ち上げかけ、途中で止めると拳を握りしめてゆっくり又手を下ろした。
「…エリ、タラントに滞在中はケインとタラント神殿に行くそうだな。その時は必ずカイを同行させるんだ。」
私は軽い調子で頷いた。その軽さに不安を覚えたのか、大佐が念を押してきた。
「お前は無防備なところがある。ケインと二人きりにならぬよう、気を付けるんだ。」
「大佐はケインさんが私に…危害を加えると?」
「そうでは無いが…。ケインは何を考えているか分からないからな。今はお前を帰そうと必死になっている様に見えるが。基本的に他人に興味を持てない人間だ。」
私はふと引っ掛かるものがあった。確かにケインは理解し難い男だった。他者からもあまり良い意味では興味を持たれなそうな男だと思う。彼自身も自分しか見えていないのだろう。
しかし、だとすれば…。腑に落ちない。
「ケインさんは普通に女性に興味があるんでしょうか?」
大佐は微かに目を見開いた。
「……どういう意味だ?」
「ケインさんには恋人なんて本当にいるんでしょうか。」
私は大佐の目が私の視線から逃げる様に一瞬逸らされたのを見逃さなかった。
大佐は何か隠している!
「大佐、何かご存知なら教えて下さい!」
私の身にもなってくれ。ライフラインがあんな男なのだから。
大佐は溜め息と共に言った。
「聡いな。…あの後少しケインの身辺を調べた。私が分かり得た範囲ではケインに恋人はいない。」
大佐の調査に漏れがあるわけが無い。ケインには十中八九、恋人がいない。でもそんな、馬鹿な。
「おかしいじゃないですか!彼は恋人を夜勤に呼ぼうとして人体移動術をやってしまったはずですよね!?なのに、恋人がそもそもいなかったという事は、彼は何を地下倉庫でしていたんですか?」
「少なくとも褒められた事では無いだろう。咄嗟についた偽りも脆いあたりがケインらしいが。だが今のところケインはエリの意思に沿おうとしている。下手に刺激するのは得策ではない。決してケインをこの件で問いただそうとはするな。何をしでかすか分からない男だ。今は術の完成だけ任せておけ。」
私は今知った事実をどう消化すれば良いのか分からなかった。ケインは何を隠しているのだろう。
私はあれこれ思索した。
折角の月光虫も、単なる灯りにしか見られなくなってしまった。
大佐は木に寄りかかって私を見ていた。大佐はいつまでここにいるつもりだろう。彼はもう月光虫を見ていない。そう思ってすぐに気付いた。私が帰るまでいるつもりなのだろう。
「サハラが心配しますので、もう戻ります。」
「部屋まで送ろう。」
その夜はケインの事や大佐の挙動不審ぶりに頭の中が混乱してなかなか寝付けなかった。
幾度も寝返りをうち、水を飲んだりトイレへ行ったりを繰り返し、私は特大の月光虫が辺りを輝かせている池の周りで笑い声を上げている少年と女性を見たーーーこれは夢だ、公爵の見た過去を覗いているーーーそう思った矢先にサハラに起こされた。
よく眠れずぼうっとする私の頭の中を反映したかの様に、朝から鈍色の雲が分厚く空を覆い、出発の頃には南国のスコールを彷彿とさせる土砂降りとなっていた。
大粒の雨が叩きつける馬車の窓からは残念ながらろくに外の景色が見れなかったが、睡眠不足の私は馬車が動き出すなり眠ってしまった。
「エリ様。休憩時間ですので、外にでましょう。」
そっとサハラに起こされた私は何時の間にか毛布をかけられていた。雨はその勢いを緩めてはいたものの、先に馬車から降りたサハラが大きな傘を開いて私を入れてくれる僅かな間にも髪から雫が滴り落ちていた。
昼食は地方貴族の館でいただく事になっていて、傘をさした一行がさほど大きくはないが、堅牢なつくりの屋敷に一斉に向かって行った。傘の下から見れば馬車の御者は勿論のこと騎乗している近衛兵達は頭から爪先まで雨で濡れていた。雨よけらしき外套を着込んではいるものの、長い髪からひっきりなしに滴る水は見ているだけで寒そうだった。そんな過酷な状況でも兵達は皆姿勢良く馬にまたがり、雨を感じさせない無駄の無い動きをしていた。キツイ仕事だ。頼まれても代わりたく無い。
泥がはねて台無しになった自分のドレスに機嫌を悪くしたユリバラ王女が侍女に当たり散らし、その様子を小馬鹿にした様子で見つめるメルティニア王女を眺めながら私は昼食を食べた。




